第2話

 あれから数日たったがまだ父上には無断で聖女を外に連れ出したことはばれていないようだった。あるいはそうと知って黙認しているだけかもしれないが、結局はどっちも同じことだ。なんにせよ顔を合わせずに済むのならそれに越したことはない。半ば衝動的に始めたことではあったし理想的な成果が得られたわけでもないが、初めて外の世界に触れた聖女の反応を眺めるのは意外に面白かった。次はいつにしようかと考えていたその時、なんと聖女の方から俺の元に使いがやって来たのだった。早速聖域を訪れてみれば、以前と同じように澄ました顔で彼女は俺を待っていた。


「まさかそちらから呼んでいただけるとは思っていませんでしたよ」


「どうせ呼ばなくたって来るでしょう? だったらどちらも同じことです」


「それで、いったいどういう御用ですか」


「……どこか見晴らしのいい、小高い丘のような場所をご存じありませんか?」


「それはまあ、心当たりはありますが」


「でしたら私をそこへ連れて行ってほしいのです」


 彼女の意図は判然とはしないがもともと外に連れ出すつもりではあったので断る理由はない。ただあまり遠出をすると聖女の不在が露見してしまう可能性もある。まあこの際それでも構わないか、と自分を納得させる。


「わかりました。馬車を用意させますから準備でき次第出発しましょう」


 聖女は小さく頷いた。




 この王都には王宮よりも高い建造物は存在しない。法でそう定められているわけではないが、暗黙の了解として王宮の高さを超えることがないよう意図的に造られているのだ。したがって市街地にはあたりを見渡せるような高所はなく、そういった場所を求めるのなら郊外にまで足を延ばす必要がある。

 しばらく馬車に揺られた末にたどり着いたその場所は、この王都で唯一王宮を見下ろすことができる場所だ。それは即ちこの国の権威と王族を見下すことが許された特異な場所であり、当然一般人が許可なく立ち入ることはできない。馬車を降り、従者たちもその場において、俺は聖女と二人で木々の合間に造られた坂道を歩いて行く。大人からすればそう険しい道でもないのだが、聖女は何度か足を止めてその度に呼吸を整えている。


「やはりこういったことは慣れませんか」


「それは、そうですが……自分で言い出した、ことです。お気になさらず」


「まあ、いざとなったら俺が担いでいきますよ」


「え!? いや、それは……」


「冗談ですよ。ほら、あと少しです。がんばりましょう」


 やがて丘の頂上にたどり着くと目の前に巨大な石碑が現れる。それでも以前見た時よりも少し小さく感じられるのは、それだけ俺の身長も伸びたということか。


「これが我がご先祖様たちの墓所ですよ。といっても、俺もここに来たのはお爺様が亡くなった時以来ですが」


「ここが……」


 荒い息を繰り返しながらも聖女は身の丈の三倍はあろうかという石碑を見上げている。そしてその向こう、王都の賑わいを超えた先に燦然と王宮がそびえ立っている。歴代の聖女でもこの光景を目にしたことがあるものはほとんどいないだろう。そして王宮が焼け落ちてしまうのなら、この先同じ体験をすることができる者は一人としていなくなる。聖女を敬いその言葉に従ってきた先人たちは、今墓の下で何を思っているのだろうか。そんな妄想がふと脳裏をよぎった。


「……貴方と外に出たあの日以来、見知らぬ景色をよく夢で見るのです」


 ようやくいくらか落ち着いた様子の聖女は、眼下に広がる街並みを眺めながら静かに語りだした。


「今まではずっと王宮の周辺の、私が知っている光景しか見えなかった。だからあの日、私が知っている世界の全てがやがて炎に包まれるとわかった時、もう私の居場所はどこにもないんだと思いました」


