第七話:侯爵の申し出と新たな決意
レイドン侯爵が快方に向かうまで、さらに数日を要した。
その間、彼は私の小さな店で療養を続けることになった。王宮の侍医が付きっきりで看病し、従者のリヒトが甲斐甲斐しく世話を焼く。そして、なぜかカレルも毎日のように見舞いに訪れ、静かだった『追憶の天秤亭』は、にわかに賑やかになっていた。
「アリア殿、今日の顔色は良いようですな」
「カレルさん、毎日ありがとうございます」
私は、店のカウンターでカレルと向かい合っていた。彼は今日も、珍しい茶葉と、それに合うという焼き菓子を持参してくれている。
「して、侯爵閣下のご容体は?」
「傷はまだ塞がっていませんが、毒は完全に抜けたそうです。明日には王宮へ戻られるとか」
「それはようございました。しかし、そうなると、アリア殿も少し寂しくなりますな」
カレルが、またしても悪戯っぽく笑う。
私は彼の視線から逃れるように、淹れたての紅茶の湯気を眺めた。
寂しい、だなんて。そんなはずはない。
侯爵がここにいる間、私はほとんど彼と口を利いていなかった。彼は寝台で静かに書物を読んでいるか、リヒトと小声で何かの報告について話しているか。私が彼の部屋を訪れるのは、食事を運ぶ時くらいのものだ。
それでも、この店のどこかに彼の気配があるというだけで、不思議と心が安らいでいたのは事実だった。彼がくれた銀の腕輪が放つ温かい光のように、彼の存在そのものが、私を悪夢から守ってくれているような、そんな感覚があった。
「……私は、これからどうすればいいのでしょう」
ぽつりと、思わず心の声が漏れた。
カレルは、真剣な眼差しで私を見つめ返す。
「侯爵閣下は、あなたの力を必要としておられる。ですが、このままでは、あなたの身が持ちませぬ。……アリア殿、あなた自身の心を守る『盾』が必要なのです」
「盾……?」
「ええ。遺物の声に呑まれぬよう、あなたの精神を守るための何か。それは、強力な守護の遺物かもしれませんし、あるいは、あなた自身の心を強く保つための、何か別の方法かもしれません」
カレルは、そこまで言うと、意味ありげに店の奥、侯爵のいる部屋を一瞥した。
彼の言わんとすることが、私にも少しだけ分かった気がした。
その日の午後、侯爵は自ら杖をつき、私の前に姿を現した。
まだ顔色は優れないが、その足取りはしっかりしている。
「アリア」
「侯爵様。もう、お体はよろしいのですか」
「ああ。貴様のおかげでな」
彼は、私がいつも座っているカウンターの椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。
「一つ、提案がある」
改まった口調に、私は背筋を伸ばした。
「貴様、この店を畳み、私の屋敷に来い」
「……え?」
あまりに予想外の言葉に、私は間の抜けた声を上げた。
「私の屋敷には、王家から下賜された数多の遺物が保管されている。その中には、強力な守護の力を持つ品もあるだろう。それに触れ、その使い方を学ぶのだ。それが、貴様の言う『盾』となるかもしれん」
彼の言っていることは、カレルの助言と一致していた。
だが、彼の屋敷に行くということは、この『追憶の天秤亭』を捨てるということだ。私が初めて、自分の意志で築いた、このささやかな居場所を。
「それに、貴様はまだ狙われている。過激派の連中は、貴様の能力の危険性に気づき始めているだろう。私のそばにいれば、少なくとも身の安全は保証できる」
「……ですが、私は……」
躊躇う私に、侯爵は静かに、だが強い口調で言った。
「これは、取引だ。貴様は私の『目』となり、遺物の声を聞く。その代わり、私は貴様の『盾』となる。……対等な、契約だ」
対等、という言葉。
ずっと、誰かの都合で利用され、虐げられてきた私にとって、その響きはあまりにも眩しかった。
彼は、私を道具としてではなく、一人の契約相手として、対等な立場で扱おうとしてくれている。
「……一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「なぜ、そこまで私に……。私は、あなたにとって、それほどの価値があるのでしょうか」
それは、ずっと私の胸の中にあった疑問だった。
研究所を追放された、呪われた娘。彼ほどの権力者であれば、代わりなどいくらでもいるはずだ。
侯爵は、私の問いにしばらく黙り込んでいた。そして、やがて、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……私にも、妹がいた」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「妹も、貴様と同じ力を持っていた。遺物の声を聞く、稀有な才能をな。だが、その力を制御できず、……心を病み、若くして自ら命を絶った」
彼の声には、抑えようのない、深い悲しみと後悔が滲んでいた。
氷の仮面の下に隠された、彼の本当の顔。
「私は、何もしてやれなかった。ただ、無力に彼女が壊れていくのを見ていただけだ。……だから、貴様を初めて見た時、あの子の姿が重なったのだ」
研究所で、床に蹲っていた私。その時の彼の視線は、ガラクタを見るようなものではなかった。憐れみと、そして、救えなかった妹への痛恨の念が、そこにはあったのだ。
「私は、もう二度と、同じ過ちを繰り返したくはない。……これは、私の我儘だ。だが、貴様には生きてほしい。その力と共に、この世界で」
彼の、魂からの叫びのような言葉だった。
その想いが、私の心の奥深くまで、温かく、そして切なく染み渡っていく。
私は、もう迷わなかった。
「……承知、いたしました。あなたの『目』として、お仕えします。レイドン侯爵様」
私がそう告げると、彼は安堵したように、深く息を吐いた。そして、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「礼を言う、アリア」
初めて、彼は私の名を、優しい響きで呼んでくれた。
こうして、私の『追憶の天秤亭』での短い日々は終わりを告げた。
明日から、私は侯爵の屋敷で、新たな生活を始める。
それは、危険な陰謀と、未知なる力との闘いの始まりを意味していた。
だが、私の心に、もう恐れはなかった。
隣には、私を守ると誓ってくれた、不器用で、けれど誰よりも優しい『盾』がいるのだから。
窓辺に飾られた銀のロケットが、西日に照らされ、きらりと輝いていた。
まるで、私の新たな門出を、祝福するかのように。
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