第2話 午後の珈琲と、チーズケーキ。
香ばしいコーヒーの香りではなく、今日はただ静かで穏やかな空気が部屋に満ちていた。カーテンの隙間から差し込む朝の日差しは、昨日よりも幾分か柔らかく、まるで週末の訪れを祝福しているかのようだ。ゆったりとした時間が流れる寝室で、僕は目を閉じたまま、隣で眠る愛しい人の存在を全身で感じていた。すうすうと規則的に聞こえてくる穏やかな寝息、時折小さく身じろぎする気配。そのすべてが、僕の心をこの上なく満ち足りた気持ちにさせてくれる。思わず口元が綻んだ、その時だった。
「柊くん……起きてる?」
もぞもぞと布団の中からくぐもった声が響く。まだ夢の中に片足を残しているような、甘く蕩けた声。僕はゆっくりと目を開け、声の主である澪の方へと顔を向けた。
「ああ、起きてるよ。おはよう、澪」
腕を伸ばして、少し癖のある彼女の柔らかな髪をそっと撫でる。指先に伝わる温もりが、僕たちの朝が始まったことを告げていた。昨日、会社へ向かう僕に「明日はのんびりしよ」と囁いた彼女は、その約束を果たすべく、まだ微睡みの中にいるようだった。
「ねえ、今日はどこか出かけない?」
澪がうっすらと目を開け、僕を見上げながら言った。寝起きのせいで少し潤んだ瞳が、窓からの光を受けてきらりと輝く。まだ眠たそうな顔が子猫のようで愛おしくて、僕は「いいね。昨日の約束通り、のんびりデートでもしようか」と返した。すると澪は、僕の言葉に嬉しそうにこくりと頷き、ゆっくりと身を起こした。
「カフェに行きたいな。駅の裏にある、あの小さな喫茶店。柊くん、まだ行ったことないでしょ?」
「ああ、あのレンガ造りの。いつも気になってたんだ」
「でしょ?今日はそこに行きたい。だから、私、今日はおしゃれして行くね」
そう言って、澪は子供のように無邪気な笑みを浮かべた。平日の朝に見せる少し慌ただしい表情とは違う、休日の特別感を纏った笑顔。その笑顔ひとつで、僕の一日が最高の滑り出しをすることは、もはや確定事項だった。
僕が寝癖のついた髪を手で掻きながらキッチンへ向かい、お湯を沸かし始めると、澪はリビングにある小さな鏡の前でメイクを始めていた。真剣な眼差しでアイラインを引き、普段はあまり使わない淡いピンク色のチークを頬にのせる。その白い肌に血色感がふわりと灯り、彼女の持つ柔らかな雰囲気をより一層引き立てている。髪も、ただ乾かしただけのいつもとは違い、丁寧にブラシを通して毛先を軽く内巻きにしていた。
コーヒーを淹れる手も忘れて、僕はついその姿に見とれてしまっていた。鏡越しの僕の視線に気づいたのか、澪が「……そんなにじっと見て、どうしたの?」と、少し照れたように頬を染めて尋ねる。
「いや、可愛いなって思って」
「……もう、からかわないでよ」
「からかってない。本心だよ。いつも可愛いけど、今日はいっそう綺麗だ」
素直な気持ちを伝えると、彼女は「えへへ」とくすっと笑い、僕のそばに駆け寄ってきて、肩にするりと頭をもたせかけてきた。先ほどセットしたばかりの髪から、昨日と同じ柑橘系のシャンプーの香りがふわりと漂う。この何気ない瞬間に、僕はどうしようもないほどの幸福を感じていた。
準備が整うと、二人で手をつないで家のドアを開けた。昨日とは打って変わって、空はどこまでも高く澄み渡っている。ひんやりと乾いた秋風が肌を心地よく撫で、澪の温かい手が僕の指をきゅっと握り返した。その小さな力に、彼女の期待感が伝わってくるようで、僕の足取りも自然と軽くなる。
見慣れた道を数分歩いてたどり着いた目的のカフェは、噂通りの趣のある場所だった。年季の入ったレンガの壁に蔦が絡まり、アンティーク調の看板が静かに客人を迎え入れている。ドアを開けると、カランコロン、と優しいベルの音が鳴り、焙煎されたコーヒー豆の深い香りが僕たちを包み込んだ。店内には重厚なジャズが静かに流れ、木の温もりを感じさせる落ち着いた空間が広がっている。
