第27話 『夏が、まだ続いている』
試合前夜、石原翔太は自宅の机に肘をつき、いつもの黒いノートを広げていた。
「配球ノート」とだけ書かれたその表紙には、すでに何度もページをめくった痕跡があった。
ペンを握る右手は、汗ばんでいるのか、たまに滑って文字がかすれる。
明日の相手、瑞陵学園。
県内屈指の強豪、そして上位打線は例外なく強打者ばかり。
特に六番──右の長距離砲・水原。
こいつをどう抑えるかが、試合を左右する。
「……初球、外角ストレートで様子を見るか。でもアイツ、逆方向も打てるんだよな」
石原はそうつぶやきながら、ノートにいくつかのパターンを書き込んだ。
水原はカウントを稼がれると、踏み込んで打ちにくるタイプ。
それを逆手に取り、追い込んでから落とす球──そう、球児のフォークが有効なのは間違いない。
でも。
「ここでフォークを使いたい気持ちを“ぐっと飲んで”、インハイ」
この選択ができるかどうかが、勝負だ。
それは、ピッチャーを“信じる”こと以上に、ピッチャーに“信じさせる”覚悟。
石原はその行に二重線を引き、そしてページを閉じた。
──そして、試合当日・六回表。
ランナー二塁。
一点リードの緊張した場面で、水原がバッターボックスに立つ。
スタンドのざわめきの中、球児がマウンドからサインを覗く。
石原は、ゆっくりとミットを上げた。
位置は──高め、内角。真っ直ぐ。
一瞬、球児の目が「それでいいのか?」と問いかけてくる。
でも、石原は微動だにせず、ミットを動かさなかった。
──投げろ。信じろ。お前なら行ける。
球児は、ほんの少しだけ口角を上げて、うなずいた。
その顔には、いつもの寡黙な険しさではなく、どこか任された男の顔があった。
──バシン。
音がグラウンドに響いた。
水原は反応すらできずに見送った。
ストライク。会場がどよめく。
石原の口元にも、わずかに笑みが浮かぶ。
「ナイスピッチ」じゃない。
「ナイスコンビ」だったな。
九回表、二死。スタンドはどこか、静かすぎるくらいだった。
あと一人──その言葉が、誰の声でもなく空気に染み込んでいる。
石原翔太は、マスク越しに球児の表情を見ていた。
(どうする……最後の一球)
スコアは1対0。決勝進出がかかっていた。もちろん、勝利も。
相手は瑞陵学園の四番。今日、二打席はフォークで空振りを取っている。
だが4打席目の今、この一球だけは、どうしてもフォークを投げさせたくなかった。
「逃げたくないんだよな……俺も、お前も」
石原は小さく、だがはっきりと、インコースへのストレートのサインを出す。
そのときの球児の目。
一瞬だけ、眉がほんのわずかに動いた気がした。けれどすぐに、小さくうなずく。
──了解。
それはまるで“答え合わせ”のようだった。
同じ問題に向き合って、同じ解を出した二人。
球児のグラブが大きく振りかぶられ、石原はミットをインハイの高さに構える。
(あの高さ……打てるもんなら、打ってみろ)
心の中でだけ、強がるように思う。
胸が高鳴る。手汗がにじむ。呼吸は浅い。
だが、それでも背筋を伸ばしてミットを固定した。
風が止むような一瞬。
そして──ズバン、とミットに吸い込まれる直球。
打者のバットは動かなかった。
見逃し、三振。
球審の右手が空を切る。グラウンドが沈黙し、そして歓声が爆発する。
石原は、ただゆっくりと立ち上がった。
マスクを取らず、球児のほうを見た。
「……ナイスピッチ、じゃないよな」
ぽつりとつぶやく。
あれは、ピッチャーひとりの勝利じゃない。
サインを出したキャッチャーと、うなずいたピッチャー。
両方が、“逃げなかった”一球だった。
試合後。
ロッカールームの隅、石原は自分の配球ノートを開いた。
九回の最終打者の欄に、こう書き加える。
「フォークじゃなくて、ストレートにしたのは……逃げたくなかったからだ」
「お前も、わかってただろ? あのインコース」
「キャッチャーの仕事は、信じるだけじゃない。“信じさせる”ことだ」
欄外のメモは、いつになく丁寧な字だった。
ロッカールームでスパイクを脱ぎながら、石原はまた例のノートを開いた。
“六回・水原への配球”のページの欄外には、いつものように一文を記す。
「キャッチャーの仕事って、信じるだけじゃない。信じさせるんだ」
「ナイスピッチ、じゃない。ナイスコンビ、だったな」
その文字を見て、石原はマスクを膝にのせた。
「次も頼むぞ、相棒」と、誰にも聞こえない声で呟きながら──。
■
九回表、二死。あとひとつ──その場面で、三島大地は自分の足元を見た。
真っ白だった新品のスパイクは、もうつま先から土に染まっていた。汗と土と、あとは叫び声。全部、今日という日の証だった。
「……次、ファーストゴロか、フライか、三振か。なんでも来いよ」
ベンチから出てくる声に背を向け、三島は自分の呼吸だけを聞いていた。
右足を少しずつ土に沈める感触。左足の踏ん張り。グラブを構える指の硬直。それらが合図のように、彼の中に“静寂”が訪れる。
そして──スパイクの音が、鳴った。
カツッ。
球児の投げたストレートに対し、打者が空振りをした瞬間、後ろのバックネットがかすかに揺れた。
