第二章「水音の奥、ふたりの世界」
夜の音楽室に、変化が訪れたのは、七月最後の木曜日。
蝉の声が遠ざかり、代わりに、雨の匂いが満ちていた。
わたしがいつものように鏡の前に立つと、
そこに広がっていたのは――もう、“音楽室”じゃなかった。
そこは、水の底だった。
青く、深く、でも不思議と怖くない。
空気は澄んでいて、わたしの体は浮かんでいた。
鏡の中に入った瞬間、息苦しさはなかった。
「ここ、どこ……?」
呟くと、声が波紋のように広がって消えた。
目の前に、カナトがいた。
白いシャツに濡れた髪、頬に水滴を伝わせながら――
「ここは、僕の記憶の奥。
きみと繋がったことで、開いたんだと思う」
「……記憶?」
カナトは、そっと手を伸ばしてくる。
水の中なのに、指先は熱かった。
その手を取った瞬間、わたしの視界に――
ぱあっと、映像が流れ込んできた。
――古い音楽室。
――ひとりでピアノを弾く少年。
――誰も振り返らない。誰にも、名前を呼ばれない。
――ずっと、ずっと、透明だった。
でも、ある日。
白いワンピースの女の子が、声をかけた。
「一緒に弾こう?」
……それは、わたしに、似ていた。
いや、たぶん“前のわたし”。
カナトと出会うべき“誰か”の記憶だったのかもしれない。
「……君は、その子を……」
「覚えてない。でも、きみといると、胸がざわざわする。
懐かしいような、切ないような、……離れたくないって思う」
カナトの目が、濡れたように揺れていた。
まるで、自分の存在が“消えてしまう”ことを恐れてるみたいに。
「ねえ……」
わたしは、カナトの手を強く握った。
「じゃあ、今のわたしを、好きになってよ。
過去なんかより、今のしずくを、ちゃんと見てよ」
カナトは、はっとしたようにわたしを見つめた。
それから、ゆっくりと、目を閉じる。
「いいの? 幽霊の僕を、選ぶの?」
「幽霊でも、夢でも、幻でもいい。
きみの手があたたかいなら、それだけで――」
唇が、重なった。
水の中なのに、熱かった。
ぬるりと溶け合って、わたしの内側を、
カナトの心が流れ込んでくる気がした。
肩が、震える。
心臓の鼓動が、耳の奥でどくどく鳴ってる。
わたしは、今――
この人に“触れられてる”。
年齢も、性別も、命の有無さえも越えて、
ただ、ひとりの“男の子”として。
そして、現実に戻ったとき。
わたしの身体に、異変が起きていた。
朝起きると、熱がある。
身体が妙にだるくて、ぼーっとする。
鏡を見ると、首筋に“赤い痕”があった。
カナトの――キスの跡だった。
……どうして?
あんなの、夢だったはずなのに。
でも、この痕は、確かにそこにあって、
触れるたびに、あの夜の熱が甦る。
「……つながってる……」
呟いた瞬間、胸が震えた。
わたしは、本当に“彼の世界”とつながってる。
鏡越しなんかじゃない、
体と心を重ねてしまったんだ――
その夜、カナトに会いにいくと、
彼の身体が前よりくっきりと“実体”を持っていた。
水を滴らせながら、そっとわたしを抱きしめる。
「ありがとう、しずく。
君が、僕を“生きてる”って思ってくれたから、
こうして、少しずつ戻れてる気がする」
「戻るって……どこに?」
「それは、まだわからない。
でも、こうして君を抱きしめるたびに、
僕は“現実”に触れていける気がするんだ」
彼の手が、わたしの背を撫でた。
その温度は、人間のそれと、変わらなかった。
わたしの体温と重なって、
もうどこまでが自分か、わからなくなる。
ふたりで過ごす時間が、どんどん濃くなる。
深くなる。
わたしのなかの“現実”が、彼の世界に引き込まれていく。
このままなら、きっと、わたし――
「……カナトの世界に行けるかもしれない」
鏡の中の水が、わたしを包み込むように揺れた。
心も、身体も、全部、この夜に溶けていく。
わたしは、きみに触れてしまった。
魂の深いところで、交わってしまった。
この夏が終わる頃、
わたしはもう“ひとり”じゃない。
――ふたりで、生きるのでも、
ふたりで、死ぬのでもなく。
この夏、“ふたりでひとつになる”。
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