第3話:不器用な「相手してあげる」
次の日。
また、公園にいた。
昨日見た彼の姿が、
頭から離れないまま、
私は、気がつけば、
この場所に戻ってきていた。
まるで、
昨日の出来事が、
幻ではなかったか、
確かめるみたいに。
今度は、
隠れることなく、
フェンスのそばまで行く。
堂々と、
練習を見学するフリをする。
心臓の音が、
なぜか少し、
早くなっているのが分かる。
誰にも見られていないのに、
このドキドキは、何だろう。
昨日見た、
あの奇跡が、
まだ信じられないでいた。
あんな小さな体が、
あのリングを掴むなんて。
私のバスケの常識が、
少しだけ、
揺らいだ瞬間だった。
彼、遠藤くんは、
昨日と同じように、
もう練習を始めていた。
夕焼けが、
彼の背中をオレンジ色に染めている。
空のグラデーションが、
彼の小さな体を、
幻想的に縁取っている。
ポン、ポン、ポン。
ボールの音が、
私の心を、
不思議と落ち着かせる。
まるで、
彼のリズムが、
私の中にも、
じんわりと染み込んでいくみたいに。
その音を聞いていると、
普段の体育館の喧騒とは違う、
静かで、
けれど芯のある強さを感じる。
彼は、ひたすらシュートを繰り返す。
超ロングシュートも、
ダンクへの挑戦も。
相変わらず、
成功する方が珍しい。
それでも、
彼の目は、
揺るぎない。
一点の曇りもない。
その瞳の奥には、
燃えるような、
ひたむきな情熱が宿っていた。
疲労の色は濃いのに、
その情熱は、
決して尽きることがないみたいだ。
しばらく、
ただ彼の練習を見ていた。
時間が、
ゆっくりと流れる。
この空間には、
彼とボールの音と、
私だけがいる。
そんな錯覚に陥るほどに、
彼の練習に、
集中していた。
私もまた、
バスケットボールという一点に、
吸い込まれていく。
すると、
彼のシュートフォームが、
少しだけ、
崩れていることに気づく。
右肩が、
わずかに下がっている。
足の踏み込みが、
いつもより弱い。
体の軸が、
微妙にぶれている。
疲れているのだろうか。
連日の練習で、
体に無理を強いているのか。
それとも、
誰にも見られない場所だから、
気が緩んでいるのか。
いや、違う。
この集中力は、
そんな生半可なものではない。
きっと、
限界を超えて、
それでも、
もがいているのだろう。
(このまま、見てるだけでいいのかな)
心の中で、
そんな問いが生まれた。
彼の努力を、
間近で見てしまったから。
彼の才能を、
このまま誰にも知られずに、
私だけの秘密にしておくのは、
あまりにも惜しい気がした。
バスケを愛する者として、
彼の才能を、
このまま放っておくのは、
なんだか罪悪感すら覚える。
でも、
声をかける勇気は、
なかなか出ない。
足が、
地面に縫い付けられたみたいに、
動かない。
女子バスケ部の主将が、
男子の後輩に、
たまたま公園で会って、
シュートフォームを指摘するなんて。
そんなこと、
普段の私なら、
絶対にしない。
できない。
どう思われるだろう。
「余計なお世話だ」って、
思われるかもしれない。
「誰だよ、お前」って、
言われるかもしれない。
そう考えると、
体がこわばってしまう。
だけど。
昨日見た彼の背中が、
私を動かした。
あの、奇跡の一瞬が、
私の背中を、
強く押した。
私の心に、
火をつけたのだ。
大きく、深呼吸をする。
肺いっぱいに、
夕焼けの冷たい空気が流れ込む。
心臓が、
ドクン、と大きく鳴った。
よし。
私は、フェンスを乗り越え、
彼のいるコートに入った。
古いスニーカーが、
土と砂利を、
ジャリ、と踏みしめる音がする。
その音で、
彼が、こちらに気づいて、
ぴたりと動きを止めた。
ボールを抱えたまま、
驚いたように、
大きく目を丸くした。
彼の口が、
半開きになっている。
「……先輩?」
彼の口から、
私の名前が、
小さく漏れた。
それが、
なんだか、
妙にドキリとした。
まるで、
初めて呼ばれたみたいに、
胸の奥がざわつく。
私は、
なるべく平静を装って、
にこりと笑う。
普段の練習で、
後輩たちに向けるような、
ちょっとだけキツめの、
けれど、
どこか余裕のある笑顔。
「なんだ、そんなとこで無茶して。」
私は彼の抱えていたボールを、
片手で、ひょいと奪い取った。
彼の腕から、
するりとボールが離れる。
そのまま、
ポン、ポン、と、
軽やかな音を立てて、
ドリブルを始めた。
ボールが、
私の掌に、
吸い付くように馴染む。
「シュートフォーム、
ちょっとだけ悪くなってるよ。」
彼は、まだ、
目を丸くしたままだ。
私の言葉が、
うまく理解できていない、
そんな顔をしている。
そして、
少しだけ、
頬が赤くなっているのが見えた。
夕日のせいなのか、
それとも、
私に見られたせいなのか。
その赤みが、
なんだか可愛らしくて、
思わず笑みがこぼれそうになる。
「……よかったら、
あたしが相手してあげる。」
少しだけ、
わざと挑発するように言った。
強気な言葉。
それは、
私の照れ隠しでもあった。
でも、その裏には、
ほんの少しの照れと、
彼への、
不思議な優しさが混じっていた。
彼が、
このまま誰にも見られず、
才能を埋もれさせるのが、
もったいない。
ただ、そう思った。
彼の中の、
まだ見ぬ可能性を、
私が引き出してあげたい。
そんな、
主将としての欲求も、
きっとあったのだろう。
彼は、ボールを奪われたまま、
口を小さく開けていた。
驚きと、戸惑いと、
そして、
かすかな期待が、
その瞳に宿っている。
戸惑いの色が、
やがて、
小さく輝く期待に変わっていくのが見えた。
数秒の沈黙。
風が、
乾いた落ち葉を、
カラカラと音を立てて、
コートの隅へと運んでいく。
ボールの音だけが、
途切れて、
二人の間に、
静かに流れる時間。
そして、彼は、
ゆっくりと、
小さく頷いた。
「……お願いします。」
その言葉は、
震えるほど小さかったけれど、
私の耳には、
はっきりと届いた。
彼の決意が、
真っ直ぐに伝わってきた。
彼の、
私に対する信頼が、
そこにあった。
まるで、
新しい物語の扉が、
静かに開いたみたいに。
この日、
夕焼けに染まる公園で、
私たち二人の、
「アオハル」が、
静かに、
そして確かに、
始まったのだ。
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