第22話 『ゼロの先にあるもの』
三回戦・桜が丘高校 対 北浜西高
夏の日差しはまだ高く、球場の屋根の影が一塁ベンチまで届かない。
スコアボードには、試合開始から“0”が並んでいた。
0-0。
試合は緊張感のまま五回を終え、迎えた六回裏──ついに、スコアが動く。
「三島、頼んだぞ」
そう呟いたのは、ベンチの修司だった。
先頭の三島が、初球を叩く。
乾いた打球音。センター前ヒット。
「ナイスバッティン!」
ベンチが沸く中、次打者・藤木が送りバントを成功させ、一死二塁。
続く小野寺は空振り三振。しかし四番・石原が冷静だった。
(ここで、俺が一本出せば──)
初球、高めの変化球を捉えた。
打球はライト前へ鋭く落ち、二塁から三島が一気にホームイン!
「一点! 桜が丘、先制です!」
スコアボードがついに動いた。
1-0。
ベンチの修司は言葉もなく、帽子のつばを指先で軽く押さえた。
(……こういう点が、一番重い)
グラウンドでは、石原がヘルメットを脱ぎながら一言。
「やっぱ、送りバントが効くんだよな。バントも愛と勇気だし」
「自分で言うなよ」と三島が笑う。
その裏、七回・八回と球児はテンポ良く打者を封じていく。
そして最終回、九回表。
ツーアウトランナーなし。
バッターは、相手チームの四番。
石原がミットを構え、球児がうなずく。
振りかぶり、ステップ、腕を振る。
――ストンッ。
低めに落ちる、鋭いフォーク。
打者のバットが空を切り、主審の手が高く上がった。
「ストライク、スリー! バッターアウト!」
場内が、ひと呼吸の静寂を挟んで歓声に包まれる。
「完封だ、球児!」
石原がマスクを脱ぎ、駆け寄ってくる。
ベンチでは、修司がゆっくりと立ち上がり、帽子のつばに手を添えた。
そのまま無言で、軽くうなずく。
球児は小さく笑い、肩をすくめた。
「……今日は、ちゃんと“守って勝てた”気がする」
試合が終わって、観客席からの拍手がまだ残る球場の外野スタンド裏。
ベンチへと続く細い通路を抜け、ひとけの少ないスペースに、石原と球児は二人並んでいた。
帽子を片手に持ち、額の汗をタオルで拭う石原が、ちらりと横を見る。
「……完封、おめでとう」
風祭球児は、タオルで顔を覆っていた手を下ろして、少し照れたように笑った。
「ありがと。……でも、あれ、石原のおかげだから」
「ふーん。そりゃどうも」
ぶっきらぼうな返事だったけれど、石原の口角は、ほんのわずかに上がっていた。
しばしの沈黙。グラウンドの方からは、次の試合に向かうチームの掛け声が聞こえる。
球児がポツリと口を開いた。
「なあ……今日のフォーク、ちゃんと落ちてた?」
石原は一度だけうなずいた。
「落ちてた。……っていうか、落としてくれた」
「ん?」
「お前さ、前は“落とさなきゃ”って焦ってる球が多かった。でも今日は違った。任せた、って感じ」
球児は少し目を見開いて、それからゆっくり息を吐いた。
「たぶん……誰かがちゃんと受けてくれるって、思えたからかも」
「……ふーん。マネージャーか?」
「いや、石原だよ。……お前、たまに怖いくらい冷静だし」
石原は笑った。少し、照れたように。
「俺が捕れなかったら、お前のフォークはただの暴投だ。……だから怖いのは、お互い様」
「……そっか」
風祭はふと、グラブを見つめて、ぽつりと呟いた。
「……なんかさ、ようやく“背番号1”が、背中に馴染んできた気がする」
石原は何も言わなかった。
けれど、その沈黙が、風祭の言葉を肯定していた。
しばらくして、ベンチから三島の呼ぶ声が響いた。
「おーい! 監督が点呼はじめてるぞー!」
石原は歩き出しながら、ひとことだけ残した。
「次も、ちゃんと投げろよ。俺が全部、受けるからさ」
それを聞いた風祭は、心の中で静かにうなずいた。
夏は、まだ終わらない。
そして──背番号“1”の重みは、もう“ひとりじゃない”。
整列後、ベンチに戻る途中で、千紗が紙コップに麦茶を注いで差し出す。
「塩、入ってるからね。今日はちょっと、甘さ控えめかも」
「うん……」
紙コップを受け取った球児が、ひとくち飲んで顔をしかめた。
「……いや、塩、けっこう強いなこれ」
「……気のせい、だよ」
夕焼けがグラウンドに差し込む中、二人は笑い合う。
“ゼロ”を背負って勝ち抜いたエースの背中に、吹いた夏の風は、少しだけ優しくなっていた。
■
試合が終わって、観客も引き、グラウンドはほとんど無人になっていた。
夕方の光がスコアボードを淡く照らす。
「1-0」。
それが、今日の全てだった。
風祭修司は、まだ誰も戻っていないベンチの一角に腰を下ろし、しばらく何も言わずにそこにいた。
帽子を膝に乗せたまま、視線だけはじっとスコアボードを見つめている。
