愛する君と、いつも通りの朝食を。
天空セツナ
第1話 目玉焼きには何をかける?
香ばしいコーヒー豆の香りと、じんわりと肌を温める朝の日差し。その二つが、僕の意識を穏やかに現実へと引き戻した。
カーテンの隙間から差し込む光は、細長い金色の帯となって床に伸び、空気中を舞う微かな埃をきらきらと照らし出している。昨夜、窓を少しだけ開けて寝たせいだろう。生まれたばかりの朝の風がそっと部屋に忍び込み、僕の頬を優しく撫でて通り去っていった。耳を澄ませば、遠くでカラスの鳴く声と、新聞配達のバイクが走り去る微かなエンジン音が聞こえる。ありふれた、けれど心地のいい朝の交響曲だ。
「柊(しゅう)くん。もう起きてる?」
寝室のドアが控えめに軋み、その向こうから鼓膜をくすぐるように柔らかな声がした。僕は、ベッドの上で身を起こしたままぼんやりと眺めていた朝のニュースから視線を外し、声のした方へ顔を向ける。
「ああ、起きてるよ。おはよう」
「おはよ。コーヒー、淹れようか?」
「ありがとう。でも、今日は僕が入れるよ。君は先に朝ごはんの準備を頼む」
「やった!じゃあ、お願いね!ちゃんと冷ましてよね!猫舌なんだから!」
「わかってるって。どうせ砂糖もミルクもたっぷり入れるだろ」
「もちろんですとも!」
子供みたいにはしゃぐ声が遠ざかっていく。その無邪気な響きに、僕は思わず口元を緩めた。ベッドから降りて軽く伸びをすると、凝り固まっていた身体の関節がこきりと音を立てた。
寝癖のついた頭を掻きながら一階へ向かうと、階段の途中からすでに味噌汁のいい匂いが漂ってくる。とん、とん、と小気味よくまな板を叩く音が聞こえたかと思えば、すぐにジュワッという油のはぜる音が続く。僕たちの朝が、本格的に始まった合図だ。
リビングを抜けてキッチンに入ると、彼女──澪(みお)がフライパンの前で奮闘している最中だった。目玉焼きとウィンナーが、その上で賑やかに音を立てて焼かれている。僕はその光景を横目に、食器棚からマグカップを二つ取り出した。白地にデフォルメされた黒猫のイラストが描かれている、澪のお気に入りのカップ。そして、僕が使っている、何も飾りのないシンプルなグレーのカップ。
「ねぇ柊くん。君ってさ、醤油とソースどっちを目玉焼きにかけるの?」
僕がコーヒーフィルターをセットしていると、澪がフライパンに集中したまま、不意にそんな質問を投げかけてきた。
「ほら、よくあるじゃない?目玉焼きにはどっちかける派〜、みたいなやつ。私、柊くんがどっち派なのか、そういえばちゃんと知らないなって」
「うーん、どっちも好きだけど……。その前にさ、澪。ちょっと香ばしい匂いが強くなってない?」
「え?」
僕の指摘に、彼女ははっとしたようにフライパンの中を覗き込む。
「え、うそっ……あちゃ〜、またやっちゃった。底がちょっと焦げてるかも」
澪は「ふみゃっ」と猫が鳴くような奇妙な声を発しながら、慌ててフライ返しで目玉焼きを皿に盛り付けていく。自分たちにとって、目玉焼きの底が焦げるのなんて日常茶飯事だ。「火は最初から最後まで弱火で」「蓋をして蒸らすとふっくらするよ」と、これまで何度も言ってきたはずなのだが、どうも彼女の料理のセンスが壊滅的なのか、僕の教え方が絶望的に悪いのか。どちらにせよ、僕たちの家のコンロは毎日彼女によって試練を与えられている。
「じゃあ、今日はソースにしようかな」
「もしかして、焦げたから?」
「ああ。焦げの苦味をソースの甘さでごまかせるだろ」
「うーん、誠に遺憾です。私の愛がこもった焦げなのに」
