シーシュポスの岩

鏡派ねぬ

シーシュポスの岩


 

 土砂降りの庭の奥。窓の外にぼんやりと佇むその影は、昨日土に埋めたはずの彼のものだった。


「…はぁ。」


 ひとつため息をついてから充電コードを引き抜いて、ライラは玄関へ向かう。廊下の空気がいつもよりひんやりとしているのは、ここ数日の雨のせいだろう。湿気のせいでいくらブラシで梳かしても髪の毛のシルエットはままならない。最早ヘアアイロンは必需品になってしまった。

 洗面所に置いておいたハンドタオルを手にして玄関でしばし待つと、ガチャリと金属製のドアが開いてずぶ濡れの彼が顔を覗かせた。チョコレートの色をしたオールバックの髪からは、何本かの毛束が前に降りていて、そこから水分が滴っている。


「ただいま。」

「やっぱり。今日もだめだったのね」


 最後に晴れた日に洗濯物を全て洗いきっておいて良かった。おかげで今、この乾いた清潔なタオルを濡れきった彼に渡すことが出来る。今カゴに溜まっている大量の洗濯物のことを考えると頭痛がしそうだ。一体いつになったら晴れるだろうか。

 

「んー。…あ、コーヒー淹れてくれ。」

「はいはい。」


 帰ってくることは分かっていたので、あらかじめ用意してあったコーヒーを彼に差し出す。冷めきってしまったのは、ライラが充電する前に淹れたから。ぐっしょりと濡れたチェスターコートは暖炉近くのハンガーにかけられた。リビングの柔らかい革張りのソファに座った彼は、疲れた様子でコーヒーを啜った。


「にがっ。…君さぁ、いつになったらコーヒー淹れるの上達するんだい?」

「むりよ。だって成長しないんだから。」


 ふたりは死なない体。つまりは不老不死である。


 顔を顰めてマグカップをテーブルに置いたアンデッドのアーサーは、ここ100年だけでも25749回ライラの手によって殺されており、25749回生き返っている。そして「不老」ということは、その肉体が永遠に成長しないことも意味している。


「はぁーあ。そうやってすぐ諦めるのが良くないんだよ。」

「あなたはそろそろ諦めることを覚えたら?死ねない身体なのに死にたいだなんて、それこそ無謀なのよ。」

「ああ、それなんだが聞いてくれ!今回こそ逝けそうだったんだよ!」


 男は夢を語る生き物だ、とアーサーはよく口にする。彼は死を渇望している。500年前にライラが生まれるよりもはるか昔から生きているこの男は、もはや死しか生きる楽しみはないらしい。死こそが彼を救う。だから死ねない身体でも、死を願ってしまう。死を夢見る。

 男でないからか、ライラには彼の不可能を夢見る感情は理解できないが、冷めたコーヒーの詫びとしていつもの如く話を聞いてやることにした。


「前回より再生に時間がかかったんだ。…うん、やっぱり電気ショックは効果的だな。」

「じゃあ…もう少し電圧を上げてみる?」

「とりあえず明日はそれでいこう。」

「…あ、でもそれなら別の機械が必要だわ。今のじゃ40ボルトも出ないもの。」

「わかった、明日までに作っておくよ。」

「ええ、それなら…」


 リビングの脇へ移動したライラは、いくつもの数式や文字が羅列したホワイトボードに新たに文字を書き足してゆく。アーサーの汚くて濃淡のある人間らしい文字とライラの整った精密な文字は、なんとも対照的だ。


「まず青酸カリ…即ちシアン化合物を服用させる。気絶したあなたの肉体を21回チェーンソーで刺殺、この時特に脳の後頭部と脊髄を重点的に。その後手足を切断して52mの高台から落としてからローラー車で轢殺。でこの次の電気ショックの電圧を…」

「あーあーあー言わなくていいって。どうせ君は全部、ちゃあんと覚えてんだから」

「そう?この後の127の工程も説明しなくていいのね?」

「俺だってもう何千回も君に殺られてんだから、さすがに覚えてるって。」


 けらけらと軽薄そうに笑う彼の笑顔。マロングラッセのような瞳。短めのまつ毛。笑った時だけに現れる目尻のシワ。乾燥した薄い唇。かすかなほうれい線。頬の毛穴のひとつひとつまで、500年経った今も変わらない。ライラはその全てを正確に記憶していた。


