第8話 ただの人間であるために、弱さとともに歩く
《静寂の崩壊》
廃墟の奥へと、二人は歩みを進めていた。
夜の闇を裂くのは、
しかしその空間には、何かが――足りなかった。
風も、虫の声も、何ひとつない。
「空気が……“吸い込まれて”る……?」
その声さえも、どこか遠ざかるようだった。音が、壁に吸われていく。呼吸までもが薄くなる感覚に、自然と足が止まる。
フィアは黙ったまま手を伸ばし、空中をなぞるように符をひとつ描いた。
淡い光が空間に溶け、波紋のようにゆがみを浮かび上がらせる。
「……何かいた。多分、複数」
言葉少なに告げられたその一言に、場の空気がピンと張り詰めた。
見えない、でも、何かがいる――その確信だけが残される。
「今……誰かの――?」
耳の奥で誰かの足音が遅れて響いたような気がして、反射的に振り返る。
瞬間。
壁の影がほどけた。
空間が、音もなく“解ける”。
床が沈み、視界がぐにゃりと歪んだ。光がねじれ、時間すら巻き戻されているような錯覚に陥る。
フィアが叫ぶ。「離れてッ!」
けれど、その声も、魔術の膜を通したように鈍く、届かない。
空間が、二人を分断した。
「っち……逃げろ、フィア!!」
ハルが懐から閃爆符を抜き放ち、力任せに投げつける。
符が宙で弾け、爆ぜる直前――魔術式が閃光のように奔った。
ドンッ――!
鈍く響いた爆発音。
直後、天井の一部が崩落し、視界を覆う土煙と瓦礫。
フィアの目前を何かが通り過ぎ、追跡者が立ち止まる気配。
一瞬だけ、ためらう。
けれど、
「……わかった」
短く呟くと、フィアは瓦礫を飛び越え、脱出ルートへと走り出した。
光が瞬き、空間の重力が崩れていく。幻術――いや、もっと厄介な混合型。
「くそ……まだ、動けるっ——」
呻きながら体勢を保とうとした刹那、背後からひんやりとした何かが腕に絡みつく。
それは“魔力の縛り”だった。
蛇のように這い回る束縛が、全身を締め付けていく。
歯を食いしばり、足に力を込めようとするも、膝が抜けた。
視界の端が、黒に溶けていく。
「……く、そ……」
意識が沈む。空間そのものが、飲み込むように視界を奪った。
「……閉じた」
フィアは、瓦礫の影から、さっきまで
そこにはもう、何もない。
歪んでいた空間が、音もなく“閉じた”のだ。
息を呑む。
いつもは冷静な彼女の胸が、不規則に高鳴る。
魔力探知の符を展開するも――ハルの気配は、もう、どこにもなかった。
「……ハルッ!!」
感情の高ぶりを抑えきれず、名を叫んだ。
自分でも驚くほどの声の震えに、眉をひそめる。
拳を、握る。
その手は、わずかに震えていた。
「ふざけるな……奪われるのは、もう御免」
小さく吐き捨てるように呟いたその声に、強がりと怒りと、なにより――悔しさがにじんでいた。
《足音のない場所へ》
瓦礫の隙間を縫うようにして、フィアは廃ビルの外縁に辿り着いた。
すぐ傍の廃倉庫。その裏手の、鉄骨がむき出しになった狭いスペースに身を潜める。
周囲に漂う微弱な魔力の残滓を操り、視覚と探知を歪める簡易結界を張った。
それは時間稼ぎにすらならない、薄氷の上に乗ったような偽装だ。
フィアは肩で息をしながら、背を壁に預ける。
喉が熱い。手がわずかに震えていた。
「……落ち着け。状況を……整理しろ」
自分に言い聞かせるように呟いたが、うまく息が整わない。
脳裏には焼きついて離れない光景があった。
背中で符を爆ぜさせながら、振り返りもせずに叫んだあの男の姿。
――判断としては、正しかった。
逃げるしかなかった。
けれど。
「あんな顔……見たくなかったのに」
唇がかすかに震えた。
フィアは奥歯を噛みしめ、懐から符術端末を取り出した。
小型の符板に指を這わせ、通信符を起動する。
――反応なし。
警察側の通信も、連携先の符術網も、すべて沈黙していた。
「……結界が、邪魔してるのか」
探知符にも反応はない。まるで、そこに“空間そのものがない”かのような異常。
「閉じたのか……あの空間」
冷たい汗が背中を伝う。
まるで首筋に刃を当てられているような、ひりついた感覚。
このままでは、
誰も来ない。
状況報告も、応援要請も届かない。
誰かを待っている時間なんて、残されていない。
「……だったら」
手の中で、符がわずかに熱を帯びた。
「“守りたい”って思う相手がいるから、守ってる。それだけだ」
どこかで聞いた、その言葉が頭に響いた。
「お前が、何かを信じて立ってるから……その背中を、守りたくなるんだ」
「俺は、ただ……お前が、戦いの中で傷つかないようにしたい。それだけだ」
あの日の、あの声。