彼女は少しだけ唇を尖らせながらも、その言葉とは裏腹に楽しそうに笑ってテーブルに皿を並べていく。彼女のそういうところが、僕はたまらなく好きだった。失敗しても、それを笑いに変えてしまう明るさ。その屈託のなさが、この家の空気をいつも暖かく保ってくれている。
テーブルの上には、彼女が用意してくれた朝食がずらりと並んでいた。こんがりと焼き目のついた鮭の塩焼き、豆腐とわかめがたっぷり入った味噌汁、昨日の夕食の残りだというきんぴらごぼう。そして、つやつやと湯気が立つ炊きたての白米。そこに、僕が淹れたばかりのコーヒーが加わる。焼き魚とコーヒーという、少しちぐはぐな組み合わせ。けれど、僕たちの朝は決まっていつもこんな感じだ。和食も洋食も、好きなものを好きなだけ。それが僕たちのルールだった。
「「いただきます」」
二人揃って丁寧に手を合わせる。こんな朝が、一体これまで何度繰り返されてきたのだろう。もう思い出せないほど遠い昔から、こうして二人で食卓を囲んできたような気さえする。
何気ないやりとり、可もなく不可もない、少し焦げた朝食。だけれど、その一つ一つがどうしようもなく心地よくて、満ち足りた幸せに包まれている自覚があった。
焼き魚の身を箸でほぐしながら、澪がふと窓の外を眺めている。先ほどまで日差しが差し込んでいた空は、いつの間にか厚い雲に覆われ、どんよりと鉛色に変わっていた。
『本日は全国的に大気が不安定で、特に西日本では夕方から局地的に激しい雨が降る予報です。お出かけの際は傘をお忘れなく』
タイミングを見計らったかのように、リビングのテレビから気象予報士の声が響く。
「夕方からだってさ」
「そっかー。じゃあ、今日はあんまり外干ししないほうがいいかもね。シーツ洗いたかったけど、明日にしようかな」
そう言いながら、彼女は自分の猫のマグカップではなく、僕の無地のグレーのマグカップにすっと手を伸ばした。そして、何も疑うことなく、こくりと一口。
「あちっ!……ちょ、全然ぬるくないじゃん!」
「あ、そっちは僕のだから。僕のやつは熱いままなんだって、いつも言ってるだろ?」
途端に、彼女の動きが固まる。きょとんとした顔でカップに視線を落とし、そこに描かれているはずの猫がいないことを確認すると、バツが悪そうに眉を下げた。
「ふぇ?」
「……ふぇ?じゃないだろ」
「あ……ご、ごめんなさい……。完全に自分のって思い込んでた……はやとちり……」
「いいよ、全然。それより舌、火傷してないか?水持ってくるから」
「う、うん……大丈夫……たぶん……」
しょんぼりと子犬のように俯いてこちらを見つめる彼女に、僕は呆れながらも笑ってしまった。席を立って冷たい水をグラスに注いで渡すと、彼女は申し訳なさそうにそれを受け取った。
「ごめんね、いつもドジで」
「今に始まったことじゃないだろ。……今度から、僕のもちゃんと冷ましてあげないとな」
そう言って悪戯っぽく笑いかけると、彼女の表情がぱっと花開くように明るくなった。その瞬間の顔が、僕は狂おしいほど好きだった。ふわっと陽だまりのように笑うその顔を見るたびに、僕は何度でも新鮮に、目の前のこの女性に恋をしてしまうのだ。
朝食を終え、二人で協力して食器を片付ける。僕が洗い物をしている間に、澪がテーブルを拭いてくれる。そんな阿吽の呼吸も、長い時間の中で自然と培われたものだった。
すべてが片付くと、僕たちはリビングのソファに隣り合って腰掛け、残りのコーヒーを飲みながら、他愛もない時間を過ごすのが日課だ。
「今日、蒸し暑くなるって」
テレビの字幕を見ながら澪が呟く。
「そうだな。湿気がすごい」
「外回りだっけ?熱中症と、あと事故だけは本当に気をつけてね」
「ああ、わかってる。澪も、今日は買い物くらいか?夕立には気をつけてな」
「うん。大丈夫」
「……そろそろ、行くか」
