さよなら、天才さん

三嶋ぺんね

さよなら、天才さん

 天才さん。私は彼をそう呼んでいた。頭脳明晰、明朗快活。強い責任感と思いやりを持ち、誰からも信頼される。そんな彼のことが、私は、心底、嫌いだった。


 初めに抱いたのはちょっとした嫉妬だった。勉強ができ、性格もよい。顔もそこそこで、才能にあふれた彼に、そんな気持ちを覚えるのは、ある程度自然なことのように思われた。

もっとも、ただ才能があるだけの人間にはこれまでにも出会ってきたし、彼の能力が天賦の才によるものならば、納得や諦念とともに、「気に入らない」程度の感情を抱くにとどまっていたはずだ。そしてつまり、私が彼を明確に「嫌い」になったのは、彼のその能力が天性のものではないと知ったからだった。


 七月。私たちの学校では文化祭へ向けた準備が本格化する時期だ。うちのクラスはアイスクリームの模擬店をすることになっていて、その中心になって準備を進めているのは彼だった。

「じゃあ今日は、装飾班は看板の続き、整備班は昨日運び残した資材の搬入からお願いしまーす。四時半にごみ回収なのでお忘れなくー。あ、酒井さん、メニュー表のことなんだけど」

 相変わらず彼の仕事ぶりは完璧で、今日もまた、準備時間が始まるなり各所に的確な指示を飛ばして作業に取り掛からせた。私も持ち場へ移動してそそくさと自分の作業を始める。

しばらく作業をしているとポケットの中でスマホが震えた。クラスのグループトークのようだ。

『ダイソー来たけどセロハンが売ってない、追加の画用紙とラミネートのやつは買えた』

教室の準備が始まるより少し先に出発していた買い出し班の報告に答えたのはやはり彼で。

『せんきゅ!そこのイオン、文房具屋さんも入ってるはずだからそっち探してみて』

大方、予備手段としてあらかじめピックアップしていたのだろう。困ったときにノータイムで対応策を提供する、相変わらず完璧で粗のない彼の様子に苦々しさを感じる。他の皆は多分、やっぱりしっかりしてるな、程度の感想しか抱いていないのだろう。それが自然なのだ。だが、私は知ってしまっている。だから、単純にそれを彼の性格として片づけることはできなかった。


 彼の能力は、天賦の才によるものではない。彼が尋常でなく勉強ができるのは、尋常でないくらい勉強をしているからだ。彼が抜群に仕事ができるのは、彼が、文字通り群を抜いて仕事に時間をかけているからだ。彼が誰にでも大変に好かれるのは、彼がそのために誰よりも努力を重ねているからだ。――彼とさして仲がいいわけでもない私がなぜそんなことを知っているのか、不思議に思われるだろうか。その答えは単純、

私も、彼と、同じ人種だからだ。


「机と椅子搬入しまーす。手すきの人はお手伝いおねがいします!」

「この長机どこ?」

「それ調理机だからその奥によろしく!後で調整かけるからまだ並べなくていいー」


 私の仕事は、教室内のこまごまとした装飾。といっても、飾り自体はすでに作ってあるので、今日は壁に貼り付けていくだけだ。買い出し班が帰ってくれば、最後の仕上げの作業が始められるのだが、今日は電車で三駅ほど乗った少し遠い店まで出ているので、あれからすぐに買って電車に乗ったとしても、到着までにはもう少しかかるはずだった。

 「あ、もしかして三嶋さん今手空いてたりする?悪いんだけど、椅子運ぶのちょいと手伝ってくれない?」

 相変わらず何もかもに無駄がないな。多分彼の一言には、作業の進捗や効率のことだけでなく、手空きで、気まずそうに見える私に対する気遣いも含まれているのだろう。これが彼からでなければ、素直に受け取ることができていたのだろうが。


 私が「彼」を作りものだと断じることができる理由はいくつかある。一つには、彼と小学校が同じだったという友人の、「あいつ昔はあんなじゃなかった、もっとおとなしくて影の薄い奴だった」というせりふだ。彼女は私立の中学に進んだので彼の中学校時代は知らないと言っていたが、高校デビューといううわさも聞かないので、おそらく中学生時代にあの外殻を形成したのだろう。

二つに、私自身の経験。あれだけの才能が有れば、彼のような性格でいられるはずがないということだ。だが彼には、才能がある故のゆがみは見られない。どころか、彼の性格そのものに曇りが全くない。そんなことはあり得ないというのが、私の持論だった。