素直じゃないけれど、真っ直ぐすぎるその言葉たちが――今、彼女の中に生きていた。
符なんて、ただの道具だと思ってた。
誰にも頼れない自分が、手段として編み出した技術。
でも。
「今度は、私が……返す番だ」
この手に託されたものが、たしかにある。
それを背負うのではなく、つなぐために。
フィアはゆっくりと立ち上がった。
息を潜め、魔力を限界まで抑え、気配を殺す。
夜の街並みが静まり返る中で、足音だけがわずかに響く。
そのリズムは、誰かに追われている者のものではない。
――誰かを、探しに行く者の音だった。
懐にしまった通信符を、無言で見下ろす。
「……役立たず」
吐き捨てるように言って、符をポケットに押し込む。
「いいよ。もう“誰か”に頼らなくても」
その声には棘があった。
だが、口元はほんのわずかに緩んでいた。
“本当は、頼りたい相手”がいるからこそ、歩ける。
背中に残る符の重みを確かめるように一度だけ息を吸い――
フィアは、闇の中へと足を踏み出した。
《囚われの視界》
冷たく、しんと静まり返った空間だった。
色がない。
音もない。
皮膚の上に貼りつくような魔力の膜だけが、“ここが世界と切り離されている”ことを告げている。
ぴくり、と指を動かそうとして、動かないことに気づく。
「……なんてこった。捕まった、のか」
ぼやくように漏らしながら、
空間そのものが呼吸を抑え込むような重圧をもって、身体の上にのしかかってくる。
手足は結界に絡め取られ、身動きひとつ取れない。
思考まで鈍らされるような、魔術特有の静けさ。
「生体の鼓動を抑制し、抵抗を封じる……ってやつか。やれやれ」
その呟きに、答えるような足音が響いた。
現れたのは、静かに歩を進める影。
歳を取らない顔立ちに、血のように赤い瞳。礼節を保った所作で、ゆっくりと距離を詰めてくる。
吸血鬼。
「安心しろ。痛みはないようにしてある」
声は落ち着いていて、どこか優雅ですらある。
けれど、その瞳の奥にあるのは、他者を“対等”として見ていない光だった。
「お前が……ここを作ったのか?」
「これは“試み”だ。選ばれた者たちの、新たな国の核となる空間」
「選ばれた、ね……」
「融合は“淘汰”の機会だった。魔術を扱えぬ者は、時代に置いていかれる」
吸血鬼は壁を背に語る。まるで講義でもするように。
「力ある異世界人が、秩序を築く。人間の法など、もはや過去の遺物にすぎん」
「それで“誰かを守れる”ってのか?」
「守る? 選ばれた者に必要なのは“守ること”ではない。“支配すること”だ」
正義や倫理の代わりに、“理”を語る声。
「それでも俺は……誰かの“顔が見える距離”で、守りたいと思うよ」
吸血鬼の瞳が細められる。
「ならば、問おう。——“守ったつもり”で、相手を壊したとき。お前は赦されるのか?」
一瞬だけ、空気が張り詰めた。
その眼差しには、確かに“迷い”も、“罪”も、“誓い”も宿っていた。
「……人間は、弱いさ。でも、弱さゆえに選べることもある」
吸血鬼は小さく、静かに笑った。
「ならば、証明してみせろ。——ただの人間に、何ができるかを」
それに対して、
「……ちょっと考えてみたんだけどな」
「こうして罠を張って、俺とフィアをわざわざ引き離したってことは——
あんたの理想に対して、俺たち二人が“脅威になってる”ってことだろ?」
皮肉というには優しすぎる笑み。
だがその言葉には、確かな芯があった。
「証明するまでもないさ。もう、証明されてる」
――そのとき。
空間が、微かに、歪んだ。
音はしない。けれど、魔術の網がわずかに揺れた。
吸血鬼がゆっくりと顔を上げる。
「……来るか」
「来るさ。あいつは、そういうやつだ」
《誰かのために選ぶ》
建物の中は、まるで世界から切り離されたかのように静かだった。
天井は抜け落ち、鉄骨は錆びつき、床には砕けた瓦礫と機材の残骸。
月明かりすら届かないその廃工場は、かつて人がいたことすら信じられないほどに、冷えていた。
フィアは一歩、また一歩と慎重に足を運びながら、腰の符ホルダーに指を滑らせる。
「気配遮断、展開。音響抑制……三枚重ねる。慎重にね」
手際は完璧だった。だが、息は少しだけ荒い。焦りが、まだ胸の奥に燻っていた。
廊下の角で立ち止まり、手のひらを地にかざす。
「……あいつの匂い。魔術結界、それもかなり古くて厄介なやつ」
空気中に残る魔力の濃度。形状。構造。
彼女の感覚がそれらを瞬時に読み解き、思考が警鐘を鳴らす。
(理屈でいけば、引き返すべき)
この結界は、侵入者を検知する仕組み。
