エピローグ「恋の終わりと、恋の始まり」

八月三十一日。


夏休み最後の日。


夕焼けに染まる雲が、風のように流れていく。




わたしは、ひとりで旧校舎の音楽室にいた。


静かで、少しだけひんやりしていて、


あの日と、なにも変わらないはずの風景。




でも、あの日の彼はいなかった。


カナトは――あの夜、鏡の奥の世界に消えてしまった。




彼の想いを抱いたまま、


わたしはこの世界に戻った。




彼の“存在”は、わたしの胸の奥に宿ったまま。


もう会えなくても、その想いがある限り、


わたしは前を向いて、生きていけると思っていた。




……でも、本当は。




――もう一度だけでいい。触れたい。


あの声を聞きたい。


あの唇に、もう一度キスをしたい。




そのときだった。




鏡の表面が――音もなく、揺れた。




水面に風が吹いたように、


ひとしずくの光が波紋を描いて、


そこから――彼が現れた。




「……カナト?」




涙が一気にあふれた。




夢じゃない。幻じゃない。


ちゃんと彼のぬくもりが、そこにある。




「迎えにきたよ、しずく」




彼は、微笑んで手を差し出した。


前よりも、大人びた顔。


でも、あの夏の夕暮れに見せたあの目と、変わらない優しさ。




「どうして……?」




「君がずっと想ってくれたから。


君の中の“ぼく”が、消えずに残ったから。


そして……今日が、“法要の日”だから」




「……法要?」




カナトは、小さく頷いた。




「七不思議の花嫁は、“一度だけ現世に戻る”とされている。


想いを捧げられ、祈りを捧げられた日。


それが、今日。八月三十一日。


――ぼくと、きみが“再び出会える日”」




わたしの心は、涙と一緒にあふれていった。




「ねえ、しずく」




「……うん」




「もう一度、恋してくれる?」




彼の言葉に、わたしは微笑んだ。




「……もう、“もう一度”どころじゃないよ。


きみに何度恋したって、また恋したくなるんだから」




そう言って、わたしは彼に飛び込んだ。


胸に顔をうずめて、しがみつく。




彼の手が、そっと背中にまわる。


細くて、少し冷たくて、でもちゃんと温かい。




そして――唇が、重なった。




小さな、でも確かなキス。


再会の証。恋の証明。


――そして、これからふたりで歩む未来の扉を開ける合図。




校舎の外では、夏祭りの打ち上げ花火が最後の音を鳴らしていた。




空が赤と青に染まり、


星がゆっくりと顔を出す。




「これからは、もう消えない?」




「うん。きみが“ぼくの居場所”を作ってくれたから。


……今度は、こっちで生きていける」




「それなら……よかった」




カナトの頬に手を添えて、


もう一度、ゆっくりと口づけた。




彼の胸に耳を当てると、微かな鼓動が聞こえた。


生きている。想っている。


この瞬間が、本当の奇跡。




「カナト、あのね――」




「うん?」




「この夏、わたし……ほんとうに、恋を終わらせて、生まれ変わったんだ」




風が吹き抜けた。




二人の髪が重なり、影が伸びる。




世界に、たったひとつの愛がここにあって。


それを知る者は、もうふたりしかいない。




それでもいい。




それが、わたしの――




「“スプラッシュ・サマー・キス”」




そう、そっと口にしたとき、


わたしたちの夏が、永遠になった。




(幽谷 しずく編・完)

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