 

 その後も準備はつつがなく進み、いよいよと思う間もなく文化祭当日となった。私のシフトは午前中だったが、特に問題なく進み、午後には友人と一緒に各クラスの出し物を回った。楽しくなかったというわけではないが、友人といるときはいつも気を張ってしまい、回り終える頃にはひどく疲れてしまった。今日は、きちんと「私」を演じられていただろうか。


 そういえば、出し物を回る間に聞いたのだが、彼は既にクラスの女子から裏でキャーキャー言われているようで、友人の一人が、聞いてもいないのに彼の「かっこいいポイント」なるものを列挙しだして私を辟易させた。みんな、彼のことを知らないから言えるんだよ。そんなことはもちろん口には出せず、「すごいね」という感想と苦笑でその場を流す。「嫉妬しなくても、有紀も男子からの人気すごいよ?」なんて一言に返した「そんなことないよ」にこもってしまった本音は、幸い彼女には伝わらなかったようだ。ただ、私の拒否を感じたらしき別の友人が、なおも話を続けようとする彼女を別の話題に誘導してくれて、この話は終わった。

 自分が男子にも好かれていることは自覚している。けれど、そんなことは当たり前なのだ。私は、「私」が皆から好かれるように演じ、振舞っているのだから。皆が好きなのは、私が作った「私」。他人に好かれて私が感じるのは、自らの創作物に対するわずかな満足感と、何があっても本質を見せてはならないという重圧だけだった。


午後四時半過ぎ。放送が鳴り、各クラスでのホームルームの後解散となった。片付けは明日まとめてすることになっている。聞けば我らがクラスのアイスクリームはすべて売り切ることができたようで、そのことが発表されると、売れ残りのおこぼれを期待していたらしき一部の生徒からえーっという声が上がる。担当から一言、と振られて黒板の前に立った彼は、皆への感謝を述べ、自分と皆に向かって拍手なんていうべたな演出をして場を締めた。各自解散となって、教室内ではさっそく打ち上げの話題が持ち上がって騒がしくなる。そうでなくとも文化祭の浮ついた空気感の中だ。さっさと教室を出ていこうとする者はいないようだった。

面倒ではあるが、今日は他クラスの友人と一緒に帰る約束をしている。彼女は生徒会で文化祭関連の仕事をしているので、少し遅くなるから待っていてくれと言われていた。暇なので図書室にでも行こうかとかばんを抱いて教室から出ようとすると、打ち上げの誘いを断っている最中らしき彼から、お疲れさま、と声がかかった。私は、うん、とも、また、ともつかない曖昧な返事をして、後ろ手でドアを閉めた。


世の中のメロンパンには、メロンのような味がするものがある。そういうものについているメロン味というのは、大抵、メロンの特徴を極端に強調した、ある意味でメロンよりもメロンらしいものだ。人工的で過度なあの味が、私は好きではなかった。私が彼に対して抱く嫌悪感も、きっと同じようなものだ。

パンはどうあがいてもメロンになんてなれやしないのに、なれると信じて疑わないまま、無理矢理に作った殻を重ねていく。そしてそれは、それを知っていてなお「私」を作るのをやめられない、私自身に対する感情でもあるのだろうと思う。


時刻は六時前となったが、七月ということで外はまだ明るく、図書室から見えるグラウンドでは、こんな日も練習を欠かさなかった運動部員が片づけをしているのが見えた。私が待っている彼女は、仕事が長引いているようで、もう少し待っていてくれとメッセージが届いていた。待っている間に読み終えられるようにと、ごく薄い本を選んだのが裏目に出て、本を読み終わってしまった私は手持ち無沙汰でぼんやりとしていた。読んだのは村上春樹「風の歌を聞け」だったが、登場人物たちのように自堕落に過ごしていれば楽なのだろうなと、できもしないことを思ったりした。

 気づけば図書室内はとっくに私一人だった。疲れていたし、このままぼうっとしながら待っていてもいいのだろうが、私はなんとなく立ち上がって、散歩でもしてみようかと思い立った。時刻は六時を回っていて、図書室から出ると、斜陽の真っ赤な光が廊下一面を照らしていた。校舎内にはもう人けはないものの、昼間の賑わいの余韻が残っているのか、あたりの空気が少し軽くなっているような、妙な感覚を覚えた。


