第9話 贖いの形
《問いの残響》
廃ビルの一角。床に散ったガラスと湿った木材の匂いが、静けさのなかに滲んでいた。
フィアが展開した結界の内側で、ふたりは肩を寄せるようにして腰を下ろしている。
わずかに破れた制服の裾が、
「……傷は?」
短く、フィアが問いかける。
「……平気」
そう応じた
それ以上、どちらも口を開かなかった。
沈黙が、夜の空気のようにじっとりと染みこんでくる。
──それでも、目は合った。
無事であることを、言葉ではなく視線で確認する。
それが今のふたりにできる、精一杯だった。
──守ったつもりで、相手を壊したとき。お前は赦されるのか?
その声が、脳裏で焼きついたように繰り返される。
まるで内側から何度も問い詰めるように、吸血鬼の言葉が
誰も口にしなかったことを、あいつは迷いなく言葉にしてきた。
「……赦されるのか、俺は……」
つぶやいた声は、自分自身にすら届かないほど微かだった。
視界の隅に、過去の光景が差し込んだ。
中学の頃。
教室の隅で、ひとりの少女が泣いていた。
泣き声は小さく、机の陰に隠れるようにして。
誰も彼女を見ていないふりをしていた。
(……あのとき、俺は……)
足を動かせなかった。
声をかけることすらできなかった。
誰かを傷つけたわけじゃない。けれど、守ることもできなかった。
記憶の上に、吸血鬼の声が重なる。
“守ったつもり”で、壊したのではないか——。
「……そろそろ、動けそう?」
フィアの声で、意識が現在に戻った。
「……ああ」
だが顔は上げない。フィアから視線を逸らすように。
「……目、合わせないんだ?」
淡々としたフィアの声に、針のような鋭さが混じる。
「疲れてるだけだ」
即答。けれどそれは、あまりにも分かりやすい嘘だった。
フィアはそれ以上何も言わず、静かに息をつく。
わずかに身を離し、フィアが荷物を整理し始める。
結界の持続時間を見直し、符の準備をする手は、どこか慎重すぎるくらいに丁寧だった。
その隙に、
自分の指が、誰かを守るには細すぎるように感じた。
「……あのときと、同じだ」
かすれるような声で、誰にも聞かれないように呟く。
「“守ったつもり”だっただけかもしれない……」
その言葉を、夜の静けさだけが受け取った。
《不器用な距離感》
廃ビルの壁のひび割れに、風が小さく鳴いている。
今のふたりには、それすら十分すぎるほどの音だった。
フィアは灯りのそばで、符を一枚ずつ確認している。折れや焦げ、染みの有無を静かに見つめ、必要なものだけを選り分けては、新しい束に差し替えていく。
警棒のロック、無線の状態、ホルスターの留め具——
どちらも作業に没頭しているように見えて、どこか手元がおぼつかない。
フィアはちらりと横目をやった。
(やっぱり……まだ、引きずってる)
思わず、フィアはひとつため息を吐いた。
「——また、自分だけで抱え込んでる顔してる」
乾いた口調。だが、わざと軽く流すような響きがあった。
「……そんなつもりはない」
つもりは、ない。
でも結果として、抱え込んでいることは否定できなかった。
「ふーん」
フィアは視線を逸らす。けれど、その声色には針のような問いが滲んでいる。
「じゃあ——誰に赦してほしいの? その“失敗”を」
言葉が出ない。
口を開きかけて、すぐに閉じる。
誰に、赦してほしいのか。
過去に傷つけた誰かか。
救えなかったあの子か。
それとも——自分自身か。
でも、それが言葉にならない。
「……わかんねえよ」
ぽつりと零れたそれは、答えではなく、問いそのものだった。
フィアはそれ以上何も言わなかった。
ただ静かに、符の束を整える手を再開する。
しばらくの沈黙のあと、フィアは懐からひとつの包みを取り出した。
簡易符菓。非常時の魔力補給用のおやつだ。包装紙には、剥がれかけの星印がついている。
それを、何の前触れもなくポンと放る。
思わず、少しだけ頬が緩む。
「……助かる」
フィアは何も言わず、背を向けたまま手を振った。
言わなくてもわかる、とでも言いたげに。
言葉は少ない。でも、ちゃんと隣にいる。
ふたりの距離は、不器用だけど、たしかに近づいていた。
《贖いとは“自分で選ぶこと”》
窓のない空間は、時間の流れすら忘れさせる。
誰かが発する音も、時計の針も聞こえない。
ただ、外の世界から隔絶されたような静寂だけが、二人を包んでいた。
視線は虚空へと投げ出され、意識だけが今も“あの問い”の中に囚われているようだった。
(——赦されるのか?)
