歴史の静寂 ~前橋、記憶の夏~
須藤
1945年7月14日(土)
梅雨明け前の湿気が、松月堂の戸を開けてもまとわりつく。朝の光が、店先に並べられた埃っぽい菓子棚に斜めに差し込んだ。抜けるような青空と降り注ぐ蝉の声が、まだ平和な日常を、薄い膜のように包んでいる。源さんは店の木戸をゆっくりと開け、店先を掃き始めた。チリトリに集まるのは、昨日からの菓子のくずと、どこからか舞い込んだ砂埃。いつもの変わらない、当たり前の朝の風景だった。
しかし、その穏やかな静寂を、遠くで響く低い轟音が破った。空襲警報ではない。爆音機が頭上を通過するような、重い鉄塊が空気を切り裂くような響きが、源さんの胸にざらつくような違和感を残した。その音は、最近よく聞くようになった。ラジオからは連日、威勢のいい「戦況」の報が流れる。連戦連勝、敵を撃破、報国精神――。しかし、源さんの耳には、その言葉の裏側にある不穏な響きが、次第に大きくなっているように感じられた。
昼下がり、軒先では妻の美佐子が、団扇を片手に涼をとっていた。汗ばむ額を拭いながら、彼女はどこか遠い目をして、ぼんやりと空を見上げている。ラジオからは、甲高いアナウンサーの声が響く。戦況の報は、もはや遠い国の話ではない。隣近所の男たちが次々と戦地へ送られ、町には老いと女子供ばかりが目立つようになった。
店の奥の作業場からは、練り上がった生地を黙々と伸ばす長男・正一の妻、ハナの音が聞こえてくる。普段ならケンちゃんをあやしながら、楽しそうに作業をしているはずなのに、今日は物音一つしない。源さんは、無言で帳簿を広げた。墨で書かれた数字だけが、冷たく現実を突きつける。客足は日ごとに遠のき、売り上げは下降の一途だ。砂糖や小麦粉といった材料の配給も滞りがちで、満足な菓子すら作れない日が近づいていた。
夏の陽射しが、店先の埃を金色に染める。しかし、その光も、かろうじて残る街のざわめきも、どこか張り詰めた空気を隠しているようだった。道を行き交う人々の顔には、わずかながらも不安の色が浮かんでいる。誰もが口には出さない、しかし肌で感じる予感。この静けさは、ただの夏の午後ではない。それは、何か巨大なものが来る前の、不気味なほどの「凪」なのだと、源さんの胸はざわめき続けていた。
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