第二十七話:禁書との再契約

侯爵の許可を得た私は、その三日後、再び彼の屋敷の地下書庫に立っていた。

サラとカレルの助言のもと、入念な準備を整えての、再訪だった。サラは、私の精神を守るための、強力な守護の魔法陣を床に描き、カレルは、万が一、私が暴走した場合に、それを鎮めるための、古代の鎮静香を焚いてくれていた。


リヒトは、書庫の入口で、固い表情で警備についている。

そして、私の隣には、レイドン侯爵が、静かに立っていた。彼の存在そのものが、何よりも心強いお守りのように感じられた。


「……準備は、いいか」

「はい」


私は、深く息を吸い、頷いた。

そして、ゆっくりと、祭壇のように安置された、黒い革張りの『禁書』へと、歩み寄る。


久しぶりに間近で見る禁書は、以前と変わらず、禍々しく、そして底知れぬほどの魔力を放っていた。だが、以前感じたような、圧倒的な恐怖はない。今の私には、侯爵と、そして仲間たちがついている。


私は、ゆっくりと、その黒い表紙に、両手を置いた。


その瞬間、再び、私の意識は漆黒の闇へと引きずり込まれた。

だが、前回のように、無防備に呑み込まれる感覚ではない。私と禁書との間には、侯爵の腕輪と、床に描かれた魔法陣が、確かな結界を築いてくれている。


『……また来たか、小さき娘よ』


あの、古く、深い「声」が、頭の中に響き渡る。

声には、どこか、面白がるような響きがあった。


『今度は、何を望む。更なる力か、それとも、世界の破滅か』

「どちらでもないわ」


私は、闇の中で、毅然として答えた。


「私は、あなたに、聞きたいことがあるの。あなたの『写し』を使い、この国を混乱に陥れようとしている、愚かな女について」

『……ほう。イザベラのことか。あの女は、確かに、我の知識の一部を、盗み見ておるな』


声は、せせら笑うように言った。


『だが、あの女が持つのは、しょせん、写しの、さらに断片。我の真の力には、到底及ばぬ。取るに足らぬ、矮小な存在よ』

「その矮小な存在が、あなたの名を騙り、世界を歪めようとしているのよ。それを、あなたは見過ごすというの?」


私の挑発に、声の主は、一瞬、沈黙した。

そして、次の瞬間、闇の中から、凄まじい怒りの気が、奔流となって私に襲いかかってきた。


『……面白いことを言う、娘よ。貴様、我を、怒らせたな』


結界が、ミシミシと音を立てて軋む。私の精神が、強大な圧力によって、押し潰されそうになる。


(ダメ……! 負けては……!)


私は必死に、侯爵のくれた温かい記憶を、心の盾とした。

夜会のワルツ。不器用に差し出された、砂糖菓子。そして、私を信じると言ってくれた、彼の、あの眼差し。


『……ふん。あの男の守護か。厄介な……』


声は、忌々しげに呟いた。


「私は、あなたを利用しようなどとは思わない。ただ、取引がしたいの。対等な、契約者として」

『取引、だと? この我と、貴様ごときが?』

「ええ。私に、イザベラ公爵夫人の情報を、教えなさい。彼女の目的、そして、彼女の弱点を。その代わり、私は、あなたの『器』となりましょう」

『……何?』


声に、初めて、純粋な驚愕の色が混じった。


「あなたのその強大すぎる力は、この書物の中に、封じられているだけ。あなたは、外の世界に出たくはないの? この世界を、その目で、その肌で、感じたいとは思わない?」

『……』

「私は、あなたを受け入れる。私の体を通して、あなたはこの世界を、再び見ることができる。私の目を通して、空の青さを、風の匂いを、知ることができる。……どう? 悪くない取引でしょう?」


それは、私の魂を賭けた、最大のギャンブルだった。

禁書を、自らの内に、取り込む。それは、常に、巨大な爆弾を抱えて生きるようなものだ。

だが、それしか、この強大な存在と、対等に渡り合う方法はなかった。


長い、長い沈黙が、続いた。

闇の中で、私と禁書の「声」は、互いに、相手の真意を、探り合っていた。


そして、やがて。


『……ククク……。ハハハハハ! 実に、面白い! 数千年ぶりに、我を楽しませる人間が現れようとは!』


声は、心の底から、楽しそうに、笑った。


『良かろう、娘アリアよ! その取引、受け入れよう! 我は、貴様を、我の新たな「器」として、認めよう!』

『そして、契約の証として、くれてやろう! あの愚かな女の、全てを!』

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