「ねえ、」

「ん?」


 水性マーカーのキャップを閉じて、ホワイトボードに背を向ける。ノートに何かを書きとめているアーサーは、きっと既に新しい高電圧放電器の設計図でも書いているのだろう。


「もうやめにしましょう、こんなこと。」


 アーサーの筆の動きがピタリと止まった。少しの沈黙の後、時間をかけてゆっくりと彼は顔を上げて、へらりと顔を傾けて笑った。


「こんなことって…なんのこと言ってんだ?」

「とぼけないでちょうだい。…あなたを殺すことよ。」


 変わらない笑顔を見てきた。ずっと隣で。ずっと死ねないでいるのに、彼は殺されることを夢見る。そして殺す度に彼は生き返る。いつも隣に戻ってくる。そしてまた、嘲るように笑う。

 

 こんなことをもう、500年以上繰り返している。

 

 ライラはもう、こんな思いをするのはいい加減に辞めたかった。変わらない笑顔を見るのはやめにしたかった。見るのなら、いつもとは違った笑顔がいい。殺した後に戻ってきて、諦めたようにけらけらと笑ういつもの笑顔は、もううんざりだった。どうせ諦めないくせに、諦めたようなその笑顔はもう見たくなかった。その自嘲するような笑い声も、もう聞きたくなかった。


 夢を語る彼の表情をもっと見たい。死を語っている時のようなあの顔を。でも、叶わない夢を見ていたって仕方がない。だってそれは無駄な夢なのだから。

 彼にもう苦しい思いはして欲しくない。叶わぬ夢で諦めたように笑うのはやめて欲しい。どうせなら、ふたりでもっと別の夢を見たい。

 

「私、あなたのことが好きなのよ。」


 こんな気持ちになったのは初めてのことだった。伝えたいと思ったのも初めてのことだった。視界が歪んで、まるで何かに対する警告音が耳の中で鳴り響くような感覚がする。きっと、長らく生きてきた中で初めて抱いたこの異常な感情に、身体が驚いているのだろう。


「本当のことよ。ねえ、信じてちょうだい。」

「……」

「私より長く生きているあなたは、私の気持ちなんて馬鹿らしいとでも思うかもしれない。私がどう考えているかなんて、知り尽くしているかもしれない。」


 アーサーは最初こそライラの目を見ていたが、しばらくすると視線を落とした。彼が自らの胸ポケットから取り出した煙草の箱はぐっしょりと濡れている。それでも選んだ1本に何度かライターの火を灯そうとすると、少ししてそこから煙が立った。


「でもね、長く生きているあなたも、恋は知らないかもしれない。そうでしょう?」

「……」

「あなたと私。ふたりで生きていけば、きっと楽しいわ。」


 彼の周りには灰色の煙が漂う。それらを掻き分けるように、ライラはゆっくりと近づいていった。中心にいる愛おしい影を追いかけて。


「そうすれば、あなたもきっと本当の意味で笑えるようになるわ。」

「…本当の意味って?」

「そうやって今みたいに、諦めるような笑い方はもうしなくなる。ふたりで過ごす時間に、あなたも心から笑えるようになると思うの。」


 呆れたような笑みを浮かべたアーサーはライラにそう聞いたので、少し強く言い返してしまった。この思いは本物だから、貶さないで欲しかった。

 ライラはとうとうそばまで近寄って、煙の発生源である煙草を取り上げる。


「だからね、アーサー。もうこんなことやめましょう?」

「……」

「私、本当にあなたのことを心から愛しているのよ。」


 ローテーブルに置いてあるガラス製の灰皿にぐりぐりと煙草の先端を押し付け、かすかな灯火が消えるまで待つ。煙が霧散すると、彼の表情がはっきりとライラの目に映る。

 死を夢見て語るいつものアーサーとは違って、虚ろな瞳をしていた。まるで何かを諦めるような、そんな瞳。

 

「…私ね、愛するあなたをこの手で殺すのも、もううんざり。」

「……」

「あなたもそうでしょう?…そもそも、何万回やっても死ねないのだから、こんなことに労力を費やすのは無駄よ。」

「……」

「…ねえ、お願い。黙っていないでなんとか言ってちょうだい。」


 ソファに座る彼の膝に腰掛け、彼のがっしりとした背中に右腕を回す。もう片方の手で彼の頬に手を添える。ざりざりとした髭は、白髪など永遠に混ざることのない焦げ茶色。


「…ああ、わかったよ。」


 一気に興味を無くしたような、何かを諦めたような声色でそう言った彼は、手に握りしめていた金属製の古びたライターをテーブルに置いた。そしてアーサーは、自らの膝に座るライラの肩をその骨ばった手でがしりと掴んだ。


