第19話 『この一球が、未来を変える』

 夏の陽射しが、白線を照り返していた。




 県大会初戦、相手は白川南高校──堅実な守備と技巧派エースで知られる中堅校。


 観客席には生徒や保護者が並び、桜が丘の応援団もポンポンとリズムを刻んでいる。




「頼んだぞ、風祭……」




 主将・三島がマウンドに立つ球児の背中を見上げ、小さく声をかける。


 その声が、球児の耳に届いていたかどうかはわからない。




 初回。


 球児の立ち上がりは固かった。スパイクがほんの少し地を掴まず、球のキレが沈む。


 先頭バッターに初球を中前に運ばれ、続く二番に四球。ノーアウト一・二塁。




 石原がマウンドへ駆け寄る。




「力、入ってんじゃん。落ちる球、投げんなよ。ストレートで押せ」




 球児は目を伏せたまま、無言でうなずいた。




 ベンチでは、修司が腕を組み、じっと見ていた。


 監督として──そして、父として。


 だが彼の口からは何も発せられない。ただ、帽子のつばが少しだけ深くなった。




 結局、風祭は超速球のストレートを投げ込み三番、四番、五番と相手チームのクリーンアップを三者三振に打ち取りピンチを凌いだ。ピンチになってからギアが上がった形でのスタート。







 4回表。


 1アウト一塁の場面で、セカンド松井がファンブル。ボールがショートに転がり、慌てた滝川も送球を逸らす。


 ボールはベンチ横まで転がり、その間に走者がホームイン。スコアは0-1。




「ったく、あれは取れる球だろ!」




 観客席から怒号が飛ぶ。だが、ベンチからはただ静かな視線。




 修司は、黙ってつばを指先でつまんだまま、立ち上がらない。


 冷たいようでいて、見捨てているわけでもない。




 むしろ──信じていた。


四回表、ランナーは二塁。一死。




 風祭の投じたカーブに、相手5番打者が食らいついた。打球は三遊間の真ん中、微妙な位置に転がる。




 ショートの滝川が横っ飛びで抑え、すぐさま立ち上がって一塁へ送球――の、はずだった。




 しかし、打球がグラブの先をかすめてこぼれた。セカンド・松井がカバーに入っていたが、送球先のファーストと意識が食い違い、ワンテンポ遅れる。




 その一瞬の綻びで、二塁ランナーが一気にホームを陥れた。




 「セーフ!」




 塁審のコールが響く。




 1点先制を許した。守備ミスによる失点。それは、数字に残るエラーではなかったが、チームの空気に確かに傷をつける一球だった。




 ベンチでスコアブックを握っていた風祭修司は、その瞬間、深く帽子のつばを下ろした。




 誰にも、その表情は見えない。




 選手たちはきっと、「怒っている」と思ったに違いない。あるいは、落胆や呆れかもしれないと怯えたかもしれない。




 だが、それは違った。




 あの沈黙は――“信じるための時間”だった。




(……俺が動揺したら、あいつらも崩れる)




 そう思いながら、修司は黙ってマウンドの風祭球児を見つめていた。




 歯を食いしばり、肩で息をしている。帽子のつばの奥からでも、それはわかる。




 守れなかった。自分の球を、味方の手で失点にしてしまった。それでも、次の球を投げなければならない。




(そこで崩れたら、あいつは“ただの投手”だ)




(崩れずに続けたら、ようやく“エース”に近づける)




