第三十六話:夜明けの世界で、君を想う
世界があった。
青い空と白い雲。風が頬を優しく撫で、草の匂いを運んでくる。
『嘆きの湿原』を覆っていた瘴気は完全に消え失せ、そこには穏やかで平和な大地が広がっていた。
だが、レイドン侯爵の世界は色を失っていた。
彼の目の前には、巨大な岩山。
その下に、彼がその魂の全てを賭けて愛した、ただ一人の女性が眠っている。
「……アリア……」
掠れた声で彼女の名を呼ぶ。
だが、返事はない。
当たり前だ。彼女はもう、いない。
自分を庇い、あの崩落の中に消えていった。
「……嘘だ……」
リヒトが、カレルが、サラが駆け寄ってくる。
彼らの顔もまた、信じられないという絶望の色に染まっていた。
「なぜ……。なぜ、あのようなことを……」
侯爵はただ呆然と、岩山を見つめることしかできなかった。
自分の無力さが骨身に沁みた。
彼女を守ると誓ったはずなのに。
彼女の『剣』になると誓ったはずなのに。
結局、自分はまたしても守られるばかりで、そして彼女を失ってしまった。
エリアーナの時と同じだ。いや、それ以上に惨めだった。
「……閣下」
リヒトが彼の肩にそっと手を置いた。
その手には、一枚の古い羊皮紙が握られている。
「……これは、アリア様が儀式の前に私に託されたものです。『もし、私に何かあったら、これを閣下にお渡しください』と」
侯爵は震える手でその羊皮紙を受け取った。
それは彼女の遺書だった。
そこには彼女の美しく、そして少しだけ不器用な文字で、こう記されていた。
『愛する、レイドン様へ
この手紙をあなたが読んでいるということは、私はもうあなたのそばにはいないのでしょう。
勝手なことをして、ごめんなさい。
でも、私は後悔していません。
あなたと出会って、私の灰色だった世界は色鮮やかな光に満ちたものに変わりました。
あなたがくれた、たくさんの温かい記憶。
それが私の本当の宝物です。
だから、どうかあなたも前を向いて生きてください。
あなたの隣にはもう私はいませんが、あなたの心の中には私がいます。
あなたがこの国を、そして民を愛し続ける限り、私の魂もまた永遠にあなたのそばにあり続けます。
どうか、幸せに。
私の、たった一人の英雄。
追伸
セバスチャンが淹れてくれる紅茶は世界一です。
そして、あなたがくれたあの砂糖菓子は、どんな高価な宝石よりも甘く、そして美しい味がしました。
愛を込めて
アリア』
手紙を読み終えた時、侯爵の目から堰を切ったように熱い涙が溢れ出した。
「……馬鹿者……。大馬鹿者が……」
彼はその場に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣いた。
彼女がいない世界で、どうやって生きていけというのか。
彼女がいない未来に、何の色があるというのか。
それから一月が過ぎた。
イザベラ公爵夫人の反乱は鎮圧された。
彼女は全ての魔力を失い、今は塔の最上階に幽閉されているという。
プラチド殿下もまたその罪を問われ、王位継承権を剥奪された上で辺境の修道院へと送られた。
国王陛下は王命を取り消し、民衆に真実を公表した。
そして自らの責任を取り、退位を宣言。
新たな王として彼が指名したのは、レイドン侯爵その人だった。
貴族たちも民衆も、その決定を熱狂的に支持した。
国を救った英雄。そして、何よりも民の痛みを知る男。
彼こそがこの国を正しき道へと導く、真の王だと誰もが信じていた。
だが、当の本人は戴冠式への出席を固辞し続けていた。
彼はアリアが眠るあの湿原の跡地に小さな家を建て、ただ一人静かに彼女を弔い続けていたのだ。
「……閣下。いつまでもこのままでは……」
リヒトが何度も彼を説得しに来た。
だが、彼の心は固く閉ざされたままだった。
「私に王の資格などない。私は、愛する女一人守れなかったただの敗北者だ」
彼は毎日彼女の墓標の前に座り、ただ空を見上げていた。
彼女が愛した青い空を。
だが、その空は彼にとってはあまりにも虚しく、色褪せて見えた。
その日も彼は、いつものように墓標の前にいた。
その手に一冊の古い書物を抱きしめながら。
それは彼女がその命と引き換えに、世界からその呪いを解き放ったオリジナルの『禁書』だった。
今はもう何の力も持たない、ただの古い物語集。
彼はそのページをゆっくりとめくった。
そこに書かれていたのは、数多の古代の英雄譚。そしてその最後に、誰かが新しく書き加えたような一節があった。
『――そして、一人の名もなき娘がいた。彼女はその身に呪いを宿しながらも、誰よりも世界を愛した。彼女の愛は星となり、闇を照らし、そして一人の孤独な男の心を救ったという――』
「……アリア」
彼はその一節を指でそっとなぞった。
これは、彼女が残してくれた物語。
彼女が生きた、確かな証。
(……私は、進まねばならんのか)
彼女が愛したこの世界で。
彼女が守ろうとしたこの国で。
彼女の想いと共に。
彼はゆっくりと立ち上がった。
そして、王都の方向をまっすぐに見つめる。
その時だった。
彼の目の前に、ふわりと一つの金色の光の粒が舞い降りてきた。
それはまるで生きているかのように、彼の周りを楽そうに飛び回る。
彼は知っていた。それは彼女の魂の残滓だということを。あの日、彼女は自らの魂を金色の糸へと変え、消えゆく彼の魂を繋ぎ止めてくれた。彼の魂の一部は、今や彼女そのものなのだ。
そして、その光の粒は彼の頬にそっと触れた。
まるで、優しい口づけのように。
「……アリア……?」
彼は手を伸ばす。
だが、光はするりとその手をすり抜けると、空の彼方へと消えていった。
だが、侯爵――いや、新たな王レイドンの心には、確かな温もりが残っていた。
彼女は死んではいない。
彼女の魂は、今も彼の内側で、共に生き続けているのだ。
「……見ていてくれ、アリア」
彼は空に向かって呟いた。
「お前が愛したこの世界を、私は必ず守り抜いてみせる」
彼の瞳に再び力強い光が宿った。
氷の仮面はもうそこにはない。
そこにあったのは、愛する者の想いを胸に未来へと歩み出す、一人の王の優しい笑顔だった。
彼の、そしてこの国の新たな物語が、今始まろうとしていた。
彼女という星の光に導かれながら。
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