図書室のある三階から、とりあえず待ち人が仕事をしているはずの体育館へ向かおうと階段を一段ずつゆっくりと降りる。カラフルに飾り付けられた踊り場は、極薄の赤い膜が一面に張り付いたように見え、触れればぱりりとはがれてしまいそうだと思った。

たっぷりと時間をかけて一階まで降り、体育館のほうへ歩みを向けかけたとき、うっすらと話し声を聞いたような気がした。まだ人が残っているのだろうか。こんな時間まで残っているのは、何か仕事がある生徒会の人間か、私のように特別な用事のある人間のどちらかだ。体育館とは逆方向だが、声がした中庭の方向へ歩いてみる。と、中庭の植え込みのそばに人影を認めることができた。どうやら二人いるようで少し驚いたが、話声がしたのだから、一人ではないことは極めて自然だった。

西日がきつく、ここからでは顔を認めることはできなかったが、シルエットから男女二人であるらしいことが分かった。カップルが残っていちゃついているのか、これから告白でもするのか。いずれにせよ見ないほうが親切だろうと踵を返した。けれど。

「僕と付き合ってくれませんか」

―――聞こえた声に思い切り固まってしまった。思わず振り返る。陽が沈むのは早いものだ。傾いた陽が校舎にかかって中庭の端に影を作る。その奥にはっきりと見えた男子の顔は、まぎれもなく、あの彼のものだった。

その時覚えた衝撃は、説明したところで伝えきることはできないと思う。ただ、少なくとも私は、彼も私と同じで、恋愛に興味なんてないと思っていた。興味がないどころではない。恋愛とは自分の弱みを作ることだ。作り上げた自己を持つ人間は、弱みを見せることを何より嫌う。私にとって恋愛はむしろ嫌悪の対象で、まして自分から告白など、考えるべくもなかった。それに、普段からやっていることとはいえ、偽の自分によって相手をだますことは、単純に、悪いことのように思えた。

罰ゲームなんかではないことは初めからわかっていた。彼がそんなことを承諾するとは思えないし、それにしてはシチュエーションができすぎている。彼が自分を作っているというのは、ただの私の思い込みなのではないかとも思ったが、あの性格は生まれつきもつことができるようなものではない。それだけは、絶対に譲れなかった。ならばもう、残っている可能性は、彼は「彼」として、恋をしているということだけだったが、私にとってはそのことも、到底理解できるものではなかった。

単純に、無神経なのだろうかと思った。自分を作り上げて平然と相手をだます。それを、化粧や洋服のお洒落と同じくらいに考えている人間は多い。だが、私に言わせれば、単に見た目を取り繕うことと、人間の本質たる内面を偽ることとは、その意味が全く異なる。恋人の前で恰好をつけたい、なんて軽い言葉で片づけられるものではない。思い当たった可能性に、失望や軽蔑の念が沸く。だがその一方でやはり思う。彼はそんな人間だろうか。彼ほどの人間が、果たして相手をだましたまま深い関係の持ち込もうとするだろうか。

彼も私と同じならば、彼が自らを偽る理由は、自分が傷つきたくない、心を開くのが怖いということと同時に、他人を傷つけたくないから、でもあるはずだ。だが今は、わからなくなってしまった。


告白をされた女の子は、少しうつむいて押し黙っていた。髪を首のところで切り揃えた、華奢なシルエットの子だ。

西日はいよいよ傾き、幻想的だった中庭は、既にそのほとんどを影の下にうずめてしまった。

どれくらいの時間が経ったかはわからない。覗き見、立ち聞きがいけないことだという思考をしている余裕もなく、私は秩序だった思考ができないままに立ち尽くしていた。

彼女と付き合って、彼は「彼」のまま彼女を騙し続けるのだろうか。それとも、相手に自分の内面を見せるつもりでいるのだろうか。どちらにせよ、私は無意識に、彼女が彼の告白を当然受けるものと思っていた。ところが、顔を少し上げて彼を見た彼女は、すぐに再び顔を伏せ、しかしもう一度意を決したように目線を合わせて、思いもかけぬことを言った。