何度反芻しても、答えは出なかった。
答えようとすればするほど、手のひらからすり抜けていく。
そんな彼の横顔を、フィアはしばらく黙って見つめていた。
やがて、静かに隣へ座る。
視線を合わせず、ただ目を伏せたまま。
「……あたしにも、いるよ。守れなかった奴」
その言葉は、まるで沈黙の表面にそっと石を落としたかのようだった。
ハルは、驚いたように目を瞬く。だが何も言わず、視線だけをそちらに向ける。
「何もできなかった。ただ見てた。怖くて、震えて、動けなかった」
フィアは自分の手のひらを見つめていた。
その小さな掌に、今もなお残る“あの時の無力”を確かめるように。
「誰にも責められなかった。誰も何も言わなかった。
だから……ずっと、自分で責め続けるしかなかった」
語尾が少しだけ、震えた。
怒っているのでも泣いているのでもなく、ただ“痛み”が言葉に滲んでいた。
「……でもね」
ふいにフィアの声が和らぐ。
どこか遠くを見るような瞳で、続ける。
「アンタの言葉、覚えてるよ。“守りたい相手がいるから、守るだけ”って言ったやつ」
「……そんなこと、言ったか?」
「バカみたいなセリフだったけどね。
でも——その時のあたしには、効いたんだよ」
その一言で、あのとき心が少しだけ軽くなった。
あの言葉を信じたから、今の自分がいる。
けれど。
「なのに……なんで、あんなやつの言葉で、立ち止まってるの?」
声のトーンが、変わった。
怒り。苛立ち。そして——願い。
「“赦されるか”なんて、他人に聞くことじゃない。
立てなくなったら、全部無駄になるって……そんなの、悔しいじゃない」
彼女の言葉は、まるで痛点を刺すように、鋭く、正しかった。
「……あたしは、あんたみたいな奴を、羨ましいって思ってた」
「不器用でも真っ直ぐで、言葉じゃなくて背中で見せてくるような——」
「そういうとこ、何度も助けられたの」
フィアの声音が震える。
それは怒りというより、心の奥でずっと溜めていた想いの吐露だった。
「だから今さら、逃げないでよ……」
最後の一言には、怒りでも説教でもない、“祈り”が宿っていた。
しばらくの沈黙が落ちる。
目を閉じ、小さく、息を吐いた。
「俺は……まだ、怖い」
「失敗するかもしれない。誰かを、また傷つけるかもしれない。……でも」
ゆっくりと顔を上げる。
「それでも、やっぱり立ちたい。
“守りたい”って気持ちは、消えてないから」
そう言った
「……バカみたいに正直。
でも、そういうとこは嫌いじゃないよ」
どこか安心したように、でも少しだけ照れくさそうに。
それは、誰かを信じる者の笑みだった。
《顔が見える距離で、共に立つ》
空気が止まったような時間が、しばらく流れていた。
フィアの言葉は、今もこの小さな空間に残響のように漂っている。
怒りも、痛みも、願いも——全部、まっすぐで。
視線を逸らし、ふと壁に手をつく。
その指先が、微かに震えているのがわかった。
震えているのは身体か、それとも心か。
(……怒ってくれた。俺のために。あいつが……)
ただの責めじゃない。罵倒でもない。
真正面から怒るって、そんな簡単なことじゃない。
それは——本気で信じてるからだ。
ゆっくりと息を吸って、吐く。
けれどその直後、あの問いがまた胸をえぐった。
『——守ったつもりで、相手を壊したとき。お前は赦されるのか?』
答えは、未だ見つからない。
頭の奥に浮かぶのは、もう何年も前の光景だ。
教室の隅で、肩を震わせていた女の子。
周囲は冷たく笑い、見て見ぬふりをしていた。
——自分も、結局、動けなかった。
(あのとき、俺は……ただ見てた)
でも——同時に思い出す。
フィアが自分の前に立ち、魔術に巻き込まれそうになったあの日。
