第3話 初めての評定

二日後、岐阜城・評定の間。今日は奉行衆までが召集され、広大な広間は家臣たちの熱気でいつも以上に詰まっていた。


――その末席の左隅。所在なさげに座る一人の娘がいた。春の風が障子を揺らすなか、場にそぐわぬ彼女の存在が、周囲の空気をわずかに軋ませている。


前田利家のような気さくな男がいれば声をかけたやもしれぬが、並み居る家臣たちは誰一人として目を合わさない。隣の者と肩を寄せ合い、ひそひそと囁き合うばかりであった。


やがて、「大殿様ご入座」の声が響く。信長が席に着くと、形式的な挨拶を待たず、一気に声を放った。


「評定の前に、皆に報告がある。新しく家臣に加わる池田文殊じゃ。皆の者、よろしく頼むぞ」


広間にどよめきが走った。当時、女は外交の道具か、あるいは子をなす存在に過ぎない。仕官など、誰も聞いたことがない話だ。


唖然とする家臣たちの前で、末席の文殊がすっと立った。


「池田文殊にございます。織田家の末席を汚させていただくことになりました。以後、よろしくお願い申し上げます」

練習通り、深々と頭を下げる。


信長の嫡男、織田信忠が静かに口を開いた。

「大殿、お恐れながら、恒興殿の家臣にて、でございましょうか」


「わしの直臣じゃ」


その瞬間、ざわめきが怒号に近いものへと変わった。 一人の家臣が、堪り兼ねたように席を立ち、信長に詰め寄った。


「大殿! 女子が武士の列に並ぶなど、世間の目が黙っておりますまい!」


文殊が顔を上げると、そこにはがっしりとした胸板を持つ、背の高い男が立っていた。太田牛一である。弓の名手であり、剣の腕も織田家中で指折りの直臣だ。


「こんな小娘に何ができると。我らの飯炊きでもさせておればよいものを! 家臣など、冗談にもなりませぬぞ!」


信長は牛一を冷めた目で見据えた。


「であるか。文殊は恒興の娘。幼き頃より吉岡憲法に師事した剣客よ」


「剣客ですと? この小娘が?」牛一は鼻で笑い、堂々と宣言した。


「ならば手合わせ願いたい。もしそれがしが負けるようなことがあれば、その娘の家来になりましょう!」


信長は牛一を盗み見て、(バカにつける薬が決まったか)と、内心で口角を上げた。


文殊は、じっと牛一を見つめた。自信に満ちたその構えを見て、内心で鼻を鳴らす。 (あまいな)


牛一は文殊の小柄な体格を見下ろし、

(どうせ、これまで道場で剣を交えた相手は皆、恒興様の娘と、手加減していたのだろう。わしは容赦せぬ。痛い目を見せて、武士になどなれるものかと思い知らせてやる)と考えていた。



庭に場所を移すと、牛一は念入りに素振りを始めた。

(まあせいぜい、痛い目を見て逃げ帰るがよい。お転婆小娘が“武士になりたい”などと……まったく、時代も変わったもんじゃ)


その横を、文殊が通りかかる。彼女の両腕には、自分の頭ほどもある大きな石が抱えられていた。


牛一や家臣たちが不審げに見つめるなか、文殊はその石を、腰高の庭石の上に無造作に置いた。文殊は腰の木刀を抜き、二、三度肩を回すと、再び鞘(帯)に戻した。


静寂が場を支配する。文殊が腰を落とし、木刀に手を掛けた。刹那、横に払ったと見えた腕が、すぐさま上段から振り下ろされる。


「――チェストォッ!」


バッキィン、と乾いた音が響き、木刀が縦に裂けて破片が飛び散った。牛一が思わず歩み寄ると、台座の上の石は、見事に真っ二つに割れていた。


「……割れてる」牛一の呟きを皮切りに、驚愕の声が広がる。



(慶次に聞いた『石割り』、案外使えたな)

文殊は無表情で予備の木刀を手に取ると、

「さっ、始めましょうか」と、貼り付けたような作り笑顔で言った。



「はじめ!」


合図が響いた瞬間、牛一は己が「恐怖」に囚われていることに気づいた。


目の前にいるのは、愛くるしい小娘ではない。濃密な殺気を放ち、飄々と間を詰めてくる化け物だ。


牛一は焦った。間合いに入られている。分かっているのに、手が動かない。


永遠にも思える膠着の後、牛一は耐えきれず無意識に木刀を振り下ろした。


「見事な一撃でした」


文殊の声で、牛一は我に返った。気づけば、己の木刀は地面を転がっていた。


呆然と立ち尽くす牛一に、河尻秀隆が笑いながら近づく。

「チェスト……薩摩の示現流だ。あの一撃をかわされ、振り下ろす木刀の峰を叩き落とされるとは。牛一、お前の負けだ」


秀隆は文殊に向き直り、感心したように頷いた。

「見事な太刀筋でしたな、文殊殿。素晴らしい」


文殊が褒め言葉に顔をほころばせようとした、その時。 信長が近づき、牛一を見据えて言い放った。


「牛一。本日よりお前は文殊の家来じゃ。以上だ」


信長はすでに興味を失ったかのように、踵を返して評定の間に戻った。


牛一の頭の中では、いまだあの「チェスト」の残響が鳴り響いていた。


そして後日、文殊の口から語られる“石割りの仕掛け”が、別の意味で彼を驚かせることになる。

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