僕のカップの中身がなくなり、壁掛け時計の針が7時40分を指した。そろそろ会社へ向かう準備をしないと、いつもの電車に間に合わなくなってしまう。名残惜しい気持ちを振り払うように、僕はゆっくりと腰を上げた。
「明日は、やっと土曜日だね」
「ああ、そうだな」
「明日は、一日中のんびりしよ。どこにも行かないで、ずーっと家でゴロゴロするの」
そういうと、澪は目を細めて、僕の肩にするりと頭を預けてきた。まだ温かいコーヒーをちびちびと飲みながらも、その目はもう半分眠っているようだった。
「お腹いっぱいになっちゃったし、もう一回寝ようかなぁ」
「寝たら、またすぐに夜になって明日が来るぞ」
「うん。それなら、無理にでも寝ないとだね」
「どうして?」
「だって、朝になったら、また柊くんと美味しいご飯食べて、一日中イチャイチャできるじゃない」
その言葉に、胸の奥がきゅっと甘く締め付けられるのを感じた。僕はそっと、澪の柔らかな髪を撫でる。ふわりと鼻をくすぐったのは、柑橘系のシャンプーの暖かい香り。僕が好きな香りだと知っていて、彼女はずっとこれを使ってくれている。
「じゃあ、明日は僕が目玉焼きを焼こうかな。完璧に半熟のやつ」
「えっ、もしかして……私が焦がしちゃったこと、まだ怒ってる?怒ってるなら、ちゃんと謝りたいよ。ごめんなさいでした」
慌てたように顔を上げて、僕の顔を覗き込んでくる。その必死な表情が愛おしくて、僕はまた笑ってしまった。
「全然怒ってないよ。今日は作ってもらったから、そのお返し。ただそれだけ」
僕が、できるだけ優しく聞こえるように囁くと、彼女は申し訳なさそうな顔をしながらも、心の底からほっとしたような表情を浮かべた。その安堵した顔が、また僕の心を温める。
静かな部屋。時計の秒針が時を刻む音だけがやけに大きく響く。
でも、少しも寂しくはない。むしろ、この上なく幸せで、暖かい空気に満ちている。
食卓に残る焼き魚の油の匂いと、部屋に満ちるコーヒーの香り。窓の外の曇り空とは対照的な、ぬるい日差しのような幸せな会話。
なんの変哲もない。特別なことなんて何一つない。
だけれど、これこそが僕にとって何よりも大切で、守り抜きたいと願う時間なのだ。
僕は立ち上がってネクタイを締め、クローゼットからスーツの上着を羽織る。澪もソファから立ち上がり、僕のネクタイが曲がっているのを指先で直してくれた。
「よし、完璧」
「ありがとう。じゃあ、行ってくる」
「うん。いってらっしゃい、柊くん。気をつけてね」
玄関で見送ってくれる彼女に振り返り、僕は「ああ」と短く応える。ドアノブに手をかけたところで、彼女が「あ、待って」と僕を呼び止めた。
「忘れ物?」
「ううん。こっち」
そう言って、彼女は少しだけ背伸びをして、僕の唇に自分のそれを柔らかく重ねた。
「いってらっしゃいの、おまじない」
悪戯っぽく笑う彼女に背中を押され、僕は今度こそ玄関のドアを開けた。
外に出ると、もわりとした湿度の高い空気が肌にまとわりつく。空を見上げれば、厚い雲が街全体を覆っていた。
会社へ向かう道すがら、僕は先ほどの朝の出来事を一つ一つ反芻する。焦げた目玉焼きも、熱いコーヒーも、他愛もない会話も、そして最後のキスも。そのすべてが僕の中で輝くひとかけらの宝石になる。
そんなどこの家庭にもありふれているであろう、ただただ暖かい朝だった。このありふれた奇跡を、明日も、明後日も、その先もずっと、彼女と共に迎えられますように。心の中でそっと祈りながら、僕は駅へと向かう足を少しだけ速めた。
後書────
イチャイチャってええなぁ……
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