資格の薔薇
資格の象徴たる薔薇のエンブレムは、朝陽を受けて虹色に輝く。選ばれし者しかこのバッジを手にできない。硬質な金属の輪郭は冷たく、指先で触れるたび、まるで脈を打つような鼓動が伝わる。表面に浮かぶ幾何学模様のバラが、淡い色のプリズムを胸元でちらつかせる。その印象的なバッジは、選ばれし賢者だけが手にし、知の象徴として人々に畏れと羨望を抱かせていた。触れただけで、ごくわずかに微振動する秘密の仕掛けが隠されているとも噂される。
IQが一定値を越えた者だけが、未来を託される世界——孤独な進化の制度。その制度のどこかに、誰も明かさぬ空白があると、N氏は肌で感じていた。
N氏はそのギリギリの線を越えたひとりだ。合格通知を手にしても、彼の日常はどこか空白が多い。その隙間に、周囲の整然とした美しさと釣り合わぬ、胸を刺すような違和感がじっと沈殿している。冷たい金属を掌で包むたび、言葉にならない何かが居心地悪く指先から伝わってくる。知性を誇る同僚が集う職場でも、賢者としての証を胸に歩く道でも、彼はときどき皮肉な微笑みを浮かべて思う——“この制度、本当に賢い奴が作ったのか?”
N氏の住む街は整然としていた。道にゴミは落ちておらず、夜遅くまで騒ぐ者もいない。子どもの声さえも、聞こえるのはごく稀だった。なにせ、子を持てるのは限られた数の『賢者』のみなのだ。公園の遊具も、どこか古びて見える。その代わり、図書館や研究機関は新築同然でにぎわっている。
朝、N氏は決まった時間に目覚め、決まった道を歩き、職場の研究室へと向かう。同僚たちとは、淡々とした会話を交わすだけだ。賢者の証として、N氏の胸元には控えめなエンブレムが光る。だが、すれ違う誰もが、そのマークをまるで特別なもののように一瞥する。
ふと、N氏は足を止めた。公園のベンチで、一人の老人がじっと、何もない空を見上げている。賢者の証は見あたらない。その姿がなぜかN氏の心に引っかかった。
N氏はしばらく、その老人を眺めていた。老人は、まるで時間が止まったかのように動かない。若い頃なら、こんな光景は珍しくなかった気もするが、今となってはまるで風景の一部のようだ。
やがてN氏は、なんとはなしに近づいた。「おはようございます」と声をかける。老人はゆっくりと首を動かし、N氏の胸のエンブレムをじっと見た。
「貴方は……賢者なんだね」
その目には、羨望とも諦念ともつかぬ色が浮かんでいた。N氏は一瞬、答えるのをためらった。「ええ、まあ」と曖昧に笑う。
「昔は、こんな制度はなかった。誰でも、親になれた」
老人はぽつりとつぶやく。
N氏は何も言えず、ただ静かにその言葉を聞いていた。自分が得たこの資格が、本当に誇れるものなのか。ふと、そんな思いが胸をよぎる。
その日、N氏は仕事中も、老人の言葉が頭から離れなかった。
N氏が賢者としての合格通知を受け取ったのは、雨の降る日の夕方だった。薄暗い部屋で、書類の封を開ける手が少しだけ震えていた。『あなたは新基準を満たしました。今後は賢者としての人生が約束されます』という、事務的な文面。N氏は思わず小さく鼻で笑った。『こんな紙切れ一枚で、人生が変わるとはね』。面倒くさそうに書類を机の隅に置きながら、胸の奥に小さな不安が沈殿していくのを感じた。期待も、誇りも、実のところあまり湧いてこなかった。ただ、変化を受け入れる他に術はない。N氏は、不器用に肩をすくめて自分に言い聞かせた。『まあ、こんなものさ』
その日の昼、老人と別れた後、N氏は公園の植え込みの傍で立ち止まった。そこに、ひとりの少女がスケッチブックを抱えて座っていた。まだ十代と思しき、銀色の髪が印象的な少女だ。胸元には賢者の薔薇が虹色に小さく光っている。
「そこの人、あなたも賢者なんでしょう?」少女が顔をあげる。その瞳はどこか悪戯っぽい。N氏は面倒そうに眉をひそめた。
「見たらわかるだろう。似合わないとか言いたいのかい?」
「いえいえ。」少女は軽やかに微笑む。「でも思うんです、この制度って、“本当に”賢い人のためのものなんでしょうか? IQで測れないものも、きっと大切なのに」
N氏は小さなため息をついた。「制度の矛盾に気づくやつほど、審査は通りにくいんだろうな。皮肉だけは平均値を超えてるが。」
少女はくすっと笑う。「今日は『雲の動き』を観察しているんです。空気の流れって、生き物みたいで面白いと思いませんか?」
「正直、さっぱりわからないね」N氏は皮肉めいた調子で答える。だが、少女は意に介さず笑った。
「みんな同じように生きているだけじゃ、つまらないでしょう?」
「そんなに毎日が面白かったら苦労しませんよ」