風が通り抜ける。ベンチの奥のブルペン用扉が、かすかに軋んだ。
「……完封か」
小さくつぶやいた。
喜びや興奮ではない。ただ、事実として、そう確認するような声だった。
あの背番号“1”が、最後まで崩れなかった。
あのフォームが、マウンドに根を張っていた。
それを見守っていたベンチの静けさ──
そして今、その静けさだけが、まだここに残っていた。
「強くなったな、球児……」
呟いたあとの沈黙は、どこか穏やかで、でもほんの少しだけ寂しさも混じっていた。
かつて、自分もこのスコアボードの下に立っていた。
勝ちたくて、叫んで、打たれて、投げた。
でも、今日の球児は、叫ばなかった。ただ、静かに“勝った”。
「俺の教えなんか、たぶん、もう要らねぇのかもな」
それは悲しみではなかった。
きっと、それが“親”であり、“監督”という立場のあるべき姿なのだと──そんな風に思った。
修司は、帽子をかぶり直し、ゆっくりと立ち上がる。
スパイクの音が遠くから近づいてきた。どうやら選手たちが戻ってくるらしい。
ベンチを離れながら、彼は最後にもう一度だけ、スコアボードを見上げた。
そして、こう呟いた。
「ありがとうな、球児。……あの“ゼロ”が、お前の答えだったんだな」
その言葉は、誰にも届かなかったけれど。
たしかに、夏の空にしずかに溶けていった。
■
今日は三回戦。
相手は堅実な守備と機動力が持ち味の、いかにも“負けたくない”チームだった。
試合前の円陣、風祭くんは何も言わなかったけど──
ほんの一瞬、スパイクの底で土を踏みしめた。
まるで、「ここに立つ」ってことを、確かめるように。
【観察日記・6回表】
“ランナー三塁、追い込んでから外のストレート。いつもより、少し長くミットを見てた”
“ベンチに戻ったとき、石原くんと肩を小さくぶつけてた。笑ってはいなかったけど、目が合ってた”
【観察日記・6回裏】
石原君が打ったタイムリー。
歓声にまぎれて、風祭くんが少しだけ帽子を深くかぶりなおした。
“多分、うれしかったんだと思う。顔には出てなかったけど、マウンドに戻るときの背中が、ちょっと弾んでた”
【観察日記・最終回】
“最後の三振、風祭くんは振り返らなかった。でも、ミットの音が鳴った瞬間、肩が少しだけ緩んだ”
“整列中、風が吹いて、帽子のつばが少しだけ揺れた。スパイクの音は、まっすぐだった”
そして最後に、今日の一文。
「今日の風祭くん:勝つってことを、“守る”ことで見せてくれた」
ゼロという数字に込めた、覚悟と静けさ。
私だけは、ちゃんと見てたからね。
──千紗の観察日記・その14より
■
試合が終わり、荷物をまとめて帰宅した後の夜。
石原翔太はいつものように、自分の机に座り、黒い表紙のノートを開いた。
表紙には、金のペンでこう書いてある──
「CATCHER'S LOG」
このノートは、誰にも見せない。
ただのメモ帳じゃない。今日の試合で「何を考え、何を感じたか」を記す、石原だけの記録だ。
《1回表》
緊張が少し見えた。初球、フォークを要求したけど外れた。
でも、そのあと自分から「首振って」ストレートを選んだの、見逃さなかった。
あれ、たぶん俺のリードを超えて、“風祭の試合”にするつもりだったんだと思う。
《4回裏》
チームが先制。俺自身が決めたタイムリー、最高だった。
マウンドに戻るとき、風祭が一瞬こっち見た。言葉はなかったけど、
「次、俺が守る」って目が言ってた。
《7回裏》
ノーアウト二塁。フォークを使いたい場面だった。
けど俺はインハイを構えた。ギリギリのところを突く勇気、あるかどうかを賭けた。
──投げた。あいつ、自分の肩信じてくれた。
「七回裏、フォークに頼らずインハイで勝負してくれたの、あれは信じた証拠」
《8回表》
ベンチの雰囲気がすっと引き締まった。静かだったけど、誰も諦めてなかった。
その静けさが、風祭にうつった気がした。
あいつの投球テンポが、いつもより早かった。
声じゃなくて、
「ミットの音だけで伝わった。あれが風祭のテンポ」
《9回表》
最後の三振。俺が構えたのはフォークだった。
あの球は、落ちる球じゃない。
「フォークって、落ちる球じゃない。あれは、覚悟の球だ」
欄外に、何度も書いては消して、最後に残した言葉がある。
「完封って、ピッチャーひとりじゃできない。俺たち、ちゃんと“組んでた”」
石原はノートを閉じて、そっとキャッチャーミットに手を置いた。
「お前も、よく捕ったな」
小さくつぶやいて、部屋の明かりを消す。
この日の記録は、誰に見せるわけでもない。
でも、あのマウンドの背中とだけは、きっと分かり合えている──そう思えた夜だった。
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