 彼女の言葉は俺に向けられているようでありながら、まだ見ぬ世界にそっと呼びかけているようにも感じられた。少女は振り返って俺の眼を見つめる。


「だけど私の未来はまだ繋がっている。それを切り開いたのが貴方なのだとしたら、私は貴方に賭けてみたいと思ったのです」


「それは……つまりどういうことでしょうか」


「ここに来てはっきりしました。私が燃え盛る王宮を眺めていたのはこの場所です。それがわかったのなら、何か変えられることがあるかもしれない」


 そう言った彼女の瞳には確かな決意が感じられた。




 聖女は三百年前の建国当初から王に仕え、この国の未来を予見してきた。その中には王族の不慮の死や大災害といった悲惨な予見もあり、当時の人々はその未来を変えようとあらゆる努力を試みてきた。そういった歴史の積み重ねの末、聖女の予見した未来は絶対に変えられないということがわかったのだった。それでもあらかじめ何が起こるかわかっていれば多少なりともその被害や混乱を小さくすることはできる。そうやって王国は現在の繁栄を築いてきたのだ。

 おそらくそう遠くない内に王宮は何らかの理由で焼け落ちるだろう。それでもなお俺たちにできることがあるとすれば、それはいったい何なのか。あの日からずっと考えているが未だに答えは出ていない。例えば王宮や街にいる人間を事前に避難させておくという手もあるが、父上がそれを認めるとは到底思えない。俺が直接呼びかけたところで真に受ける人間などいないだろう。そうなるといよいよ聖女本人に動いてもらうしかないが、はたしてそんなことが可能なのだろうか。確かに今まで何度も聖女を連れ出すことには成功しているが、俺はずっとある懸念を振り払えずにいた。それが確信へと変わったのは、近衛兵から玉座の間へ来るように伝えられたその時だった。




 この王宮の中枢部、この国で最も金と時間が使われた空間である玉座の間へと俺は足を踏み入れた。一歩前へと踏み出すごとに全身の骨が軋む様な不快感が増していく。豪奢な鎧を全身にまとった近衛兵たちの手前で立ち止まり、俺はゆっくりと跪き頭を垂れた。肺に流れる空気すら淀んでいくような重い沈黙の中、しわがれた低い声が俺の頭上から降り注いだ。


「ザレウスよ」


「はっ」


「お前がどんな恥をかこうが知ったことではないが、祖先を貶めるような真似を見過ごすわけにはいかん」


 胸に杭を打ち込まれたかのような衝撃を覚えながらも、俺は落胆にも近い感覚に囚われていた。だがここで黙っていれば状況は悪化するばかりだろう。俺は気力を振り絞りどうにか声を絞り出す。


「やはりご存知でしたか。ですが私も陛下の目を欺けるなどとは思っておりませんでした」


「なんと言っていた?」


「……は?」


「聖女は、お前になんと言っていた」


「それは、その……」


「言え。言わぬなら相応の罰を下す」


「……あの王墓こそ自分が夢で見た場所であり、そうであればまだ変えられることはあるかもしれない、と」


「他には?」


「……その、私に賭けてみたくなった、ともおっしゃっていました」


「ほう、そうか。賭け、か。なるほどな」


 完全に父上にのまれてしまっているのが自分でもわかるが、かといって今更抗えるはずもない。この人は自分の親である前にこの国の最高権力者であり、それを曲げたことは今まで一度もなかった。俺が父から貰ったのは地位と金、そしてこのザレウスという名だけだ。愛はもちろん、叱咤すらこの人は与えてくれなかった。遅くに生まれた三人目の子など今更眼中にないのだろう。


「近頃、兄と会ったか?」


 急な話題の転換についていけず俺は数瞬口ごもる。元々この人は俺に限らず自分の子どもに大した興味など抱いていなかったように思える。一番上の兄などは色々と政治に口を出していたようだが、父上からは完全に無視されている。まさか兄弟仲を気にしているというわけでもないだろうが、いったいどんな意図があるのか俺にはさっぱりわからない。


「いえ、会っておりません」


「……そうか。なら、今後も会うな」


 それはもう彼らの弟として振る舞うことをやめろ、という意味なのだろうか。俺がその含意を量りかねていると、頭上からくぐもった笑い声が聞こえてきた。まさか、あの人が笑っているのか。にわかには信じ難いことだが、息子と言えど王の御前である以上は勝手に顔を上げることはできない。


「どうもまだ反抗期が続いているようでな。関わらん方が身のためだ」


 そう言うともう用はすんだといった様子で、父上は私室の方へと帰っていった。聖女を連れ出したことに関しても、結局何のお咎めもなかった。




「なんだか浮かない顔ですね」


 また聖域を訪れると聖女は俺にそう言った。


「……そう見えますか?」


「いつもの貴方はもっと余裕があるというか、ふてぶてしい顔をしていますよ」


 彼女からすると俺はそんな風に見えているのか、とやや新鮮な驚きはあったが、その観察通り今の俺には以前のような余裕はなくなっていた。もちろん例の予言のことも忘れていないが、どうも父上の言葉には引っ掛かるところがあった。その得体の知れない違和感について考え始めるとなんだか気分が悪くなってくる。まあそれはともかくとしても今日は諸々の事情を聖女に伝えるためにやって来たのだった。


「そういうわけでやはり父上は全てお見通しだったようです。今すぐ何かあるというわけではないでしょうが、しばらくは外出は控えた方がいいかと」


「それは構わないのですが、その、貴方は大丈夫なのですか?」


「……と、言いますと?」


「だって、王子の身でありながら国王の考えに逆らっているわけでしょう? そんなことをしていては貴方の立場が悪くなるのでは……」


 どうやら彼女は俺の心配をしてくれているようだった。そこまで純粋な好意を向けてくれるようになったのかと思うといささか悪い気はしないが、だからといって浮かれているわけにもいかない。事実彼女の言っていることは一般論としてはまったく正しいのである。


「ずっと聖域にいたあなたはご存じないでしょうが、俺の立場や信頼などというのは十代の頃の素行のおかげでとっくに地の底まで落ちているのですよ。政治的影響力などほとんど持っていませんし、今更それを回復できるとも思っていません。つまり謀反でも企てない限りこれ以上立場が悪くなることなどないのです」


「……それでご自分をごく潰しだなどとおっしゃったのですか」


「まあそんなところです」


 聖女が知る他の二人の王子に比べれば俺は実に異様な存在に見えるだろう。だが今にして思えば、だからこそ彼女は俺の中に何かしらの可能性を見出したのかもしれない。とはいえ本当のところは彼女自身にしかわからない。


「私には貴方がそんな無為な人だとは思えませんが」


「買い被りですよ」


 それでも彼女が俺に何かを期待しているのなら、できる限り応えてやりたいと、そう思うようになっていた。




 聖域を出て門をくぐろうとした時、ふと違和感を覚える。見張りの衛兵がいないのである。いくら父上が聖女を信じていないとしても、彼女の動向を監視するために見張りは必要だろう。すると物陰から一人の男が姿を見せる。俺はその顔を見て反射的に一歩後ずさった。


「兄上、何故こんなところに……」


「それはこっちのセリフだ、ザレウス。お前のような奴が聖女にどんな用があるというのだ」


 長男であるアルバンは俺の腹違いの兄弟であり十五も年上だ。当然俺との間にはあらゆる意味において覆しがたい差がある。アルバンはそれを当然のことだと思っているし、俺もあえて逆らおうとはしてこなかった。それがまさか、こんな非公式の場で向こうから接触してくるとは。不意に父上から聞かされた言葉が脳裏をよぎる。どうも何かしらただならぬ事情があるのは間違いなさそうだった。


「どうした? 答えられないか」


「……いえ、ただ聖女様がどんなお方なのか少し興味があっただけです」


「信心など欠片もないお前がどんな興味を抱くというのだ。それとも普通の女にはもう飽きてしまったか」


「まあそんなところです」


「ふん、どうだかな。それよりお前、父上に呼び出されたそうだな。何を聞かされた?」


 アルバンの視線は冷たく、警戒と疑いの色で塗り固められている。その様子を見ているとありのままを話すことは躊躇われた。


「お前の行いは目に余るとお叱りを受けました。ばれていないと思っていたのですが、どうも詰めが甘かったようです」


「それだけか?」


「はい、それ以外は特に何も」


「……まあいい。これ以上余計なことをするなよ。その気になればお前などいつでも勘当してやれるんだからな」


「はい、心得ております。全ては兄上のおかげです」


 アルバンはそれで満足したのか別れも告げずにそのまま歩き去っていった。俺はその背中を見送りながら何か不吉なものを感じずにはいられなかった。

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