第1話 いつも通り?の朝
「……拓海、起きて。朝だよ」
やわらかな声が、耳の奥に届く。
まどろみの中でその響きを聞いた瞬間、俺は世界に戻ってきた。
「……何時?」
「七時すぎ。ちょっと早かった?」
「うん、大丈夫」
まぶたを開けると、ベッドの端にしのがいた。
寝癖ひとつない黒髪を肩に垂らし、きちんとしたワンピース姿のまま、微笑んでいた。
彼女の姿は、見慣れたはずの“いつも通り”だった。
なのにその“いつも”が、今朝はどこか作り物のように感じられた。
「カフェオレ、淹れてあるよ。ちょっと甘め」
差し出されたマグカップは、俺が好きなミルク多めのやつだった。
湯気の向こうで、しのの笑顔が少し揺れて見えた。
⸻
朝食はトーストとスクランブルエッグ。
テレビの音が部屋に響いているのに、ふたりの間には沈黙があった。
「今日、昼からだったよね?」
「うん」
「それまでは家?」
「うん。のんびりしてる」
彼女の声は、相変わらず穏やかで、柔らかい。
けれどその穏やかさが、どこか遠い。
俺たちは付き合って4年。
同棲こそしていないが、彼女が家に泊まることは珍しくない。
それでも、この朝の空気は妙に静かで、少しだけ息苦しく感じた。
⸻
「午後、出かけてくるね」
「うん。どこ行くの?」
「駅前。久しぶりに人と会うの」
「誰と?」
「……佐伯くん」
フォークの動きが止まった。
佐伯誠――大学のサークル仲間。
派手で社交的で、女の子にやたらとモテた男。
しのとは当時から仲が良かった。
「へえ、珍しいな。誘ったの?」
「向こうが仕事でこっち来るから、よかったらって」
「……そうなんだ」
しのはパンの耳をちぎって、小さく頷いた。
どんな顔をすればよかったのか、よくわからなかった。
別にやましいことじゃない。昔の友達と会うだけだ。
それでも心のどこかが、小さく鈍く響いた。
「行ってきなよ。せっかくだし」
「うん。ありがと」
その“ありがと”が、少しだけ寂しそうに聞こえた気がした。
⸻
午後。
スマホに届いたLINEを開くと、彼女からのメッセージがあった。
「今終わったー!いっぱい喋っちゃった笑」
メッセージには、カフェの中で撮ったらしい写真が添えられていた。
向かいの席に佐伯がいて、しのはその隣で軽く笑っていた。
笑顔は、たしかにいつものしのの笑顔だった。
でも、俺の知らない何かを含んでいるような気がして、目を逸らした。
⸻
夜。しのは遅れて帰ってきた。
「ただいま……遅くなってごめんね」
「おかえり。ごはん、温める?」
「ううん、今日はもういいや。お腹いっぱい」
ソファに腰を下ろすと、彼女は靴を脱ぐのも忘れたまま、しばらくぼんやりとしていた。
「楽しかった?」
「……うん。懐かしくて、ちょっと安心したかも」
「安心?」
「……うまく言えないけど、昔と変わってないなって思ったの。私も、あの頃のままなんだなって」
言葉の選び方が、どこか探っているようだった。
彼女は俺の顔を見ずに、指先でワンピースの裾をつまんでいた。
「よかったね」
「うん……ありがと。理解してくれて」
そのとき、少しだけ違和感があった。
“理解してくれて”という言葉に、何を期待されていたのか。
その意味を問いただすことはできなかった。
⸻
その夜、彼女は早めにベッドに入った。
俺はいつものようにデスクに向かって、明日の仕事の準備をしていた。
気がつけば、部屋には彼女の寝息だけが響いていた。
少し開いたカーテンから、夜の風が差し込んでいる。
その風が、彼女の髪をやさしく揺らしていた。
静かだった。
あまりにも、静かすぎた。
⸻
彼女の寝顔を見つめながら、俺はふと、自分の手のひらを見つめた。
なんの変哲もない、自分の手。
でもそれは、彼女の何かをすくい上げるには、あまりにも無力な気がした。
距離は近いのに、心がどこを向いているのかがわからない。
そういう夜が、静かに始まっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます