公務員宿舎A棟の元住人 加藤美由紀の告白
どうして私がここにいるってわかったの? へえ、ネットで主人の名前を検索したら勤務先が出てくるんだ。ああ、論文の執筆者としてか。なるほどね。でも、職場はわかっても総務課は住所なんて教えてくれないでしょ。え、教えてくれたの? 総務課で断られてロビーでうろうろしてたら、後藤さんっていう人が向こうから声をかけてきて、それで事情を話したら、ほいほい教えてくれたんだ。問題だなあ。個人情報だだ漏れじゃない。まあ、あなたに文句を言ってもしかたないんだけど。
で、ご用件は?
なんて聞くまでもないか。お母さんのことよね。あの日、何があったのかってことでしょ。でもさ、うちに来る前にいろんな人に話を聞いたんじゃないの。お向かいの加藤さんはちょうどそのとき出かけていて留守だったよって。
でしょ。やっぱり聞いてるよね。
ん? 出かける前に何か変わったことがなかったかって?
その質問をしたのはあなたが初めてだね。どうするかな。あ、お母さんはそれっきりなんだよね。だからこうやって話を聞きに来てるんだよね。亡くなったお父さんはそのことについてなんておっしゃってたの。へえ、あのときのことは何も聞いてなかったんだ。お父さんのお葬式のときにおじいさんが話してくれたんだ。そりゃあ、驚くよねえ。
わかった。あなたにだけ、特別に教えてあげる。他言無用だよ。わかる? 他言無用って意味。うん、じゃあ話すね。
お昼の一時ちょっと過ぎだったかな、ビーってブザーが鳴って、ドアを開けたらあなたのお母さんが立ってたの。なんだか深刻そうな顔でね。『何かあったの』って聞いたら、『悪いけど、ヨーカドーでコートと靴とボストンバッグを買ってきてもらえないかな』って、エプロンのポケットから何枚か重ねた一万円札取り出して押しつけてきたの。唐突すぎるでしょ。びっくりして固まってたら、『お願い、急いで、生協さんが来る前に』って。毎度のことだけど、こっちが断るってことは想定されていないんだよね。
仕方ないから、あわてて出かける準備してヨーカドーまでお使いよ。夏場なら自転車で行くんだけど、冬は歩きだから大変なのよ。氷点下の中をふうふう言いながらヨーカドーまで十五分かけて歩いて、何でもいいってわけにもいかないからあなたのお母さんに似合いそうなコートと靴を選んで、ボストンバッグはよくわかんないからアディダスの白いやつにして、ついでに地下の食品売り場で我が家の食料品を買って、帰りは荷物が大きいからよたよた歩いて宿舎に着いたら、入り口のところにパトカーと生協のトラックが停まってて、とりあえず部屋に戻ろうとしたら警察官に呼び止められて、あなたのお母さんがいなくなったって知らされたのよ。それで『太田さんがどちらへ行かれたかご存じないですか』って聞かれたんだけど、私はてっきりあの後にどこかへ行っちゃったんだなって思ったから、『買い物に出かけていたのでわかりません』って答えたのよ。そしたら警察官は私が抱えていた荷物をちらっと見て、うなずいて、『あ、もう結構です』って。
で、部屋に戻ったら、あなたの母さんがまだいたの。
え、どういうことってなるでしょ。太田さんがいなくなったからって警察の人まで来てるんだよ。そう言ったんだけど、あなたのお母さんはしれっとした顔で、『そうみたいね』って、それだけ。それよりも頼んだ買い物のことの方が重要らしくて、コートと靴とボストンバッグとおつりを受け取りながら、『悪いけど、このまま夜までいさせもらえるかな。ご主人、明日まで出張だから大丈夫でしょ。あ、それから、外で騒いでる人たちには私がここにいるって言わないでね』って。
結局あなたのお母さんは、そのまま夜の十一時過ぎまでうちにいて、みんなが寝静まった頃を見計らって出て行ったわ。私が買ってきたボストンバッグに自分が履いてきたサンダルを入れて、私が買ってきたコートを着て、私が選んだ靴を履いてね。
で、それっきり。
どう? すっきりした。まあ、しないか。出て行った理由がわからないものね。それは私にもわからないよ。
まだ、あるの? 畑? ああ、家庭菜園のことか。山根さんと森さんがそんなことを話したんだ。えっとね、それは――
そうそう、もしもあなたのお母さんが戻ってこられたらって考えてたらさ、畑が荒れたままっていうのは気が引けちゃってね。軽く耕しておこうかなって思って。ほんとなら春になって雪が解けてからやればいいんだろうけど、うち、三月に転勤で東京に引っ越すことになってたから、その前にっていうとあの時期になっちゃったんだよね。
でも、あれなんでしょ。何年か前にあの辺の宿舎は何棟か取り壊されて、家庭菜園だったところも舗装された道路になってるんだよね。結局お母さんも戻って来られなかったし、畑の手入れなんてあんまり意味なかったね。
これぐらいでいいかな。そう、それならよかった。
じゃあ、気をつけて帰ってね。
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