 修司は、ベンチに誰も気づかれないくらい小さく息を吐いた。




 帽子のつばをほんの少しだけ上げ、ふたたび試合を見据える。




 「……ここからだぞ、風祭」




 その声は、風の中に消えたかもしれない。




 だが次の瞬間、キャッチャー・石原が立ち上がり、ピッチャーマウンドへ向かっていった。




 そして、いつものように三島の声が飛んだ。




 「取り返そうぜ! 俺らの野球、ここからだ!」




 修司の帽子のつばは、もう下がることはなかった。







 その裏、先頭の三島が内角球を左前に運び、続く石原がセンターオーバーの二塁打。


 一気に二人がホームを踏み、逆転。ベンチが沸いた。




「よっしゃああああああああっ!!!」


 浜中がベンチでタオルを振り回す。




 歓声の中、マウンドで球児は一つ、息をついた。




「背負いすぎんなよ、風祭」


 石原がマスク越しに微笑んだ。




「次は、お前のピッチングでいい。落としていい。お前の“あの球”で」




 球児は、ほんのわずかに頬を緩めた。




 そして、次のバッターに対して放ったフォークは、これまでで最も鋭く沈んだ。


 空振り三振。スコアボードにはゼロが灯る。


――四回裏、ベンチを飛び出す前の数秒。三島大地は自分の手のひらを、そっと握りしめた。




 汗ばんだスパイクが、土の感触を伝えてくる。グラウンドの熱気。応援席から届く拍手。そして、スコアボードに並ぶ、たった「1」の数字。




 それは失点の「1」だった。




 守備での連携ミス。いつもなら声をかけて立て直せたはずなのに、あの瞬間、自分は一瞬だけ目を伏せた。それが悔しかった。悔しさをごまかすように、ベンチ前で叫んだ。




「行くぞ! まだ始まったばっかだ! 声出せ、声!」




 声が裏返るくらい張り上げて、自分の中のざわつきをかき消そうとした。




 ――正直に言えば、不安だった。




 ここまで来るのに何年かかった。自分たちの野球は、本当に“勝っていい”レベルに届いたのか。格上とされる白川南に、どこまで通用するのか。




 それでも、声だけは止めなかった。




「集中しろ! 一点なんかで下向くな!」




「藤木、バントじゃなくていいぞ、思いきって振ってけ!」




 そう言いながら、心の中ではずっと叫んでいた。頼むから、誰か、繋いでくれ。振り払ってくれ。この流れを。




 そのときだった。石原が、軽くバットを構え直し、低めをすくい上げた。打球は、左中間を真っすぐ割っていった。




「いけっ! 抜けたあああっ!」




 三島は咄嗟に叫び、自分もベースコーチのようにライン際まで駆けた。




 そして、次打者が初球を引っ張り、右中間へ。




 もう、自分の声が出ていたのかすら覚えていない。とにかく、球場が熱に包まれていた。




 気づけば、スコアボードには「2」の文字。




 逆転。




 三島はヘルメットを脱ぎ、空を見上げた。




 眩しい。けれど、そのまぶしさが今は嬉しい。




(……そうか。俺たちは、もう“勝っていい”チームなんだ)




 長いこと、ずっと“負けること”に慣れていた。どうせ届かない、どうせ無理。そうやってどこかで自分たちを安く見ていた。




 でも今日、違った。




 声は、自分の不安をごまかすためじゃなかった。誰かの背中を押すためにあったんだ。




「よし……まだまだ行こうぜ、桜が丘!」




 三島の声は、もう裏返っていなかった。静かに、力強く。彼自身が、その声で、自分をも前に押し出していた。




 その背中は、チームの“先頭”を走っていた。





 四回表──飯塚の手元のスコアブック、そのマス目のひとつが静かに埋められていく。




 (まずいな……)




 ベンチの端で、飯塚は眉をしかめた。




 セカンド松井のファンブル。


 慌ててカバーに入ったショート滝川が、焦ってファーストへ送球──しかしそれが逸れた。ボールはベンチ前のフェンスにぶつかり跳ね返る。ランナーは一塁を蹴り、ホームへ。




 痛恨の1点。




 打たれたわけじゃない。誰かが自分を責めるようなミスの積み重ね。それでも、スコア上では「1」が記される。




 《4回表:松井(二)ゴロファンブル→滝川(遊)送球ミス→一走生還》




 飯塚の手が止まる。




 (どう書いても……この1点は、消えない)




 普段は数字に淡々としていられる自分が、今日はなぜか、ペンを握る手がじんわりと重かった。




 ふと、マウンドを見る。


 風祭が、誰も責めることなく、無言で次のサインを待っている。


 キャッチャー石原が、わざとらしくないほど自然に、ミットを少し前に出してやった。




 (……背中だけじゃなく、肩でも支え合ってんだな)




 そして四回裏。




 三島の快音が響き、石原の右前打が弾けた。スタンドが湧く中、飯塚はペンを再び握る。




 《4回裏:三島 左前安打/石原 右二(2打点)》




 スコア欄の余白。彼はそっと書き足す。




 「失点は書き換えられない。でも、得点は“誰かを救う数字”になる」




 ミスは帳消しにはならない。だが、次の一打で、チームは前を向ける。




 飯塚はページをめくりながら、静かにうなずいた。




 「今日の1点、重いっすね……でも、意味はあったと思いますよ、先輩」




 ──数字の先に、物語がある。


 スコアラーとして、それを記録する覚悟はもう、できている。











 四回裏、逆転の瞬間。


 三島先輩の快音と、石原くんの右打ち。


 歓声がグラウンドを包み、私はスコアブックを握りしめながら、それでも“もうひとつのノート”を開いていた。




 風祭くんは、いつものように静かにマウンドへ向かった。


 でも、私は気づいた。




 “逆転のあと、風祭くんのマウンドでの立ち方が変わった”




 さっきまでの彼は、少し肩に力が入っていた。


 でも今は違う。少しだけ、呼吸が深くなったように見えた。


 自分の足で、地面を踏んでいる感じ。




 “キャッチャーのミットを見つめる時間が短くなった”




 ミットをじっと見てから投げるまでの間。


 それが今日は、わずかに短かった。


 たぶん、信じてるんだと思う。


 石原くんを。自分の球を。そして、チームを。




 私はペンを止めずに、もう一文書く。




 “ベンチに戻るとき、帽子のつばを上げたのが見えた”




 風にあおられたのか、それとも意識してか。


 とにかくその瞬間、彼の表情が見えた気がした。


 その顔は、ちょっとだけ頼もしくて、そして……なんだか、嬉しそうだった。




 最後に、ページのすみっこにそっと書き足す。




 「今日の風祭くん:背番号“1”って、ひとりじゃないんだって、思えたのかも」




 私はペンを置く。


 そして、試合の続きを、息をのんで見守る。


 もう、この夏が、ただの“高校野球”じゃなくなってきた気がする。







 5回裏、修司がつぶやいた。




「……やっと“お前の球”になってきたな」




 帽子のつばの影からは、感情の色は読み取れなかった。


 だが、そのつぶやきは、たしかに球児の方を向いていた。







 ベンチで、千紗がそっと手帳を開く。




 “今日の風祭くん:初めて、投げるたびに顔が穏やかになってた”




 スコアボードの数字は、ただの点じゃない。


 この夏が始まった証だった。




 この一球が、未来を変える。


 そんな予感が、確かにグラウンドの空気を変えていた。




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