「ごめんなさい」


聞いてすぐ、思わずえっと声が出そうになる。

「すごく優しいのは知ってるし、勉強も何でもできてすごいと思う、尊敬する」

「ほんとに嬉しい、だけど、ごめんなさい、お付き合い、は、できない」


「ごめんなさい」


驚いてまた固まっている私とは対照的に、彼は取り乱した様子はなく、理由を尋ねることもせずに黙っていた。数秒の沈黙の後、女の子はもう一度「ごめんなさい」とうつむいてつぶやき、耐えかねたように小走りで駆けて行ってしまった。

彼は遠ざかる背中を見送る向きに視線を向け、すこし目を伏せた。当然うれしくなどないのだろうが、表情から、彼の心情の機微を窺い知ることはできなかった。

やがて彼は中庭から出る方向に向き直り、――――そして、思い切り面食らったような、非常に困惑したような顔をした。そこで私はようやく、自分が彼を見つめたまま立ち尽くしているという今の状況に思い至った。まずい、と思ったとて動けるわけがなく、彼とまっすぐに目があってしまう。

彼の表情は、動揺、当惑、疑問それらすべてを内包していて、私は初めて、彼が心から傷ついたような顔をするのを見た。

彼はすぐに、表情を平常に戻そうと努力して、それでも戻しきれなかったのか、困ったような、少し哀しい笑顔で私に話しかけた。

「―――見てた?」

なんて、わかり切ったことを訊く彼の声は、ひどく空っぽで、痛々しく聞こえた。

「…ごめん」

絞りだした謝罪に、いや、気にしなくていいよ、と答える彼の言葉は、普段彼が発する同じせりふとは全く違って聞こえた。

「それじゃ、また」

 視線を私から外した彼は、ぼとんと放り投げるように言い置いて、私の横を歩いて通り過ぎた。


 「あのっ」


 大きな声が出てしまって、声が静かな吹き抜けに反響する。彼は立ち止ったが、顔はこちらには向けなかった。

 「えとっ、その」

 このまま行かせてあげたほうが、そっとしておいてあげたほうが、親切だっていうことは痛いほどわかっていた。でも、このままいかせるべきじゃないと思った。私が首を突っ込んだ。私が傷つけた。それをこのまま、流してもらったまま終わらせるのは違うと思った。

 「――――――…」

 呼び止めはしたものの、言うべき台詞、かけるべき言葉が見つからない。謝罪ではない。それはあまりにも自分勝手だ。ならば何を言う。残念だったね?君でも恋愛するんだね?そんなことをいう馬鹿があるものか。

 彼はようやく、体を半分こちらへ向けて、右目だけで私のほうを見た。

 「――――――ファミレス、いかない?」

 彼は案の定、意味が分からないという顔をした。私自身も、自分がなぜこんなことを言ったのかわからなかった。ただ、彼を引き留める方法が咄嗟にそれしか思い浮かばなかった。

 「どういうこと?」

 と彼は遠慮を見せず問うてくる。それも当然だ。

 「いや、えっと、慰めたいと、思って」

 私はいったい何を言っているのか。これでは彼の傷を深くしているだけではないか。

 彼は、またも意味を測りかねるような顔をして、まっすぐに私を見つめる彼の右目は、震える私の視線を正確にとらえた。

 日は完全に没して、電灯のついていない校舎内は薄暗い。


 「ごめん」


 彼はそれだけ言い残すと、くるりと私に背を向けて早歩きで行ってしまった。


 私はただ立ち尽くしたまま、どれだけの間そこにいたのだろうか。仕事を終えて、私を探していた友人に見つかってやっと、立ちっぱなしだった足が棒のようになっていることに気が付いた。


 帰り道、友人はずっと様子のおかしい私のことを心配してくれた。けれど、私には落ち込む権利なんてなくて、大丈夫かと聞かれるたびに、傷つけた彼に対する罪悪感と自己嫌悪の感情が膨れ上がった。せめて、彼女まで傷つけることにならないように、ちょっと体調が悪いだけだ、とできる限りなんでもない風に振舞った。

 電車を降りて駅の前で、普段ならそこで互いの家の方向へ別れる友人が迷っているのが分かった。私は、大丈夫だから、ありがと、とだけ言って家のほうへ歩き出した。しばらくしてちらりと振り返ると、まだ心配そうにこちらを見ている友人と目が合いそうになり、慌てて前を向いて速足でその場から立ち去った。

 

 夕食は喉を通らなかった。できるだけ無心で風呂に浸かり、自分の顔を見たくなくて、鏡とは反対の方向を向いて体を洗った。

 やはり親にはすぐに感づかれて心配され、それもまた罪悪感を膨らませた。早々にベッドに入ったけれど寝付けず、結局、翌日、窓の外が白み始めるころになって、ようやく少しだけ意識を手放すことができた。


