第2話 汽車と勇敢な騎士1


「寝台列車に乗ってみたいわ。我が家が経営している鉄道だというのに、わたくしったらまだ一度も乗ったことがないのだもの」

 エレオノーラ様がそう言い出したのは、王都を出る朝、朝食を終えて優雅に紅茶で喉を潤してからのことだった。

 アロガンテ公爵家――二十年ほど前までは侯爵家だった――は、昔々から『道楽侯爵』と呼ばれるほどに錬金術師や芸術家の卵達のパトロンになってきた。先代の頃にその内の一人が蒸気機関というものを発明し、馬がいなくても石炭を燃やせば人が乗った箱が動く汽車ができた。

 せっかくの発明だからと、出資者をつのり、港と王都をつなぐ線路を敷いて、試運転を開始したところ大成功、あれよあれよという間にアロガンテ侯爵家は大事業家となり、陞爵して公爵となった。先代当代の当主様方が、なんだかんだ言いつつも経営手腕に長けていたことも大きい。

 考えてみれば、ろくに金にもならない発明家や芸術家の卵を支援しまくっていたのだから、他で金を稼ぐ能力がなければとっくに爵位を失っていただろう。

 汽車に必要な石炭も領地の鉱山から撮れる。

 そもそも蒸気機関を発明した錬金術師からして、「お世話になっている侯爵家の、特に役に立たない特産物を使った発明」を考えてくれたわけで、おかげで石炭の需要は高まり、アロガンテ公爵家は大いに潤った。

 今では国中に鉄道網は伸び、人間だけでなく、馬車では容易に運べないほどの大きな荷物や大量の食料、手紙なんかも運んでいる。

 そのうちの最新の寝台列車――王都と北方の避暑地を結ぶ最新鋭の車両は豪勢な造りになっていて、貴族や資産家たちの間では「一度は乗ってみたい」と評判になっているらしい。エレオノーラ様発案だ。

「王太子殿下の婚約者だったときは、ふらっと旅に出たりするわけにはいきませんでしたからね」

 俺がそう言うと、エレオノーラ様はふふんと鼻で笑った。

「そうよ、護衛だの交通規制だの歓迎パレードだの公務だの、そういう面倒ごとはぜーんぶソフィアに押しつけてやったわ!」  

「……ソフィア嬢、平民出身だというのに気の毒に」

「まあ、ソフィアならうまくやるでしょう。あの子、意外と肝が据わっているもの」

「エレオノーラ様の人を見る目は確かですからね」

 そうしてエレオノーラ様とお供の俺は、王都駅の特別待合室で、豪奢な昼食を取ったあと、プラットホームへと向かった。

 昼過ぎのプラットホームには、既に列車が待機していた。黒光りする鋼鉄の車体、金色の装飾が施された車両。機関車の煙突からは白い蒸気が立ち上り、王都の空に溶けていく。

 車体の側面には、アロガンテ公爵家の紋章をオマージュした鉄道会社のマークが金色で描かれていた。

「……相変わらず、お金をかけてますね」

「何か文句でもあるのかしら? これは投資よ、投資。想定以上の人気で、この分なら二年で元が取れるわ。近いうちに海辺のリゾートへ向かう路線でも導入しようって話が進んでいるくらいよ」

「マジですか」

 ホテルマンのような制服の乗務員が、俺たちを一等車両へと案内する。エレオノーラ様の趣味を凝縮したような特別室は、まるで移動するサロンだ。深紅のベルベットのソファ、組み木細工のテーブル、壁には金箔のレリーフと油彩画。窓にはレースのカーテン。天井には小ぶりなシャンデリアまで吊るされている。

 あれもこれも、公爵家が支援している若手芸術家達の作品だ。

「なんというか……」

「素敵でしょう? この車両の内装、わたくしがデザインしたのよ」

「……ホントに二年で元が取れるんですかコレ」

「投資よ、投資。ここに飾った作品が、特別室の乗客――資産家達の目にとまれば、彼らの将来が開けるかもしれないし」

「……そう言って値切りましたね」

「お金がない卵達を食い物にするほど人でなしじゃないわ。まあ、名が売れたらちょーっとばかり恩返しはしてもらうけれど」

 エレオノーラ様は上機嫌でソファに腰掛け、頬杖をつくと窓の外を眺めた。

 王太子殿下の婚約者だった頃には、決してしなかった格好だ。

 俺は荷物を片付けながら、ふとエレオノーラ様が眺めている駅の構内へと視線を向けた。

「……あれ、公爵様?」

「お父様ったら、娘と離れるのか寂しいのかしらね。見送りに来てくれたんでしょうけれど、もう出発の時間よ」

「え、なんか書類もって叫んでますよ? 見送りじゃないんじゃないですかね」

「気のせいよ」

 そのときちょうど汽笛が鳴り、列車はゆっくりと動き出した。

 公爵様が追いすがろうとして、慌てて周りの騎士や従僕達に引き留められている。

「お父様ったらそそっかしいんだから。動く列車に触ったら危ないのなんて、子どもだって知っているのに、ねぇ」

「……ひょっとして、エレオノーラ様、公爵様に婚約破棄と世直し旅のこと、お伝えしてなかったんですか?」

「なんのことかしら」

 エレオノーラ様が特に気にしていない様子だったし、自分の借金を握られたインパクトですっかり失念していたけれど、王家と公爵家の婚約ってのは、王太子殿下とエレオノーラ様個人間だけのやりとりで終わる話じゃない。

