第4話 評定の夜、腐ってやけ酒
「これにて評定を終わる。皆、使命に邁進せよ。文殊、お主は牛一の禄を看なければならぬゆえ、足軽大将とする。しっかり励め」
信長は大声でそう言うと、誰よりも早く評定の間を後にした。
それを追うように、牛一が出て行く。
牛一の背が見えなくなるや否や、河尻秀隆をはじめ数名の家臣が、文殊のもとへ歩み寄った。
「改めて、河尻秀隆にござる。近いうちに拙者とも手合わせ願いたい」
「加藤光泰にござる。恒興様のご息女でございますか」
「金森長近にございます。憲法殿のもとにおられたとは、いかなる経緯で?」
次々に名が差し出され、言葉が重なる。
その熱を受け止めながら、文殊はふと、口角をやわらげた。
「皆様、このような所で立ち話もなんですから。私の家でお酒でもいかがですか。……沢……コホン。父上にも“最初のうちは客を招け”と言われておりますし、お冴に何か美味しいものでも作らせましょう」
「お冴とは?」
「父上に付けていただいた侍女で、今は二人で暮らしております。では、ご案内いたします」
文殊の言葉は、ゆっくりだった。ひとつひとつ選び、口に出して確かめるような話し方。
ぎこちない笑みに、家臣たちは一瞬だけ目を見合わせた。
そのとき、加藤光泰が渋い顔で口を開いた。
「新参者の屋敷にぞろぞろと押しかけるのは無作法であろう。ここからなら拙者の屋敷の方が近い。わしの家で飲もう。歓迎も兼ねてな」
秀隆たちも頷き、行き先は光泰の屋敷に決まった。
屋敷の一角。
炭火の上で酒器が湯気を吐き、火のはぜる音が会話に混じる。
障子の外では、柔らかな風が若葉を揺らし、葉擦れがほのかに響いていた。春の夜は、冷えもせず、妙に落ち着かない。
杯が進むにつれ、話題は自然と文殊の生い立ちへ寄っていった。
文殊は時折、笑みを作る。だが表情はどこか乏しく、言葉は区切るように落ちる。
家臣たちは「緊張しているのだな」と、勝手に納得しながら耳を傾けた。
「私の母は吉岡憲法の娘、香と申します。母は私を産んですぐに亡くなりました。その後、私は祖父に育てられました」
「それでは剣術は憲法殿に指南されたのですか。先ほどは示現流……」
秀隆が身を乗り出す。
「大父上に教わったのは、基本の素振りだけでした」
「それでは、どなたが?」
「叔父の清十郎です」
文殊は一瞬だけ、言いにくそうな顔をした。
「おお、吉岡清十郎殿か。若きながら名のある剣豪と聞く。ああそうか、清十郎殿の姪御であったな」
秀隆はなお聞きたげだったが、文殊の表情を見て、光泰が軽く手を振った。
「まあ、よいではないか」
少し間を置いて、長近が問いかける。
「しかし、それほどの剣の腕がありながら、なぜ武士に?」
「剣術師範でもやれそうだが」
文殊は面倒くさそうな顔を作りながら、沢彦宗恩に叩き込まれた言葉を、そのまま引き出すように口にした。
「武士になることは、以前より望んでおりました。大父上に申し上げると、ぜひ仕官せよと強く勧められ、父上に相談したところ、父上も賛意を示されました。その後は、あれよあれよという間に……」
(よし。全部言えた。噛まずに言った。――笑顔、笑顔)
内心でそう確認し、文殊は小さく胸をなで下ろした。
光泰は納得したように頷く。
「文殊殿ほどの腕前なら、恒興様もさぞご自慢であろう。大殿も、それならばとお認めになられたのだろうな」
皆が一様に頷いた。
酒が回るほどに、場は「良い話」で丸くなっていく。
やがて酒が尽き、光泰が立ち上がりかけた、そのとき。
文殊が、微笑んで言った。
「そろそろ、お開きにしませんか」
一瞬、間が空いた。
家臣たちは顔を見合わせ、次いで秀隆がぱっと笑った。
「おお、そうじゃ。文殊殿も疲れておろう。それに牛一は今頃、腐っておる。皆で様子を見に行こうではないか」
「うむ。しかし文殊殿は、今日は行かぬ方がよかろう」
光泰は、牛一に今会うのは気まずいだろうと、双方に配慮した。
文殊は「そうですか」とだけ言い、杯を置いた。
その声は穏やかなのに、どこか早く帰りたがっているようにも聞こえた。
その頃、太田牛一は秀隆の想像どおり、己が屋敷で腐っていた。
妻のお静を相手に、酒を飲み、愚痴をぶつけ続けている。
「けっ、なんでこのわしが、あんな剣術バカの小娘に仕えにゃならんのだ。馬鹿馬鹿しい。恒興様の娘だか何だか知らんが、わしのやってきたことは何だったんじゃ。のう、お静」
「なにが、チェストじゃ。あんなもの見せられて勝負になるかってんだ。木刀は木だぞ木。なんで石が割れる。普通割れんだろ」
お静は、何度も何度も同じ愚痴を聞き、湯呑みを替えるだけで相槌を打った。
「でも、あんたが負けたら家来になるって言ったんだろう。負けは負け、完全敗北ってやつさ。そりゃ、もう仕方ないよ」
「……勝手にしやがれ、チェスト女め……」
吐き捨てたはずの言葉が、酒臭い部屋に落ちて、消えない。
湯呑みに手を伸ばす指は、まだわずかに震えていた。
そこへ、秀隆たちが訪ねてきた。
「おお、牛一。荒れておるな」
「なんじゃ、ぞろぞろと。わしを笑いに来たのか」
「おお、そうじゃ。お主が酒を飲み、荒れておるのを笑いに来たのよ」
秀隆はさらりと言い、牛一の前へ座った。
光泰も酒をすすり、ふっと笑う。
「いやぁ……しかしお主も、話してみれば分かろう。文殊殿、見た目も所作も、意外と普通の娘御じゃったぞ。もっと刺々しい者かと思えば、案外、あどけなさすらある。わしなど肩透かしを食らったわ」
牛一は鼻で笑った。
「ふん。あれは“普通の娘”を演じておるだけじゃ。剣の振り方は、そうとう厳しく躾けられたのだろう」
長近が静かに頷く。
「文殊殿の太刀筋は、まったく躊躇がなかった。修羅場をくぐって来ているやもしれぬ。牛一、お前が負けたのも無理はない」
酒を酌み交わしながら、彼らは文殊のこと、剣のこと、そしてこれからのことを語り合った。
からかい半分に始まった席が、いつしか真面目な色を帯びていく。
夜も更け、酒も尽きる頃。
秀隆が立ち上がり、笑いながら言った。
「それほど嫌なら断ればいいだけの話。だが、断るにしても筋は通しておかねばならんがな」
笑みを残しながら、秀隆は急に顔を寄せ、牛一と目を合わせた。
「文殊殿は、なかなかの器量人とわしは思っている。
我らは大殿の天下と、それぞれが一国一城の主となる夢を見てきたが――」
少し間を置く。
「案外、文殊殿に仕えていた方が、その夢は早く叶うかもしれんぞ」
そう言い残し、秀隆は屋敷を後にした。
部屋に残った牛一は、湯呑みの縁を見つめたまま、心の中で呟く。
(筋……)
震えが、酒のせいかどうか分からないまま、指先に残っていた。
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