僕たちは幸運にも、通りの木々が見える窓際の席に座ることができた。メニューを開く澪の表情を、僕は向かいの席からじっと観察する。少し緊張した面持ちでありながら、その瞳は好奇心に満ちてきらきらと輝いていた。まるで初めての場所に足を踏み入れた子供のように、その一つ一つの動作が嬉しそうで、見ている僕まで楽しくなってくる。
「どうしよう、全部美味しそう……。あ、私、ここのチーズケーキが食べたかったんだ。頼んでもいい?」
「もちろん。そのために来たんだから。僕はいつもの、ブラックコーヒーとショートケーキにしようかな」
やがて運ばれてきた真っ白な皿の上で、濃厚なベイクドチーズケーキが上品に鎮座している。その横には、湯気の立つ僕のブラックコーヒーと同じく真っ白の皿の上に乗った真っ白なショートケーキ。澪は目を輝かせながらフォークを手に取ると、小さなかけらを口に運び、途端に「んんーっ!」と幸せそうな声を漏らした。
「美味しい……!すっごく濃厚!」
「よかったな」
リスが木の実を頬張るように、小さな口で一生懸命にスイーツを味わう彼女は、本当に幸せそうだった。その姿を見ているだけで、僕の心まで甘いもので満たされていくようだった。ふと、澪が僕のカップに手を伸ばす。
「コーヒーも一口ちょうだい」
「熱いぞ。ちゃんと冷ましてから飲めよ」
「わかってるってば。昨日の朝みたいにはならないもん」
いたずらっぽく笑い、彼女はカップの縁にそっと口をつけた。ふーふーと息を吹きかけ、慎重に一口飲むと、にっこりと満足げに微笑んだ。その笑顔に、僕の胸はまたじんわりと温かくなった。周囲には他にも何組かのカップルがいたけれど、その誰もが背景のように霞んでいく。まるでこのカフェが、世界にたった二人きりのために用意された特別な空間であるかのように感じられた。
午後の穏やかな光が差し込む中、僕たちはカフェを出て、帰り道にあるスーパーへと向かった。非日常の甘い時間から、いつもの日常へと緩やかに戻っていく。買い物かごを片手に持ち、僕は澪が好きそうな新商品のヨーグルトや、旬の果物を探す。
「あ、シャンプーもうすぐなくなりそうだった」
「きんぴらごぼう食べたいな。材料買っていこうよ」
そんな他愛もない会話をしながら店内を歩く。ふと、お菓子コーナーで澪の足が止まった。そして、僕に気づかれないように、そっと板チョコレートを買い物かごに滑り込ませた。
「おい、また買うのか?この前買ったばかりだろ」
僕が呆れたように言うと、彼女は「えー、いいじゃん。今日一日、頑張っておしゃれしたんだから。そのごほうびだよ」と悪びれもなく笑った。その言い分には納得できないが、幸せそうにチョコレートを握りしめる彼女を見ていると、まあいいか、と思えてしまう。結局、僕は彼女に甘いのだ。
「ねえ、柊くん。今夜は、何作ろうか?」
精肉コーナーの前で、澪が僕の顔を見上げて尋ねた。彼女の瞳には、明るい蛍光灯の光が映り込んでいる。その真っ直ぐな視線を受け止めて、僕は満面の笑みで答えた。
「君の好きなもの、なんでも作るよ。ハンバーグがいいか?それともオムライス?」
スーパーの明るすぎる蛍光灯の下で交わしたそのささやかな約束が、僕たちの未来をそっと照らす、小さな灯火のように思えた。特別なことは何もない。ただ、好きな人と休日にカフェに行き、一緒に夕飯の買い物をする。そんな、どこにでもあるありふれた一日。
けれど、そのありふれた日常こそが、僕たちの宝物なのだ。買い物かごの中のチョコレートと、僕の隣で笑う彼女の顔を見ながら、僕は心の中でそっと呟く。この小さな光が、これからもずっと僕たちの足元を照らし続けてくれますように、と。
そんな、ありふれていて、それでいてかけがえのない、休日の午後だった。
後書────
僕もチーズケーキ食べたい
それと、この作品は一応十話+後日談で完結の予定です。その後は、長期連載のラブコメをまた書くかもしれないです……(ダウナー系お姉さんっていいですよね異論は認めます)
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