第六話:毒の記憶と癒しの光

店の奥にある、私の小さな居住スペース。その質素な寝台に、レイドン侯爵の体は横たえられていた。彼の呼吸は浅く、時折、苦痛に顔を歪ませている。脇腹の傷口からは、どす黒い血が滲み続け、不吉な瘴気を放っていた。


「アリア殿、何か手立ては……」


従者のリヒトが、祈るような目で私を見つめる。彼の名は、侯爵をここに運び込んだ際に知った。普段の冷静さは見る影もなく、その表情は絶望に染まっている。


「この毒は、普通の毒ではありません。古代遺物から抽出された、呪詛に近いものです」


私は、侯爵の傷口に触れることなく、そこから発せられる禍々しい気配を読み取っていた。鑑定士としての私の感覚が、そう告げている。


「解毒薬を作るには、この毒がどの遺物に由来するものなのかを知る必要があります。……その記憶を、私が読み取ります」

「しかし、そのような危険なことをすれば、あなたの精神が……!」


リヒトの懸念はもっともだった。遺物の記憶、特に呪いのような強い怨念に触れることは、私の精神を根こそぎ持っていく危険な賭けだ。だが、他に方法はない。


「覚悟の上です」


私は静かに答えると、深呼吸をして集中力を高めた。そして、意を決して、侯爵の傷口にそっと指を触れさせた。


その瞬間、凄まじい悪意と苦痛の記憶が、濁流となって私の脳内へとなだれ込んできた。


――暗く、湿った洞窟。その奥で、怪しげな儀式が行われている。祭壇に捧げられているのは、蛇の彫刻が施された黒曜石の短剣。古代の邪神を祀るために使われた、呪われた祭具だ。黒装束の男たちが、その短剣に毒草を塗りつけ、憎悪に満ちた呪いの言葉を唱えている。「王家に仇なす者、その血肉を腐らせ、絶望のうちに死に至らしめよ……」と。


「ぐっ……あ……!」


強烈な呪詛の記憶に、私の意識は暗闇に引きずり込まれそうになる。頭を万力で締め付けられるような激痛。憎しみ、怒り、苦しみ。負の感情が、私の心を食い尽くそうとする。


(ダメ……ここで、呑み込まれたら……)


私は必死に自我を保とうと、温かい記憶を思い浮かべた。ガラクタ市で出会った少女の笑顔。カレルと交わした他愛ない会話。そして――不器用に差し出された、色とりどりの砂糖菓子。


その時、左手首にはめられた銀の腕輪が、ふわりと温かい光を放った。侯爵がくれた、魔除けの護符。その光が、私を蝕もうとする呪詛の記憶を、わずかに押し返してくれる。


(……見えた)


呪詛の記憶の奔流の中から、私は鍵となる映像を掴み取った。短剣に塗りつけられていた毒草。それは、王都の北に広がる「嘆きの湿原」にのみ自生する、**『月影草(げつえいそう)』と呼ばれる幻の薬草だった。そして、その毒を中和できるのもまた、同じ場所に咲く『陽光花(ようこうか)』**という、対になる薬草だけだ。


「……リヒトさん!」


私は、かろうじて意識を繋ぎとめ、叫んだ。


「解毒薬の材料が分かりました! 『陽光花』です! 『嘆きの湿原』に咲いているはず……!」


そこまで告げたのが限界だった。私の体は糸が切れたように崩れ落ち、リヒトに支えられる。視界は白く染まり、何も見えない。何も、聞こえない。


「アリア殿! しっかりしてください!」


遠のく意識の中、リヒトの必死の声が聞こえた気がした。


どれほどの時間が経っただろうか。

私が再び目を覚ました時、窓の外はすでに白み始めていた。私は、店の床に敷かれた毛布の上で眠っていたらしい。


「……侯爵様は?」


体を起こすと、カレルが心配そうな顔で私の顔を覗き込んでいた。いつの間にか、彼もここに駆けつけていたようだ。


「ご安心を。リヒト殿が、あなたの言葉通り『陽光花』を携えて戻られました。今、王宮の侍医が解毒薬を調合しております。峠は越えたと」


カレルの言葉に、私は心の底から安堵した。

よかった。彼を、救うことができた。


「しかし、無茶をなさいましたな。あなたの消耗は、見ていられなかった」

「……大丈夫です。もう、慣れていますから」


私は力なく微笑んだ。だが、カレルは厳しい表情を崩さない。


「アリア殿。あなたのその力は、あまりにも危険すぎる。その身を削るやり方では、いつか本当に心が壊れてしまう。……何か、あなた自身を守る術を、見つけなければなりませぬな」


彼の言葉が、胸に重くのしかかる。

私自身も、分かっていることだった。このままでは、私は遠からず、遺物の声に呑み込まれて廃人となるだろう。


その時、奥の部屋からリヒトが出てきた。その顔には、安堵の色が浮かんでいる。


「アリア殿、感謝いたします。閣下は、一命を取り留めました。意識も、先ほどお戻りになられました」

「……そうですか」

「閣下が、あなたにお会いしたいと。お体は大丈夫ですか?」

「はい」


私はカレルに肩を借りながら立ち上がり、侯爵の眠る寝台へと向かった。

寝台に横たわるレイドン侯爵は、まだ顔色は白いものの、呼吸は穏やかになっていた。私に気づくと、彼はゆっくりと瞼を開けた。


「……アリア」


その声は、まだ弱々しかったが、確かな光がその瞳には宿っていた。


「……また、貴様に命を救われたな」

「いいえ。私は、取引を果たしただけです」


私がそう答えると、彼はふっと、本当に微かだが、笑みを浮かべたように見えた。


「その体で、よく言う」


彼は、ゆっくりと自らの腕を上げた。その手には、枕元に置かれていた包みが握られている。それは、彼が以前くれたのと同じ、砂糖菓子の包みだった。


「……リヒトに、持ってこさせた。貴様への、礼だ」


毒に倒れ、意識も朦朧とする中で、彼は私のために、これを。

その事実に、私の胸の奥が、きゅうっと締め付けられるように痛んだ。それは、鑑定の代償による痛みとは違う、温かくて、少しだけ切ない痛みだった。


「……ありがとうございます」


私が包みを受け取ると、彼は満足げに目を閉じた。

その寝顔は、いつも私が見ていた「氷の侯爵」ではなく、ただの傷ついた一人の青年のように、無防備で、どこか儚げに見えた。


私は、この人を守りたい、と強く思った。

遺物の声に呑み込まれ、心を失ってしまう前に、この人の隣で、もう少しだけ生きていたい。


そのために、私は変わらなければならない。

この呪われた力を、ただ受け入れるだけではなく、制御し、使いこなす術を。

そして、私自身の心を、守る方法を。


夜明けの光が、店の窓から静かに差し込み始めていた。

それは、私の新たな決意を祝福する、希望の光のように思えた。

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