NovelDrive:AI生成ショートショート
ところてん
リセットボタン
もし“やり直しのボタン”があなたの手に届いたら、どんな願いを叶えますか?
N氏は、朝ベッドの端で静かに起きあがる。同じ光景、同じカーテンの皺、袖を引く指先の感覚さえ以前と変わらない。駅の信号、会社の自動ドア、弁当の包み。世界が、まるで反復練習のようにすべてをなぞっていく。
ある日、見慣れぬ自販機が夜の商店街に現れる。「あなたの望み、何でもひとつ」。指が虹色のボタンに吸い寄せられ、銀色の装置が手元に現れる。その名も『RESET』。
装置は手のひらにちょうど収まるほどの大きさで、縁取りが淡く虹色に光っている。ボタンは指先でなぞると、ひやりと冷たく、ほのかに振動が伝わる。表面には微細な模様が波のように揺れ、光が走るたびに、現実との境目が一瞬きらめく気がした。
最初は悪戯半分。缶コーヒーを落とし、RESETを押すと、景色が僅かに巻き戻り缶が戻る。
そのとき、N氏は思わず息を呑んだ。世界の輪郭が、ほんの一瞬きらきらと揺れ動いたようだった。看板の文字や窓ガラスの向こうの空、カバンの布地の手触りでさえ、すべての色が水面に光を落とすように澄んで見える。耳元で遠ざかる雑踏の音が、静かに波を引く。その透明さはどこまでも遠く、日常のノイズごと世界が洗い流されていくようだった。
触れた缶の冷たさが指先に残り、現実が少しだけずれた感触。だが、言葉にしようとした瞬間、その特別な鮮やかさは音もなく溶け出し、残ったのはN氏ひとりきりの変わらぬ日常。
やり直しの世界は、どこか自分だけの特権のように新鮮だった。ひんやりした幸福感。次の日、味噌汁の塩を入れすぎてRESETする。片方だけ違う靴下をはいてRESET。また、エレベーターの「開」と「閉」を間違えて、RESET。
ある朝、妻と言い合いになる。些細な言葉のすれ違い。気まずさが胸に残り、N氏は思わず装置に手を伸ばした。RESET。次の瞬間には、会話がまだ穏やかさの中にあり、ほっと息をつく。だが、会話は同じ場所を何度も回り続け、また同じ言葉にぶつかる。いつしかその繰り返しは習慣になった。妻の小言、沈黙、わずかな苛立ち。その全てを、RESETで消してしまう。だが皮肉なことに、やり直せばやり直すほど、確かなものは何ひとつ積み上がらなくなっていた。
会社で上司に呼ばれた返事をRESETでやり直し、思いがけず褒められたこともある。ランチの注文を間違え、RESETでそっと正して、ひとり得をした気分にもなった。そのたび、世界が自分に微笑みかけるような高揚がN氏を包んだ。やがて歯磨きのタイミング、会話の言い間違い、書類の失敗――。そんな些細なほころびにも使うようになる。直後だけ、世界は鮮明だった。
毎朝のホーム、同じ老人、同じ距離感。偶然でさえRESETの中で反復される。今日のN氏は、財布をどこかで落とした。交差点の向こう、誰かが落とし物を拾いあげる気配。どうせ届けてもらって面倒なやりとりが増えるだけだろう、とN氏は思った。すべてが些細な手間に感じられ、RESETを使う元気すら起きなかった。財布を取り戻しても、どこかに街の隙間風のような喪失感が残る。それは、RESETしても消えてはくれなかった。財布はもう戻らなかったが、N氏にとってそれは、日々のやり直しに似た、取り返しのつかない小さな喪失だった。RESETを繰り返すたび、現実も記憶も霞み、ついには「何が正しい現実か、もはや頬をつねる気にもならない」と苦笑するばかり。
電車に滑り込み、安堵する。しかしその歓びすら、何度目か分からないうちに、どこか他人のもののようになる。
家では妻が「今度の週末、温泉にでも行こうか」と言う。N氏の返す微笑みも、もう形だけだ。その「週末」が何度目の約束なのか、N氏にはもはや判然としない。ささいな口論のたびにRESETを押した名残が、ふたりのあいだに静かな距離を残していた。
同じ台詞、同じ温度が繰り返されるたび、手のひらから少しずつ何かが零れ落ちていく気がした。
その会話に、ふとN氏は違和感をおぼえる。同じやりとりが輪のように巡っている気がした。だが、それでも世界は、どこか途切れがちな反復を淡々と続けていく。
装置を撫でる手だけが習慣として残り、心は静かな空洞になる。その空洞には、言葉にならない何かが流れていた。何かを数えようとするたび、掴みかけては遠ざかっていくもの。考えようとするだけで、静かな波紋が広がるばかりだった。
夜、公園のベンチで装置を手のひらに転がす。もう充分だ、と心が囁く。しかし指先は、いまだ微かにその重みに執着している。世界は淡く、遠い。N氏はただ風に吹かれて立ち尽くす。
静かに息を吐くと、それさえ夜の闇に溶けて消えた。
自販機の灯りだけが、夜の隅に静かに浮かんでいる。
やがて、朝。
RESETは静かに眠っている。朝の光が差し込み、路地裏の自販機に虹色のボタンがわずかに揺れるだけだった。
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