「本当?」

「ああ」

 

 ようやく死ぬことを諦めてくれたのだろうか。嬉しい。不死の身体なのだから不可能なのに、無駄なことを続けていた自分らが途端に馬鹿らしく思えてくる。

 


「分かってくれたのね!嬉しいわ。」


 ああ、これからはふたりでずうっと幸せに暮らしていけるのだろう。

 

「ねえ、ふたりで海の見えるところに住みましょう」


 返事は無いものの、アーサーの手はゆっくりとライラの首筋を撫でるようになぞっていく。


「庭に植えたオレンジで、マーマレードを作るの。朝にはそれをパンに塗って、カーテンの隙間から吹く風の潮の匂いを感じたいわ。」

「…そうだな」

「カスクートとサンドウィッチを持って、昼間は海に出かけましょう。貝殻を拾ってブレスレットを作るのもいいわね。」

「…きっと君によく似合うよ。」

「うふふ、本当?」


 夢見る少女のようなライラの声は、ふたりだけの広いリビングによく響く。止まぬ雨音など、彼女にはもう聞こえていない。むしろ聞こえるのは、青々とした海のさざ波の音だった。

 

「赤いパラソルの下でひと休みして、眠るあなたにキスをする。きっと、ココナッツの甘い味がするの。ねえ、こんなの素敵じゃなくて?」

「……」

「聞いてる?…アーサー?さっきから何して…」


 首の後ろに彼の指が触れる。肉体的な接触は今まで無かったが、こういう始まり方をするのだろうか。長年生きているライラでもまだ、その辺は学習していない。

 ああ、待ち遠しい。彼と愛を育む日々が。生きながらえることが苦痛だった先程までが嘘のようだ。今は彼とふたりで生きてゆく喜びが、ライラの心を踊らせていた。


「聞いているよ、続けて。」

「…とにかく、もう雨の降らない場所に住みたいわ。毎日挽きたての豆で美味しいコーヒーを淹れてあげる。……だからね、あなた。」

「……」

「だからもう、死にたいだなんて言わな……」


 


───ブツン。

 

 


「……はあ。」


 アーサーのため息がひとつ、暗闇の中に落ちていく。首の後ろにある電源ボタンを押した殺人特化型アンドロイドは、どさりと腕の中に倒れ込んだ。


「これもダメか。」


 本体をずりずりと引きずって、本棚にたどり着く。いくつかの仕掛けをクリアしてから、アンドロイドには見せたことのなかった地下室への隠し扉を開く。またもその重たい機体を引きずって、階段を一段ずつ降りてゆく。

 もうかれこれ500年は開けていなかった突き当たりの扉を開く。その先には、部屋を埋め尽くすほど無数の殺人特化型アンドロイドが積み上げられていた。

 そろそろ足場が無くなってきた。いくつかの機体を踏みつぶしながら投げ捨てるように今回のを放り込み、手の汚れをズボンで払う。口にはほろ苦いコーヒーと煙草の味が混じって残っており、次の1本を欲している。

 

 もう何体目だろうか、考えるのも疲れてしまった。また次のバージョンを作らなければ。今度こそ、「恋」というエラーを起こさない機体を。

 

 いつも同じ終わり方をする。感情を持たないはずの殺人特化型アンドロイドは、なぜかアーサーに恋をする。心など存在しないはずなのに、決まって「心から愛している」という妄言を吐く。

 そして、本来の目的である殺人行為をストップしてしまうのだ。

 いくらこのエラーを取り消そうとしても、アーサーの長年の研究と開発は徒労に終わっている。だから今もこうして生き長らえている。

 

 いつになったら諦めがつくのだろうか。死への渇望は、いつになったら止むのだろうか。


「…はっ、」

 

 アーサーは一人、諦めのつかない自分を諦めるかのように小さく笑ってから、その古ぼけたドアをそっと閉じた。

 

 何度目かも分からない彼の自嘲するような声は、無機質のみ存在する地下室によく響く。積み上げられたアンドロイド達は、この先何度も何度も、彼の諦めるような笑いを聞かされることになるのだろう。


 


 

 

 

 

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シーシュポスの岩 鏡派ねぬ @ene334514

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