第2話「腕のあざ」



きみのためのヘッドライト

第二話


クリスマスイブの夜は明け、窓のレースカーテン越しに冬の柔らかな光が差し込んでいた。

航大と友梨は、航大のマンションで一夜を過ごした。テーブルの上には、食べかけのケーキと空になったワインボトルが、昨夜の嵐のような夜と、その後の和解を静かに物語っている。


航大は、自分の腕の中で眠る友梨に、そっと視線を落とした。

長いまつ毛が穏やかに伏せられ、規則正しい寝息が静かな部屋に溶けている。航大の大きめのパジャマに包まれた華奢な体。その無防備な寝顔を見ているだけで、愛しさが胸の奥から込み上げてくる。


昨夜、あれだけ泣きじゃくった友梨は、航大の胸の中で疲れ果てたように眠ってしまった。航大は彼女を抱きかかえてベッドに運び、自分もその隣に滑り込んだ。もう、一人にはしたくなかった。


ふと、友梨が身じろぎした。ゆっくりと瞼が持ち上がり、潤んだ瞳が航大を捉える。まだ夢の中にいるような、少しだけ戸惑った表情。


「……こう、だい……?」

「おはよう、友梨」


航大が微笑むと、友梨ははっとしたように状況を理解し、頬を赤らめた。そして、毛布を顔の半分まで引き上げ、くぐもった声で呟く。


「……おはよう」

「メリークリスマス」

「……うん。メリークリスマス」


そのぎこちないやり取りが、たまらなく愛おしい。航大は、散らばった彼女の髪を優しく撫でた。

「よく眠れたか?」

「うん……航大が隣にいてくれたから」

そう言ってはにかむ友梨は、ここ数ヶ月見ていなかった、素直で可愛らしい彼女だった。


航大がベッドから起き上がろうとした、その時だった。

友梨が照れくさそうに微笑み返し、航大の背中に手を伸ばそうと身を起こす。その拍子に、ぶかぶかのパジャマの袖が、滑るように手首の方へとずり落ちた。


白い、華奢な腕。

その内側に、航大は信じられないものを見た。


青黒く、滲んだような痣。

まるで、誰かに強く掴まれたかのような、痛々しい指の跡がそこにはあった。


一瞬で、部屋の空気が凍りついた。

クリスマスの朝の幸福な光は、まるで存在しなかったかのように掻き消えた。航大の顔から笑みが消え、優しい眼差しが鋭く、険しいものに変わる。


「……友梨」

地を這うような低い声だった。

友梨は航大の視線に気づき、はっと息を呑む。そして、まるで火傷でもしたかのように、慌てて腕を隠し、パジャマの袖を必死に引き下げた。


「な、なんでもないの! 本当に!」

その声は震え、目はあからさまに泳いでいる。


航大は友梨の隠した腕を、しかし乱暴にならないように、だが有無を言わせぬ力で掴んだ。そして、ゆっくりと袖をまくり上げる。


「なんだ、これ」

再び現れた痣を睨みつけ、航大は絞り出すように言った。

「どうしたんだ、その腕」


「昨日、バタバタしてて、ちょっとドアにぶつけちゃって……」

「ドアに?」航大の声は、温度を失っていた。「ドアにぶつけて、こんな指の形みたいな痣ができるのかよ」


その言葉に、友梨はぐっと唇を噛み、俯いてしまう。長いまつ毛が震え、その瞳からは先ほどまでの喜びの色が完全に消え失せていた。

これだ。

この翳りだ。

自分がずっと触れられずにいた、彼女の心の深い場所にある闇。


「誰にやられた」

静かだが、決して答えをはぐらかすことを許さない、強い口調だった。

友梨は黙ったまま、ただか細く震えている。


「友梨。俺は、お前のヘッドライトになるって言ったよな」

航大は、掴んだ腕の力を少しだけ緩め、懇願するように言った。

「だったら、お前が今いる暗闇を、俺に照らさせてくれよ。一体、何があったんだ」


航大の言葉が、張り詰めていた最後の糸を、無慈悲に断ち切った。


「関係ないッ!」

友梨は、獣のような叫び声を上げた。

今まで見たこともない、絶望と拒絶に満ちた表情で、航大の腕を力いっぱい振り払う。


「友梨!」

航大が手を伸ばすよりも早く、彼女はもつれるようにベッドから転がり落ち、フローリングの上にしゃがみ込んだ。


「うわあぁぁぁ……! ああああ……!」


顔を両手で覆い、堰を切ったように泣き崩れる。

それは、悲しいとか、悔しいとか、そんな言葉で表せるような涙ではなかった。魂が引き裂かれるような、ただただ痛切な嗚咽だった。


幸せなクリスマスの朝は、木っ端微塵に砕け散った。

振り払われた自分の手を見つめ、航大は呆然と立ち尽くす。

なぜ。どうして。

俺はただ、お前を助けたいだけなのに。


航大は静かにベッドを降り、泣きじゃくる友梨のそばに、そっと膝をついた。

そして、壊れ物を扱うように、優しく、何度も彼女の背中をさすり続けた。

今、自分にできることはこれだけだ。

彼女が抱える暗闇の正体はまだわからない。だが、決して一人にはしない。その暗闇の中に、一緒に飛び込む覚悟は、もうできていた。


第二話・了

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