キャッチャーミットの音が遅れて届く。その前に、三島の足元で鳴ったスパイクの一音が、彼の鼓膜に真っ直ぐ響いていた。
「終わった……な」
声は出なかった。喉が詰まっていた。言葉にするより先に、肩の力が抜けた。
それでも──
チームメイトたちが駆け寄る中、三島はほんの一歩、誰よりも先に球児に向かって走った。
叫ばなかったのは、泣きそうだったからじゃない。
その背中が、何も言わずに全部を語っていたからだ。
──背番号1。
その数字は、今日だけじゃない。ずっと彼が支えてきたもの。
でも、今日やっと気づいた。
あの背中には、俺たち全員の想いが乗ってたんだ。
球児にタッチをするわけでもなく、言葉をかけるわけでもなく、三島はただ隣に並んで立った。
ベンチへ戻る道。風が吹いた。ふたりのスパイクが、カツカツと土を蹴る音だけが響く。
「お前さ……ちゃんと背負ってたな」
それが、三島の精一杯の“ありがとう”だった。
■
あとひとつアウトを取れば、桜が丘は決勝進出。
ベンチ端、飯塚大貴は汗ばむ手を何度も膝で拭いながら、それでもスコアブックから視線を逸らさなかった。
ペン先が、わずかに震える。
「緊張してるのか?」と聞かれたら、きっと「いや、別に」と答えるだろう。
彼はいつも通り、言葉数少なく、黙って数字と向き合う“データ係”だった。
だが──
「……鼓動が、うるせえんだよ」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
アウトカウントを記す指先。
ピッチャー風祭球児の球数は、ついに90を超えていた。
ストレート、スライダー、そして要所で落とすフォーク。
どれも数値的には変化量に大きな差はない。だが、飯塚にはわかっていた。
――今日は、全部“生きてる球”だった。
七回、レフト前の当たりを三島が全力でカバー。
八回、ショート滝川の強肩でのアウトが、ピンチを断ち切った。
点が入るたびに、守備が躍動するたびに、飯塚はスコアの横に小さな「・」を打った。
それは、彼なりの“心が動いた瞬間”の印だった。
気づけば、その「・」はいつもの何倍もの数がページに散らばっていた。
九回裏、打者が空振り三振に倒れたとき──
スタンドが湧くより先に、飯塚は静かにスコアブックを閉じた。
「これで、終わったわけじゃない。でも……」
静かな声で、ぽつり。
「今までで、一番すげえページ、書いたな」
彼は最後に、ページの余白にこう書いた。
「傍観者でいい。でも、このチームのこと、全部知ってたい」
誰よりも冷静に、誰よりも静かに、
でも誰よりも強く、鼓動を鳴らしていた飯塚の手の中で、スコアブックがふっと温かくなった気がした。
それは、数字を超えた“記憶”の重さだった。
■
決勝進出が決まった試合終了後、整列を終えた球児たちが戻ってくる。
誰かが帽子を軽く振りながら、誰かが背中を小突き合いながら──完全試合を成し遂げたチームの、誇り高く、けれどどこか「少年らしさ」を残した帰還。
桜が丘のベンチに、そのすべてを無言で出迎えた男がひとり。
風祭修司。
監督であり、そしてエース・風祭球児の実の父親だ。
球児が整列から戻ってきた瞬間、修司は無言で帽子を持ち上げて、ほんの少しだけ、うなずいた。
言葉はいらなかった。
いや、言えなかったのかもしれない。
ベンチにひとり残り、試合後の用具の片づけを待ちながら、修司はスコアブックの横に置いていた古びたメモ帳を開いた。
ページの端には、ボールペンで今日の日付と、「準決勝」の文字。
そして、その下に静かにペンを走らせる。
「風祭球児──9回、112球、決勝進出達成」
「ストレートとフォークの比率、4:6。制球◎。変化球のキレよりも、直球の強さが光った」
「試合を“投げ切った”のは球児。でも、“預け切った”のは俺だったかもしれない」
ふと、ペン先が止まる。
試合中、何度もあった「サインを送るタイミング」が、今日は一度も訪れなかった。
気づけば、石原と球児がすべての意思疎通を成し、修司はただ“見ていた”。
それが、「監督として正しい姿」なのか──
それとも、「父としての寂しさ」なのか。
答えは、いまだに出ない。
ベンチの奥で、誰もいなくなったグラウンドを見ながら、修司は帽子を手の中で握り直す。
そのクセは、球児とまったく同じだと、よく言われる。
「もう、俺の背中なんて見ちゃいねぇよな……」
低く、呟いた。
けれどその後に、確かな熱をこめた声が続いた。
「……でも、それでいい。前だけ見てりゃいい。だけどな、球児。お前がどこまで行っても、俺はずっと“後ろ”にいるから」
帽子のつばが、ぎゅっと曲がる。
それは、息子の球速にはもう追いつけない、でも同じスピードで“背中を押してやりたい”という父の、唯一のやり方だった。
メモ帳の余白に、ひとつだけ、誰にも見せない走り書きがある。
「親ってのは、不器用だ。言葉より先に、帽子が動く」
それでも今夜は、その不器用さをちょっとだけ、誇ってもいい気がしていた。
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