 翌朝になっても、気分は全く変わらなかった。朝食を無理に詰め込んだら、気持ちが悪くなってトイレで吐いた。それでも、学校へはいかなきゃならない。休むことができるとするならば彼で、彼が来るかもしれないのだから、傷つけた張本人である私が勝手に逃げ出すことはできない。

 入らない気合を入れたことにして、兎にも角にもいつもの「私」の顔を作って、私は家を出た。

 昨日きれいな夕焼けが見られたからだろうか、空は高く、青く、痛々しく澄んでいた。


 休みだといいな、なんてどこかで思ってはいたものの、教室に入ると、彼はやっぱり自分の席で友人たちと話し込んでいた。

 彼はちらりとこちらを見たが、私はそれには答えず、そそくさと自分の席に座った。


 彼は、いつもと変わらない様子で文化祭の片づけを取り仕切り、打ち上げで誰がどうしたという男子たちの話の輪に笑顔で加わっていた。ただ、彼が笑顔であればあるほどに、昨日見てしまった彼の表情が思い出されて、私はとにかく無我夢中で自分の作業に取り組んだ。

 無事に片づけも終了し、午後からは出し物の優秀クラスの発表が行われた。それが終わると、特にやることもないので、いつもより少し早い時間に下校できることになった。

 今日一日、彼に話しかけようかとずっと思い悩んでいたものの、かける言葉が見つからないまま一日が終わってしまった。しかし、改めて考えてみれば、私が彼にかけられる言葉なんて何もないのかもしれなかった。

 かばんを抱いて立ち上がる。教室を出ようとしたところで、スマホから通知音が鳴った。

 メッセージアプリの通知。相手の名前を見て慌てて画面のロックを解除する。


『今日この後暇ですか。ちょっと付き合って』


 彼からだ。思わず振り返って彼を見ると、彼も私のほうを向いていた。彼はスマートフォンに視線を落として、

『昇降口で待ってて。すぐ行きます』

と送ってきた。私はとにかく言われるがまま、昇降口まで階段を下りて下駄箱の横に立った。一体どういうつもりなのか、返信して訊こうかとメッセージを打ったが、送信することはためらわれて、画面を見つめているうちに視界の端に彼の姿が見えた。


 彼は私を見据えたまま、私の前に立った。たまらず私が口を開く。

「えっと、付き合うって、何、に?」

「そうだね、石山あたりに喫茶店いくつかあるし、そこでいっか」

「喫茶店?なんで」

「あれ、三嶋さんが言ったんでしょ。

『慰めてくれる』って」


 なされるがまま、私は彼と連れ立って電車に乗り込み、駅前の喫茶店に連れ込まれた。

「三嶋さん何頼む?」

「な、なんでもいいけど、じゃあアイスコーヒー」

「はいよ、えっと、アイスコーヒー二つと、日替りケーキ二つと、あとカツサンド下さい」


 いったい何のつもりなのだろうか。やはり怒っているのか、それとも口止めか、ここに来るまでずっと考えているが答えは出なかった。

 店内には主婦と思しきグループと、近隣の高校の制服を着た女子生徒が数人いるだけで、注文したものはすぐに運ばれてきた。

 コーヒーだけを手元に引き寄せると、チーズケーキが乗った皿も一緒に押し込まれた。二つ頼んだケーキのうち一つは、やはり私の分だったらしい。正直なところ、チーズケーキはあまり好きではないのだが、そんなことを言えるはずもなかった。

 彼はさっそくカツサンドに手を付ける。提供スピードからして揚げたてではなさそうだが、分厚いとんかつを挟んだカツサンドはおいしそうだった。尤も、私は今は食欲など無いに等しかったが。

 私もとりあえずコーヒーのグラスに口をつける。少しでもくどいものを胃に入れると吐きそうだったので、ミルクも砂糖も入れなかった。彼はあっという間にサンドイッチを一切れ食べ終え、二切れ目に手を出した。私はコーヒーを飲み切ってしまわないように、ちびちびと口をつけ続けた。