 エレオノーラ様の書き置きで初めて知ったとしたら、今頃公爵家は大パニックだ。

「……逃げましたね」

「事実無根よ。わたくしは世の美しくないものを正してさしあげるの。尊い志でしょう?」

「公爵様が賛同してくださるといいですね……」

 頭を抱えたけれど、俺のあるじが公爵様でなくエレオノーラ様になってしまった以上、俺の給金はエレオノーラ様から発生する。まあいいかと割り切ることにした。

 顔を上げた俺に、エレオノーラ様がニッと笑う。

 「アハト、窓を開けて」

 「まあ、出発しちゃいましたし、こうなったらしょうがないですね」

「ふふっ、アハトのそういうところ好ましくてよ」

「褒め言葉だと受け取っておきます」

 窓を少し開けると、外の空気が流れ込む。蒸気の匂い、鉄の匂い、遠くの空を鳥が飛んでいる。しだいに列車は王都の町並みを離れ、郊外の野原を滑るように進んでいく。

 エレオノーラ様同様、俺も王都育ちだ。列車の窓からでは緑の匂いや生き物の気配なんてものは分からないけれど、一面の緑は目に新しく、どこか気分が高揚してくる。

「……こうして見ると、列車の旅も悪くないですね」

「そうでしょう? わたくし、これからは好きなところに好きなだけ行けるのよ。行ってみたいところがたくさんあるの。北の果ても、南の果ても、山の上も海の中も。世界は王都の他にも広がっているのだもの。ワクワクするわね」

「……まあ、なるべくお供しますけど、海の中は勘弁して欲しいですね」

「あら、海中以外なら構わないのね。北の果ては氷の大地で、空の色が緑色で、馬ではない生き物がひくソリで移動して、毛皮を着るのですって。楽しみね」  

「……まずは汽車で行ける範囲でお願いします」

「アハトったら、そんなにこの一等車両が気に入ったの? 制作者冥利に尽きるわね」

 エレオノーラ様は上機嫌に笑うと、紅茶のカップを傾けた。

 窓の外では、王都の次の集落にさしかかったのか、穂をつけた麦畑が流れていく。遠くに見える小さな村や、牛を連れた農夫たち。時折、汽車を見に集まった子どもたちが線路脇で手を振っている。

 各地で、鉄道敷設はおおむね好意的に受け入れられていると聞いた。

 もちろん反対する人たちはそれなりにいるけれど、時代は止まらない。

「子ども達が手を振ってましたよ」

「みんな健康そうで、汽車を見に来るだけの時間的余裕があるのね。素晴らしいわ」

 俺は思わず苦笑する。国母となる未来は絶たれ、本人はそれを喜んでいたようなのに、エレオノーラ様の根っこは常に民のことを考えている。自信家で、傲慢で、でも優しい。――振り回されることも無茶ぶりされることもあるけれど、俺がこの人に仕え続けている理由は、たぶんそこだ。

 列車はやがて、森林地帯に入る。窓の外には濃い緑が広がり、木々の間を木漏れ日がきらめく。遠く雪を頂いた山脈も見える。

 しばらく新聞に目を通した後、エレオノーラ様は優雅に立ち上がった。

「まだ少し早いけれど、夕食をとりに食堂車に行きましょうか」

「え、こちらに配膳させるのではなく、エレオノーラ様が出向かれるんですか?」

「もちろん通常のお客ならここで夕食よ。でもわたくしは経営者側だもの」

「道楽かと思ったら、仕事を兼ねているんですか?」

「ふふ、一等車両は貸し切りだけれど、二等以下には普通のお客様も乗っているのよ。ユーザーの生の声が聞けるのよ、楽しみだわ」

「……なんていうか転んでもタダでは起きませんね」

「誰がいつ転んだのよ」

 食堂車でエレオノーラ様は、一般の乗客に交じって食事をし、積極的に話しかけ、なんなら呑んで歌って場に馴染んだ。こんなエレオノーラ様、今まで見たことがない。

 一応公爵家の執事たる俺は最初こそハラハラオロオロしていたけれど、陽気なおっちゃんに一杯呑まされてからは、どうでもよくな……いや、吹っ切れた。あるじが良しとしているのに、使用人が気をもんだって始まらない。

「楽しいわね、アハト!」

「あっ、ちょっとさすがに車両で踊るのは……!」

 今まで見たことがないくらいはしゃいでいたエレオノーラ様は、やがて俺に寄りかかってコテンと眠ってしまったので、俺はしょうがなくエレオノーラ様を横抱きにして客室に戻った。

 途中で起きたらさすがに「不敬よ!」と平手打ちをかまされそうだとヒヤヒヤしたけれど、特別室の豪奢なベッドに横たえるまでエレオノーラ様は楽しそうな寝顔のままスヤスヤと眠っていた。

 あんなにお酒を呑むところも、酔っ払うところも、大衆歌を歌って酔っ払いと踊り出すところも初めて見た。重責からの解放とか、婚約破棄のストレスとかが重なって、はっちゃけてしまったんだろう、が。

 勘弁して欲しい。

 乗り合わせた陽気なオッチャン連中には盛大に冷やかされたし、うっかり落としでもしたら、エレオノーラ様を溺愛している公爵様に物理的にクビにされる。

 いやまあ、エレオノーラ様の柔らかな感触とか暖かさとか、控えめに言ってもかなりの役得だったけれど。いやいや、エレオノーラ様はあるじ、あるじ。血迷うんじゃない、自分。たしかにめっちゃ美人でスタイルも良くて柔らかかったけど、エレオノーラ様はエレオノーラ様だ。やばい、俺もかなり酔ってるな。

 俺は特別室の隣にしつらえられた使用人部屋の狭いベッドに潜り込むと、早々におかしな思考をかなぐり捨てた。


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