第19話 『この一球が、未来を変える』
夏の陽射しが、白線を照り返していた。
県大会初戦、相手は白川南高校──堅実な守備と技巧派エースで知られる中堅校。
観客席には生徒や保護者が並び、桜が丘の応援団もポンポンとリズムを刻んでいる。
「頼んだぞ、風祭……」
主将・三島がマウンドに立つ球児の背中を見上げ、小さく声をかける。
その声が、球児の耳に届いていたかどうかはわからない。
初回。
球児の立ち上がりは固かった。スパイクがほんの少し地を掴まず、球のキレが沈む。
先頭バッターに初球を中前に運ばれ、続く二番に四球。ノーアウト一・二塁。
石原がマウンドへ駆け寄る。
「力、入ってんじゃん。落ちる球、投げんなよ。ストレートで押せ」
球児は目を伏せたまま、無言でうなずいた。
ベンチでは、修司が腕を組み、じっと見ていた。
監督として──そして、父として。
だが彼の口からは何も発せられない。ただ、帽子のつばが少しだけ深くなった。
結局、風祭は超速球のストレートを投げ込み三番、四番、五番と相手チームのクリーンアップを三者三振に打ち取りピンチを凌いだ。ピンチになってからギアが上がった形でのスタート。
*
4回表。
1アウト一塁の場面で、セカンド松井がファンブル。ボールがショートに転がり、慌てた滝川も送球を逸らす。
ボールはベンチ横まで転がり、その間に走者がホームイン。スコアは0-1。
「ったく、あれは取れる球だろ!」
観客席から怒号が飛ぶ。だが、ベンチからはただ静かな視線。
修司は、黙ってつばを指先でつまんだまま、立ち上がらない。
冷たいようでいて、見捨てているわけでもない。
むしろ──信じていた。
四回表、ランナーは二塁。一死。
風祭の投じたカーブに、相手5番打者が食らいついた。打球は三遊間の真ん中、微妙な位置に転がる。
ショートの滝川が横っ飛びで抑え、すぐさま立ち上がって一塁へ送球――の、はずだった。
しかし、打球がグラブの先をかすめてこぼれた。セカンド・松井がカバーに入っていたが、送球先のファーストと意識が食い違い、ワンテンポ遅れる。
その一瞬の綻びで、二塁ランナーが一気にホームを陥れた。
「セーフ!」
塁審のコールが響く。
1点先制を許した。守備ミスによる失点。それは、数字に残るエラーではなかったが、チームの空気に確かに傷をつける一球だった。
ベンチでスコアブックを握っていた風祭修司は、その瞬間、深く帽子のつばを下ろした。
誰にも、その表情は見えない。
選手たちはきっと、「怒っている」と思ったに違いない。あるいは、落胆や呆れかもしれないと怯えたかもしれない。
だが、それは違った。
あの沈黙は――“信じるための時間”だった。
(……俺が動揺したら、あいつらも崩れる)
そう思いながら、修司は黙ってマウンドの風祭球児を見つめていた。
歯を食いしばり、肩で息をしている。帽子のつばの奥からでも、それはわかる。
守れなかった。自分の球を、味方の手で失点にしてしまった。それでも、次の球を投げなければならない。
(そこで崩れたら、あいつは“ただの投手”だ)
(崩れずに続けたら、ようやく“エース”に近づける)
修司は、ベンチに誰も気づかれないくらい小さく息を吐いた。
帽子のつばをほんの少しだけ上げ、ふたたび試合を見据える。
「……ここからだぞ、風祭」
その声は、風の中に消えたかもしれない。
だが次の瞬間、キャッチャー・石原が立ち上がり、ピッチャーマウンドへ向かっていった。
そして、いつものように三島の声が飛んだ。
「取り返そうぜ! 俺らの野球、ここからだ!」
修司の帽子のつばは、もう下がることはなかった。
*
その裏、先頭の三島が内角球を左前に運び、続く石原がセンターオーバーの二塁打。
一気に二人がホームを踏み、逆転。ベンチが沸いた。
「よっしゃああああああああっ!!!」
浜中がベンチでタオルを振り回す。
歓声の中、マウンドで球児は一つ、息をついた。
「背負いすぎんなよ、風祭」
石原がマスク越しに微笑んだ。
「次は、お前のピッチングでいい。落としていい。お前の“あの球”で」
球児は、ほんのわずかに頬を緩めた。
そして、次のバッターに対して放ったフォークは、これまでで最も鋭く沈んだ。
空振り三振。スコアボードにはゼロが灯る。
――四回裏、ベンチを飛び出す前の数秒。三島大地は自分の手のひらを、そっと握りしめた。
汗ばんだスパイクが、土の感触を伝えてくる。グラウンドの熱気。応援席から届く拍手。そして、スコアボードに並ぶ、たった「1」の数字。
それは失点の「1」だった。
守備での連携ミス。いつもなら声をかけて立て直せたはずなのに、あの瞬間、自分は一瞬だけ目を伏せた。それが悔しかった。悔しさをごまかすように、ベンチ前で叫んだ。
「行くぞ! まだ始まったばっかだ! 声出せ、声!」
声が裏返るくらい張り上げて、自分の中のざわつきをかき消そうとした。
――正直に言えば、不安だった。
ここまで来るのに何年かかった。自分たちの野球は、本当に“勝っていい”レベルに届いたのか。格上とされる白川南に、どこまで通用するのか。
それでも、声だけは止めなかった。
「集中しろ! 一点なんかで下向くな!」
「藤木、バントじゃなくていいぞ、思いきって振ってけ!」
そう言いながら、心の中ではずっと叫んでいた。頼むから、誰か、繋いでくれ。振り払ってくれ。この流れを。
そのときだった。石原が、軽くバットを構え直し、低めをすくい上げた。打球は、左中間を真っすぐ割っていった。
「いけっ! 抜けたあああっ!」
三島は咄嗟に叫び、自分もベースコーチのようにライン際まで駆けた。
そして、次打者が初球を引っ張り、右中間へ。
もう、自分の声が出ていたのかすら覚えていない。とにかく、球場が熱に包まれていた。
気づけば、スコアボードには「2」の文字。
逆転。
三島はヘルメットを脱ぎ、空を見上げた。
眩しい。けれど、そのまぶしさが今は嬉しい。
(……そうか。俺たちは、もう“勝っていい”チームなんだ)
長いこと、ずっと“負けること”に慣れていた。どうせ届かない、どうせ無理。そうやってどこかで自分たちを安く見ていた。
でも今日、違った。
声は、自分の不安をごまかすためじゃなかった。誰かの背中を押すためにあったんだ。
「よし……まだまだ行こうぜ、桜が丘!」
三島の声は、もう裏返っていなかった。静かに、力強く。彼自身が、その声で、自分をも前に押し出していた。
その背中は、チームの“先頭”を走っていた。
■
四回表──飯塚の手元のスコアブック、そのマス目のひとつが静かに埋められていく。
(まずいな……)
ベンチの端で、飯塚は眉をしかめた。
セカンド松井のファンブル。
慌ててカバーに入ったショート滝川が、焦ってファーストへ送球──しかしそれが逸れた。ボールはベンチ前のフェンスにぶつかり跳ね返る。ランナーは一塁を蹴り、ホームへ。
痛恨の1点。
打たれたわけじゃない。誰かが自分を責めるようなミスの積み重ね。それでも、スコア上では「1」が記される。
《4回表:松井(二)ゴロファンブル→滝川(遊)送球ミス→一走生還》
飯塚の手が止まる。
(どう書いても……この1点は、消えない)
普段は数字に淡々としていられる自分が、今日はなぜか、ペンを握る手がじんわりと重かった。
ふと、マウンドを見る。
風祭が、誰も責めることなく、無言で次のサインを待っている。
キャッチャー石原が、わざとらしくないほど自然に、ミットを少し前に出してやった。
(……背中だけじゃなく、肩でも支え合ってんだな)
そして四回裏。
三島の快音が響き、石原の右前打が弾けた。スタンドが湧く中、飯塚はペンを再び握る。
《4回裏:三島 左前安打/石原 右二(2打点)》
スコア欄の余白。彼はそっと書き足す。
「失点は書き換えられない。でも、得点は“誰かを救う数字”になる」
ミスは帳消しにはならない。だが、次の一打で、チームは前を向ける。
飯塚はページをめくりながら、静かにうなずいた。
「今日の1点、重いっすね……でも、意味はあったと思いますよ、先輩」
──数字の先に、物語がある。
スコアラーとして、それを記録する覚悟はもう、できている。
■
四回裏、逆転の瞬間。
三島先輩の快音と、石原くんの右打ち。
歓声がグラウンドを包み、私はスコアブックを握りしめながら、それでも“もうひとつのノート”を開いていた。
風祭くんは、いつものように静かにマウンドへ向かった。
でも、私は気づいた。
“逆転のあと、風祭くんのマウンドでの立ち方が変わった”
さっきまでの彼は、少し肩に力が入っていた。
でも今は違う。少しだけ、呼吸が深くなったように見えた。
自分の足で、地面を踏んでいる感じ。
“キャッチャーのミットを見つめる時間が短くなった”
ミットをじっと見てから投げるまでの間。
それが今日は、わずかに短かった。
たぶん、信じてるんだと思う。
石原くんを。自分の球を。そして、チームを。
私はペンを止めずに、もう一文書く。
“ベンチに戻るとき、帽子のつばを上げたのが見えた”
風にあおられたのか、それとも意識してか。
とにかくその瞬間、彼の表情が見えた気がした。
その顔は、ちょっとだけ頼もしくて、そして……なんだか、嬉しそうだった。
最後に、ページのすみっこにそっと書き足す。
「今日の風祭くん:背番号“1”って、ひとりじゃないんだって、思えたのかも」
私はペンを置く。
そして、試合の続きを、息をのんで見守る。
もう、この夏が、ただの“高校野球”じゃなくなってきた気がする。
■
5回裏、修司がつぶやいた。
「……やっと“お前の球”になってきたな」
帽子のつばの影からは、感情の色は読み取れなかった。
だが、そのつぶやきは、たしかに球児の方を向いていた。
*
ベンチで、千紗がそっと手帳を開く。
“今日の風祭くん:初めて、投げるたびに顔が穏やかになってた”
スコアボードの数字は、ただの点じゃない。
この夏が始まった証だった。
この一球が、未来を変える。
そんな予感が、確かにグラウンドの空気を変えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます