第2話:涙、草露に宿りて

『ねぇ、どうして逃げたの?』


光のない虚ろな瞳で、母がこちらを見つめながら問いかける。


『いてぇよ……助けてくれよ……』


血まみれの父が、這うようにこちらへ手を伸ばす。


「……!」


声を出そうとしても喉はひゅうひゅうと空を切るだけ。口ばかりが動き、一言も発せられない。


『私はあなたを守ろうとしたのに……あなたは、私を置いて逃げるのね』


その眼差しはまるで、ゴミを見るような冷たさだった。


ごめん……なさい……


『……お父さん、こんなに痛い思いしたのに、見捨てるのか……』


泣きじゃくるような声で、父は絶望の表情を浮かべていた。


……ごめんなさい。俺が……二人を……


「ごめ……んな、さい……」


一筋の涙が頬を伝い、目が覚めた。


見慣れぬ天井が広がっている。


「ここ、は……?」


ふと、食欲をそそる香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。匂いのする方へ視線を向けると、台所に立つ一人の男の姿が見えた。鍋からグツグツと音が響き、どうやら何かの料理を作っているらしい。


「おはよう、お兄ちゃん」


聞き慣れた声に反射的に振り返る。そこには、安堵と悲しみが入り混じったような複雑な表情を浮かべた白が立っていた。


「白……無事で、良かった……」


とりあえず、白は生きている。その事実だけで胸が熱くなった。


すると、台所の男がこちらを振り向く。


「おはよう。元気そうで何よりじゃ」


優しげに微笑むその男は、年の頃は七十を過ぎていそうだった。深い皺と白髭が印象的な、穏やかそうな老人だ。


「お兄ちゃん、この人はね――」


「まぁまぁ、白ちゃん。まずは腹ごしらえじゃ」


白の言葉にかぶせるように朗らかに笑い、出来上がった料理を食卓へと運ぶ。簡素なスープとパンだけの食事だが、香り高く、部屋に優しい匂いが漂った。


「立てそうかのう?」


心配そうに問いかける老人に、連牙はゆっくりと体を起こす。幸い、大きな怪我はない。


「……ありがとうございます」


礼を述べ、三人で食卓を囲む。


――白の話によると、この老人の名前は廉三れんぞう。俺たちが倒れているところを偶然発見し、自宅に運んで介抱してくれたらしい。俺は一日中気を失っていたが、白は俺が目覚める少し前に目を覚まし、何が起こったのかを廉三に話したという。


「そうだったのか……助けていただいて、本当にありがとうございます」


深く頭を下げると、廉三は「ホッホッホ」と笑い、首を振った。


「そんなかしこまらんでええ。ここは自分の家だと思うて、好きに過ごしてくれればええんじゃ」


「い、いや……そんな……」


ありがたい申し出だった。だが、ふと我に返ると、家に帰ったとしてももう、父さんも母さんもいない――


「……やっぱりパパとママ、死んじゃったのかな……」


ぽつりと漏れた白の言葉に、胸が締め付けられる。


「白……」


重苦しい沈黙が流れる中、それを破ったのは廉三だった。


「……儂には、二年前に礼子れいこいう妻がおっての」


突然、自分の過去を語り始める。


「それはもう、儂には勿体ないくらいの女でな。明るくて要領も良くて……尻に敷かれとったが、それすら嬉しかった」


「……その礼子さんは、今どこに?」


白が訊ねる前から、答えは予想できていた。


「……死んだよ。二年前、亜獣に殺されてな」


表情に寂しさが滲む。


亜獣あじゅう……」


「そうじゃ。あれは何百年も前に突如として現れ、この世界を滅茶苦茶にした。目に映るものを無差別に襲い、ただ殺すためだけに存在しているような怪物じゃ」


狼のような姿をした二足歩行の化け物。背丈は優に二メートルを超えていたという。


「確か、その後、理弩羅りどらを授かった人間が亜獣の暴走を止めたんですよね……」


神より授かりし超常の力――理弩羅りどら。それを得た者たちが、亜獣に対抗し世界を守った。今でもその戦いは続き、「十花隊じっかたい」という政府直属の精鋭が日々最前線で戦っていると聞く。


「……儂が家に帰った時には、もう遅かった。礼子は亜獣に……目も当てられん状態だった」


「そんな……」


白が小さな手で口元を覆う。


「十花隊の人たちは……?」


ふと浮かんだ疑問をぶつける。


「当時住んどったとこも田舎じゃったからの。しかも、亜獣の目撃情報も無い地域。限られた人手を、都市部に優先して配備するのは仕方のないことじゃ」


「……そう、ですよね」


頭では分かっていても、心が納得しない。


「儂はな、礼子が死んでからというもの、生きる意味が分からなくなったんじゃ。何のために、誰のために、生きとるんじゃろうかって」


スープをひと口啜ると、廉三は真っ直ぐにこちらを見据える。


「じゃが、それでもな、儂は死ぬまで“生きる”ことを選ぶと決めたんじゃ」


「……廉三さん」


白も涙を堪えるような表情で廉三を見つめる。


「生きる意味なんぞ、なくたってええ。復讐を糧にしてもええ。じゃが、“もう死んでもいい”なんて思っちゃいかん。それこそ、先に逝った者たちに怒られてしまう」


目頭が熱くなり、視界が滲む。白のすすり泣く声が静かに響く。


「辛かったじゃろう。泣いてもええ。立ち止まってもええ。お主らは、今……生きとる。それがすべてじゃ。だから、親御さんの分まで……泣け」


「うわああああああああああああ!!」


抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。


連牙も、いつの間にか大粒の涙を流していた。


「パパとママに……会いたいよぉ!」


「ああ……そうだな……」


この悲しみは、たぶん一生消えない。

けれど――それでも、生きていくんだ。

だって、死んだらきっと、父さんと母さんは俺を叱るだろうから。

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