 彼はカツサンドを食べおわると、コーヒーにミルクを入れてかき混ぜた。

「ブラックなの?」

「えと、まあ」

「じゃあもったいないから貰うね」

 そう言って私の分のミルクも自分のコーヒーに入れる。今日の彼はやたらと遠慮がない。やはり怒っているのだろうか。しかしもしそうなら、どうして喫茶店なんかに連れ込む必要があるのか。

「で、いつになったら慰めてくれるの?」

「え」

 本当にどういうつもりなのか。昨日の今日でこんなところへ連れてきて慰めろだなんて、本気で言っているとは思えなかった。

「どういうつもりなの?」

「だから、慰めてほしいなと」

「そんなわけないでしょう」

 煮え切らない彼の様子に不安が募る。

「昨日は、その、見ようと思ってとかじゃなくて、たまたま通りがかっただけで。ごめんなさい」

 ここで言い訳を口にしてしまう自分が恨めしい。今まできちんと人に向き合ってこなかった、そのつけが一気に帰ってきたように思った。


「いや、怒ってるんじゃないよ。見たくて見たわけじゃないのはわかってるし」

「じゃあどうして私をこんなところに」


 そこで彼は、少し間をおいて、まじめな雰囲気を作った。

「昨日」

「三嶋さん見つけたときはびっくりしたよ。さすがにね。見せたくないところ見られちゃったなと思って」

 やはり彼にとって、あの場面は見られたくないものなのだ。わかり切っていたことながら、はっきりと言葉にされるとずっしりと重みが増す。

「で、僕がびっくりして見たとき、―――――三嶋さん、さ。すごく傷ついた顔したでしょ。それで気になって」

「そんなこと、ないよ。あの時傷ついてたのは君のほうで、私が傷つけておいてそんな」

「いや、さすがにあの顔しといて傷ついてないっていうのは無理がある。―――で、聞きたいんだけど」


「三嶋さんてさ」

「僕のこと、嫌いでしょ?」


 ばれていたのか。どきりと心が揺れた。いつそんな素振りを見せてしまったのか。彼はいつから気づいていたのだろうか。

彼が嫌いだという気持ちは、「私」の気持ちではない。その黒い感情は、決して外に漏れださないよう注意してきたはずだった。そして、なおも思った。彼は、どこまで気が付いているのだろうか。私が覆い隠してきた気持ちに気が付いている彼は、私が彼についてそうであるのと同じように、「私」が偽りの産物で有るということにも、気が付いているのではないだろうか。

「どうして、そう思うの?」

彼は、私の問いには正面からは答えず、さらに問いを重ねた。

「三嶋さんって、自分がどんな性格か説明できる?」

 らしくない迂遠な言い回し。質問の意図が読めない。

「まあ、多少はできると思うけど」

「多少じゃなくて、小さな癖まで完璧に説明できるんじゃない?」

 そこでようやくわかった。やはり、私が自分を偽っているということは既に彼に知られているようだ。けれど、彼がどうしてそんな話をするのかは、わからなかった。

「何が言いたいの?」

「三嶋さんは、僕も、同じだっていうことも知ってる。そうだよね」

 一瞬意味を考えて、理解した。そして驚いた。――――認める、のか。自分から。私は彼がさらりとそれを言ってのけたことに動揺を隠せなかった。そのことは、彼にとっても決して人に知られたくないことだと思っていた。

 彼はそこで言葉を継ぐのをやめ、微笑んで私を見た。質問への答えを求めているのだと、わかった。どのように答えるべきか迷った。肯定してしまえば、今までの彼の指摘がすべて当たっていると認めるようで、しかし、最早否定し通すことはできそうにないということも、分かっていた。なぜだかわからないけれど、ここでごまかそうとすれば、今度こそ、本当に自分のことが許せなくなる気がした。

 私は、机に置いていた手を膝の上に移して、まっすぐに彼を見据えた。彼がどんな気持ちで私に聞いたのかはわからないけれど、私にとって、この告白は、とても大きなものになる。

「私は」

 心を決めたつもりでも、口にしようとすると怖くて言葉が震えた。泳ぐ目線を何とか前に留める。

 自分が作り上げてきた「私」を偽物だと認めてしまえば、私は、これまでよりどころとしてきた大きな盾を一つ、失うことになる。私はこの場に至って初めて、今まで嫌悪し、捨てられるなら捨ててしまいたいと願ってきた「私」が、私にとってどれだけ重要なものであったかをはっきりと自覚した。たとえそれが作り物であったとしても、「私」もはや私の一部ですらあり、「私」の否定とは、即ち自己の一面の否定であった。