咄嗟に身体が動いた。自分でも驚くほどに。
『俺は、お前が戦いの中で傷つかないようにしたい。それだけだ』
あの言葉は、自分の中に確かにあった。
フィアに向けたものだったけど——
きっと、自分自身に向けていたのかもしれない。
(赦されるかどうかなんて、わからない。
でも……“今ここにいる相手”と、ちゃんと向き合いたい)
彼女はまだ、目を伏せたまま符をいじっている。
「……俺は」
声が小さすぎて、自分でも聞き取れない。
でも、続けた。
「俺は……やっぱり、“守りたい”と思うよ」
フィアの手が、僅かに止まる。
「顔が見える距離で、そばにいる相手を」
「もし間違ったら、ちゃんとその場で謝れる距離でいたい」
空気が、ふっと緩んだ。
フィアはゆっくりと顔を上げると、まるであきれたように、ため息交じりに笑った。
「バカみたいに正直」
その笑みは、どこか照れくさそうで——でも、心からのものだった。
「……でも、そういうとこは嫌いじゃない」
やがて、彼はゆっくりと立ち上がる。
が、まだ完全には体力が戻りきっていないのか、少しだけバランスを崩す。
その瞬間、フィアが無言で手を差し出した。
「ありがとう」
短く、それだけ。
フィアはそっぽを向いたまま、小さく返した。
「……今度は、ちゃんと並んで戦うんだから」
その言葉に込められた信頼と決意が、
《再戦への歩み》
夜の静寂を切り裂くように、空が揺れていた。
窓越しに見える市街地の彼方。
黒く塗り込められた夜空の一部が、ほんのわずかに、波打っている。
境界線のような輪郭が浮かび上がり、
紫がかった光の“にじみ”が、現実の色彩をじわりと侵食していた。
まるで、見えない何かが、向こう側から息をしているようだった。
「……来たな」
フィアは、黙って頷く。
目は窓の向こう——異界の兆候を見据えている。
「さっきより、大きい。これ、もうすぐ“開く”よ」
淡々とした口調に、わずかに焦りが混ざっていた。
ふたりはそのまま、しばし無言でその光景を見つめていた。
けれど、恐れではなかった。
足元からゆっくりと、静かな“決意”が立ちのぼってくる。
フィアが、静かにその場に膝をつく。
鞄の中に手を入れ、ひとつの装備を取り出した。
銀色の光沢がわずかに反射する。
符で補強された籠手。
「——それ、訓練の時に置いてきたはずじゃ……?」
驚きを滲ませるハルの声に、フィアは肩をすくめる。
「家に置いておくなんて、あり得ないでしょ。
道具は、使うためにあるの。……装備しなきゃ意味ない」
淡々とした声音。
でもそこには、どこか“背中を預ける相手”への信頼がにじんでいた。
手首から肘までを包むように、ぴたりと収まる。
籠手の中の護符が、
フィアが立ち上がり、
「行こう」
その言葉には、迷いも遠慮もなかった。
「今度は、ちゃんと並んで戦うって、決めたから」
「“守る”じゃなく、“並ぶ”か」
フィアは目を細めた。
「……嫌だったの。“守られる側”って立ち位置が。
あたしは、そういうふうに戦いたくない」
その一言で、ふたりの関係が、確かに“横並び”に変わったことを知った。
そっと風が、足元を吹き抜けていく。
「今度は、俺も託された側だな」
フィアがにやりと笑う。
「だったら、ちゃんと使ってよ。無駄にしたら、呪うから」
ふたりの間に、言葉にならない“確信”が生まれる。
そして、並んで歩き出した。
異界の歪みが現れる方向へ。
光が揺れる夜空の向こうへと。
やがて、街の上空にぼんやりと浮かび上がる“門”のような光が、
ゆらりと、世界の境界を歪め始めていた。
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