突入すれば、たちまち敵の中央に位置を知らせることになる。
(成功率は、三割未満。ここで下がって、応援を呼ぶべき)
冷静な自分がそう囁く。現実的な判断だ。
けれど、フィアの手は——拳を握っていた。
「でも、それじゃ遅い」
呟いた声は、小さく震えていたが、揺るがなかった。
彼女の指先が、胸元へと伸びる。
取り出したのは、小さな符。
以前、
「“守るため”に作ったんじゃない。ずっと、私は……」
託すことも、信じることも、してこなかった。
それが怖かった。だけど——
「今度は、私が“託す”番」
囁きながら、フィアは新たな符を展開する。
通常の侵入者として結界に触れるのではなく、
“既に存在する魔力の一部”として認識させるための微調整。
それは魔術ではできない芸当だった。
魔術は構造を上書きする。だが符術は、構造の隙間を通り抜ける。
「——通すなら、こう」
空気の振動すら抑えるように呼吸を浅くし、
フィアは一歩、結界の内へと踏み込んだ。
——何も起きない。
けれど、空間の密度が一段と増す。
油断はできない。視界の端で、敵の気配が動く。
「——眠ってて」
フィアは袖口からそっと符を滑らせ、壁際へ。
敵影がすれ違う直前、符が淡く光り、沈黙のまま相手の意識を奪う。
物音ひとつ立てず、気配ひとつ残さず。
けれど、そこに“フィアが通った痕跡”だけが、確かに残った。
(……ああ、私、今ならわかる)
“技術”だったはずの符が、今は“意志”を帯びている。
誰かのために使いたいと思ったから——それだけで、こんなにも変わる。
やがて、施設の奥に差しかかる。
微かに感じる、あの気配。
フィアは立ち止まり、深く息を吐いた。
「やっぱり……バカなんだ、アンタは」
困ったように、でもどこか嬉しそうに、口元をゆるめる。
「……バカが移っちゃったかもね」
指先が再び、符へと触れる。
音のない空間に、ただ一つ——彼女の足音だけが、静かに響いた。
守られるだけの誰かじゃなく。
今、彼女は“誰かを守る側”として歩いている。
その瞳は、もう迷っていなかった。
《ただの人間でいたかった》
空間は、死んだように静まり返っていた。
外界の音は一切届かず、室内に漂うのは濁った魔力の残滓と、硬質な結界の緊張感だけ。
光源のない薄闇の中で、
思考ははっきりしている。
眠らされたわけじゃない。ただ、力を封じられ、動けないだけだ。
「……また、守りきれなかったな」
ぽつりと、誰に聞かせるでもない呟きが落ちる。
どこかで聞いたような言葉だ、と内心で苦笑する。
何度繰り返せば、自分は変われるんだろうな、と。
そのとき——空気が、わずかに動いた。
風が通るはずのない、密閉されたこの空間で。
魔術の結界がかすかに歪み、そこに“音のない足音”が滑り込んでくる。
目を凝らすまでもなかった。
その気配は、遥暎の感覚に染みついていた。
「……来たのか」
現れたフィアは、いつもより少しだけ息を切らしていた。
けれど、その目はまっすぐで、言葉より先に“決意”が伝わる。
「当然でしょ。借りがあったから」
彼女の声はいつも通り、と言いたいところだが、少しだけ震えていた。
「……また助けられたな」
「守られてばっかじゃ、気が済まなかっただけ」
互いに、それ以上は何も言えなかった。
一瞬、ただ静かに目を合わせる。
その間に交わるものがあったかどうか、それは本人たちにしかわからない。
そして、
「俺は……“ただの人間”でいたかった」
フィアの目が、わずかに揺れる。
「……それで?」
「でも、どうやらもう戻れそうにない。お前が変えちまった」
「……勝手に責任押しつけないで」
思わず、と言ったような口調だった。
けれどそれは、怒りではなく、ただ少しだけ照れたような響きを含んでいた。
「助けられてばかりで、情けないと思うんだよ」
「俺は、自分のことすら守れなかった人間だ。だから、“誰かを守る”なんて、おこがましいのかもしれないって……そう思ってた」
フィアは、立ったまま視線を落とす。
「私もそう。何もできないまま、見てるだけだった過去がある」
彼女は一歩、近づいた。
「だから今は、自分の手で“守る”って決めたの。——誰かを、じゃなくて。自分で、って」
視線が重なる。
言葉ではなく、痛みの形が似ていた。
だからこそ、それが理解の入り口になる。
フィアが符を一枚、指先で弾いた。
淡い光が
「……頼りになるな」
そう呟いた
「今さらでしょ……」
それでも——顔の端だけが、わずかに綻んでいた。
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