白鐘 ここね編:「水たまりの向こう、何度でも恋をした」

プロローグ「ぼくは、今日だけ君に恋をする」

ふわりと風が吹いた。


ピンクのシュシュで結んだ髪が、ほわんと揺れる。


耳の奥で、蝉の声が輪になって響いていた。


夏って、音が濃い。色も匂いも、空気も。




「ん〜……今日も、あついなぁ」




わたし、白鐘ここね。小学六年生、十二歳。


アイドルユニット《SPLASH☆SUGAR(スプラッシュ☆シュガー)》のメンバーのひとりで、担当カラーはピンク。ふわふわ系の癒し担当……って、いつも事務所のプロフィールに書かれてる。




でも実際のわたしはというと、朝は弱いし、レッスンではストレッチ中に寝ちゃうし、MCでは噛んじゃうし。あ、でも歌うのと、笑うのは得意だよ?




あと……ぼーっとするのも。




「……桃の缶詰、食べたいなぁ」




登校途中、そんなことをつぶやきながら、わたしはいつもの通学路を歩いていた。


目に映る風景は、いつもと変わらない。




小さな神社の鳥居。


郵便屋さんのバイク。


夏服のスカートの裾がふわりとめくれて、ちょっとだけ涼しい風が脚にまとわりつく。




ほんのり汗ばんだ手にカメラを握りしめて、シャッターをきる。


パシャ。


今日の一枚。


わたしの日記帳みたいなカメラロール。




“夏の朝のにおい”って、忘れないように残しておきたくなるんだ。




でも、このあと――わたしの“夏”は、止まる。




カラン、と靴が小石をはじいた。


あ、と思って足元を見た瞬間――




「……あれ、水たまり?」




朝から雨なんて降ってなかったはずなのに、そこだけ地面が濡れていた。


陽射しを映して、薄く光ってる。




「……ふしぎ。踏んだら、冷たそう」




ぴちゃん。




反射的に、足を出して、踏みこんじゃってた。




次の瞬間、耳鳴りがして、視界が揺れた。


暑さが、一瞬でひいていく。


息が……浅くなって、胸の奥がぎゅうって締めつけられる感じ。




「え……?」




気づいたときには、もう校門が目の前にあった。


そして、そこに――




ひとりの男の子が立ってた。




見たことのない制服。


髪は短くて、夏の海みたいな色。


目が合ったとたん、ふわっと胸が高鳴った。




知らないはずの人なのに、どうしてか、懐かしい。




「……あ、あの」




声をかけたつもりなのに、喉がつまったみたいに、うまく出なかった。




でも、彼は笑った。


まるで、わたしのことを、最初から知っていたみたいに。




「はじめまして。転校してきた、律です。よろしくね」




――その声が、脳の奥にまで響いた。




教室でも、彼のことばかり目で追ってた。


自己紹介も、席替えも、給食の時間も、ぜんぶ。


「はじめまして」なのに、なんだろう、こんな気持ち。




――好き、なのかも。




ちょっとだけ、泣きたくなるくらい、


出会って数時間しか経ってないのに、彼がいなくなることが怖くて。




昼休み、勇気を出して、話しかけた。




「ねえ、律くん。放課後……図書室、行かない?」




「……うん、行こう」




それだけで、鼓動が跳ねる。




一緒に本棚の隅で並んで座って、


わたしはお気に入りの絵本を開いた。


桃の缶詰みたいな、あまくて、やさしい物語。




「これ、好きなんだ」




「……うん、なんか、きみに似てる気がする」




律くんの言葉は、ぜんぶ、特別に聞こえた。




「きみってさ……ちょっと、不思議だね。初めて会った気がしない」




「え? それって……」




「ううん、なんでもない」




でも――


その日、わたしはキスをした。




夕暮れの図書室の隅。


誰もいない時間。


ふたりだけの、甘くて、短い魔法みたいな時間。




唇が重なる瞬間、胸の奥がジン、と熱くなって、


世界が、止まった気がした。




でも。




気がつくと、目の前にはまた、


朝の通学路と、あの小さな――




水たまり。




「……また、朝?」




蝉の声が鳴き始めた。


空は、きのうと同じ。


風も光も、きのうと同じ。




律くんはいない。




でも校門の先に――彼が、また、立っていた。




「……律くん」




一歩、踏み出す。




この日を、わたしは――


何度も、何度でも、恋して、そして愛する。




それが、この夏の始まりだった。

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