「でも、私はきっと普通じゃないんです。だって、あなたと違って、空っぽのベンチが好きなんですから」
「……君、名前は?」
「Sと呼んでください! 新人なんです、賢者」
「へえ。世も末だな」N氏は肩をすくめたが、その言葉とは裏腹に、少女の奇妙な無邪気さにどこか心を引かれていた。
N氏がちらりとSの脇腹の注射痕に目を止めると、Sは気にも留めない様子でシャツの裾を直しながら、ぽつりと続けた。
「よく言われるんです、もう子供がいるのかって。私には雲みたいに、形を持たない子どもたちがいるんですよ。卵子が採取されて、それを託された子が、いくつか、違う家にいて」
一瞬だけSの手元が小さく震えた。けれどすぐに、取り繕うような笑顔が顔に戻った。「まるでゲームの裏ステージみたいでしょう? でも、不思議ともう痛みはほとんど感じません」
N氏は、その淡々とした口調と、年齢には不釣り合いな達観ぶりに、ぞくりとしたものを覚えた。
だがその瞬間――『この子が、こんな社会の歪みを当然のものとして受けいれている』という現実に、言いようのない切なさと反感が胸の奥をすり抜けるのだった。
N氏はジャケットのポケットから、癖の強い色の眼鏡をそっと取り出してかけ直した。神経質な仕草がいつもの癖だ。対するSは、やけに大きなスカーフを首に巻き、短めの白いシャツに涼しげなボトムスを合わせている。ときおり風が吹くと、淡いシャツの裾がわずかに持ち上がり、ウエスト脇に『儀式めいた痕』とも思える透明な絆創膏がちらりと覗いた。斜めから光が当たると、その痕は時に淡く、時に鈍い陰りとなり、一瞬だけ儚い光沢を帯びる。その座るベンチの上で、靴下のかかとをリズムよく打ち鳴らしていた。二人の距離は、思いのほか近い。
Sがふいに、空を指差した。「ねえ、Nさん。私、もしも空の雲が全部パズルだったらって思うんです。全部がピースみたいに組み合わさって、人生の全体像が完成する。パズルがわかったら、生きる意味もきっとシンプルになると思いません?」「雲をパズルにしても、ピースを失くすのがオチだろうさ」N氏は肩をすくめる。Sはまるで気にせず笑顔で言う。「でも、足りないピースこそ、面白いんです。私、欠けてる部分が世界を可愛くしてるんだって思ってますから」その声は、不意に爽やかな風と一緒に抜けていく。「それ、どこかで流行りそうだな」N氏は皮肉めいた微笑を浮かべた。
そのとき、SはN氏の胸のエンブレムに視線を移した。光の加減で虹色に鈍く反射する、幾何学的なバラの意匠。「この薔薇のマーク、不思議ですよね。割れたら、なにか出てくるんでしょうか」と、Sが小さく首を傾げてつぶやく。
やがてN氏がジャケットの裾を直し、足早に公園の小道を歩み去っていった後——。Sはベンチに独り残り、無表情で空を見上げていた。
「……あの雲を越えた先には、何があるんでしょうね。私には見えませんけど。誰が見ているのかも、なぜだか分からなくて」
指先で薔薇のエンブレムをなぞる。Sは一瞬、空を見上げたまま目を細め、小さく息をついた。乾いた影が残る笑み。
その夜、N氏は久しぶりに自室の窓を開けた。外の空気は、どこまでも透明だったが、どうしようもない閉塞感が漂っている。枕元の端末に、公式な通達が一件届いていた。件名は『追加適性検査の実施について』。合格者全員に、何の前触れもなく再試験が言い渡された。N氏は眉をしかめた。「知性にも二度目の審査が必要になったらしい。皮肉な時代だ」と、ひとりごちた。ドアの向こうは静まり返っていた。
その夜――。N氏は眠れずに、ぼんやりと薔薇のエンブレムを掌の中で転がしていた。金属の微かな振動が、先ほどより強くなっている気がする。思い切って耳を近づけると、ごく小さく、まるで何かの機械音のようなパルスが奏でられていた。N氏は一瞬身震いした。「これも制度の仕掛けか? それとも――」今さらながら、このバッジが単なる資格の証以上のものなのだと、はっきり悟った。夜の闇が静かに深まっていった。
翌朝。N氏が指定された再検査会場へと向かうと、薄く霧のかかった廊下の向こうに、小柄なSのシルエットが見えた。制服でも研究着でもない、淡いパーカーに身を包み、髪を少しだけきつくまとめている。そのウエストラインには、昨日と同じ『儀式めいた痕』がちらりと覗くのが遠目にもわかった。だが、声をかける前にその姿は別の研究員集団の中に紛れ、見失ってしまう。
N氏は歩きながら、なぜかまたあの言葉が脳裏に蘇る。『私、欠けてる部分が世界を可愛くしてるんだって思ってますから』。薔薇のバッジが、シャツの上で微かに震え続けていた。
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