 言いたくない、と思った。なんで私はこんなことを、よりによって大嫌いな彼に言おうとしているのだろうか。けれど、一面では、言ってしまいたいという思いも確かにあった。理性よりもずっとか細く、かすかな声だ。だがそれこそが、今までずっと否定し、押さえつけてきた、私の本質の思いなのかもしれなかった。

 

 「―――私、ショートケーキのほうが好き」


 沈黙に耐えかねて、思わず口に出してしまった場違いなこと。それが、漏れた私の本当の言葉だと、彼には伝わっただろうか。言わなければ、と張りつめていた気持ちが、すっと軽くなったような気がした。

「そうだよ。この『私』は作り物」

 言ってしまえばなんとあっけない。張りつめていた気がいよいよほどけて、重かった頭が、たまっていた水を抜くように軽くなった。


 彼は黙って聞いて、そうして一言、そっか、と言った。

「三嶋さん、せっかくだしケーキ食べなよ。そんなに嫌い?」

 彼はそう言って、自分も手を付けていなかったチーズケーキにフォークを刺した。お腹は空いていなかったが、ずっしりした気持ち悪さはもうなくなっていた。

 

 ケーキを食べながら、遅れてなんだか拍子抜けしたような気分になった。「私」を否定してしたらどうなってしまうのかと心配していたのが噓のように、私は彼の前で自然にケーキが食べられていた。今まで無理矢理作り上げてきた「私」と変わらないくらい、自然に。

小さいころ、チーズのにおいが嫌で嫌いだったチーズケーキは、久し振りに食べてみると、案外おいしいとさえ思えた。


 ケーキを食べ終わって、そして、結局、私が今日ここへ連れてこられた用件を聞いていないことをいまさらながらに思い出した。

「それで、君は結局何のために連れてきたの?」

そこで彼に質問をしてから、自分の言葉がこうも自由に、素早くつむげるものなのかという事実に感動した。彼が返事を発するまえに、さらに質問を継ぐ。


「って言うか…これを訊いてみたくて」

「――――君はさ」


「うん」


「どうしてあの子に告白しようと思ったの?」


そもそも彼が私を呼び出す原因となった事柄について、聞いてみた。失礼―――というか、非常に野暮であると思ったが、冗談でも、慰めてと言われているので、良いかと思った。


「好き、だったからだよ。一学年上の先輩でさ」


そういって、彼は、さっき本題を切り出したときと同じ様に、まじめな顔と雰囲気を作った。


「僕もずっと、本当の自分なんか誰にも見せてこなかった。でも先輩に、人生で初めてそれを見抜かれた。最初はすごく怖かったけど、先輩はそれを知っても優しかったしね」


 彼が思ったよりずっとありきたりなことを言うので、私は少し拍子抜けした。同時に、他人からすると平易に聞こえるような話を、楽しげに、寂しげに、これほど感情豊かに話す彼の表情に、今まで得体のしれない生き物のように思っていた彼のことが少し人間らしく思えた。

「もう、あきらめたの?」

「三嶋さんも遠慮がなくなってきたね」

余計な質問にさらりと返された嫌味も、意に介さず流せるくらいには、彼に親しみの感情を抱いていた。

「あきらめてはいないよ。今からでも付き合えるならそうしたい。でも、多分、無理だろうなとは思ってたから。だから納得できるってわけでも、ないけどね。」


 こうして、余計な感情抜きに向き合ってみれば、彼はどこまでも、普通の高校生だった。

私たちは喫茶店を出た。彼は一度、自分が払うといったが、私が自分で払うと言うと、素直に割り勘に同意した。まあ建前みたいなものだろう。

連れ立って駅までの道のりを歩く。

「今日はありがと」

「ん、何が?」

「楽になった。結局、今も変わらずいられてるし」

「そっか。それはよかった」

彼はそう言って少し笑った。

「僕もね。ああは言ったけど、やっぱり落ち込んではいたから。三嶋さんが聞いてくれてよかった」


そういって私たちは、駅の改札で別れた。


 家に帰って夕食を食べ、久しぶりにのんびりと風呂に浸かった。鏡に自分を映してみれば、普段と何も変わらない、さえない顔が映っていた。なぜだかわからないけれど面白くなって小さく噴き出すと、鏡の中の女の子も、少しだけ目を細めて、かわいらしく微笑んだ。

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