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美穂が以前住んでいたのも南中央署の管轄内だった。特に事件化していたわけでもなかったので、二人は担当の交番へ出向いて行くことになった。
「えっと……そんな事件もあったような」
長年交番勤務を続けている張本はそう言って報告書を捲った。張本は少々変わり者で、交番勤務にこだわって定年近くまで勤めてあげてきた。若い頃から異動を快く受け入れなかった。終いには上のほうが根負けして、定年までの残りの期間はこの交番勤務とした。ここに根をおろして七年ほどになる。
「ああ、あったあった。五年前でしたね」
そう言って細かく書かれた報告書を差し出してきた。張本は何か起きると事件にならなくとも細かく記載する癖があった。この交番に配属された新人はまずは張本の報告書を読み込むところから始まる。そこでだいたいのことを把握できるからすぐに使える人材となった。恩恵を受けたのは新人だけではない。張本の報告書のおかげで南中央署は本部から何度も表彰されていた。張本が特例で異動にならなかったのにはそんな理由があった。
「ああ、思い出しましたよ。酒癖の悪い奴でしたね。羽振りのいい頃は関内や伊勢佐木で飲んでいたようですが、そこでも何度か暴れてますね。いずれも事件化していませんが」
「羽振りのいい頃?」箕島は張本の書いた細かい字を追いながらそう返した。
「かつては個人で運送業を営んでいたようです。個人で小型のトラックで荷物を運ぶってやつですね。そういうのが儲かった時期もあったでしょう?」
言われてみればそんな時期もあった気がする。そういえばいつから儲からない仕事になっていたのだろうか。
「なかなか仕事が取れなくなってきたうえに身体も壊したらしくて廃業したとか言ってたな。そのくせ酒はやめなかったから」
「そんなに酒に酔って問題を起こしていた?」
「報告書に残っているのはそれくらいですがね。近所の人からはよーく相談は受けてましたねえ。皿の割れる音がするとか怒鳴り声がするだとか。私も気に留めてはいたんですが」
「なるほど」
張本ほど地域に根づいていると勝手に人や情報が集まってくる。最初は単なる年寄りの茶飲み話であったとしても、それが大きく化けることも少なくなかった。
報告書には坂口祐介が酒に酔って暴れていると通報があったと記載されていた。大きな音と怒鳴り声が聞こえ、何かあったのかと隣の夫婦が坂口宅に駆けつけた。チャイムを鳴らしても返答がなく、心配になった二人は庭にまわった。そこで暴れる祐介を発見し旦那が慌てて止めに入ったが、その際に祐介に激しく殴られたのだった。
「間違って手が当たったとかいう感じではなかったようですねえ」報告書を覗き込んでいた加藤はそう尋ねた。
「間違ってタコ殴りにする馬鹿はいないでしょうからね。ちなみに止めに入った旦那は鼻と肋骨を折りましたから」
「だいぶ凶暴っすね」加藤は呆れたように言った。
「お隣の山田さんは高齢で骨がもろかったのもあったのもありましたが、いっさいやり返さなかった。それをいいことに殴り続けるとか馬鹿としか言いようがないですな」
箕島はため息をつくしかなかった。怪我をした旦那は定年まで美術館で学芸員をしていたらしい。温厚で親切だと近所でも信頼は厚かったようだ。
「山田さんはいつもの夫婦喧嘩だと気づいたようで、自分が間に入れば頭が冷えると思って仲裁に入ったと言ってましたね。それに妻の美穂さんが殴られるのを見ていられなかったとか」
妻の味方が仲裁に入ったため余計に頭に血がのぼったというところか。
「弱い高齢者が止めに入ったところでなんにもならないと自分を誇示したかったんでしょうな。その代償はデカかったわけですが」
山田の息子は弁護士だった。
「美穂のほうから事件にして欲しくないという要請がありましてな。山田さんも事件化は望まなかった。だがそれでは息子は溜飲を下げることは出来なかった。息子のほかに娘もいましてな。当時は専業主婦だったそうですが、妹も兄をけしかけてたくらい怒ってましたからねえ。民事では示談になったようですが、かなりの金額だったんじゃないですかね。そのあと家を売る羽目になったようですから」
「家を?」箕島は慌てて顔を上げて張本を見た。
「そこまでしても一緒に居たいとなると我々ではどうにもならんのですわ。なんて言うんでしたっけな、き、き……なんとか依存とか言うんでしたかな」
「共依存ですか?」
「そうそう。お互いが依存し合ってるとかいうものでしたかねえ。よく分からんものですな」
「暴力を振るうパートナーと離れられないのは悩ましい問題です」加藤は眉を顰めてそう言った。おそらくそういうケースを何度も目の当たりにしているのだろう。箕島は美穂のことを思い出していた。加藤ほど共依存には詳しくはないが、美穂が依存しているようにはあまり思えなかった。
衝動 柚木ハッカ @yuzu_hakka
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