第36話 孤独な心の信じ方

「この魔法でも逃げるなんて、つくづく厄介だな」


 縛る相手を見失った鎖が、ぽろぽろと崩れる。小さく独り言を呟いてから、先生はこちらに振り向いた。反射的に、身を竦ませる。いつから私を尾行していたのか、聞きたいけれど聞きなくない。実はホールにいたとしたら、破談の一部始終を見られていたことになるから。


「間一髪でしたね。いやあ、助けられてよかったですよ」


 上辺だけの優しさ。見慣れたそれが、いつもよりやけに白々しく映った。


「ノーレス先生、貴方……何を知っているの」

「おやおや、悪魔の言葉を真に受けたんですか」


 否定も肯定もせず、月を背に男が近寄ってくる。自分より背丈の低い相手から逃げ出したくて堪らない。悪魔の言葉を真に受けているからか。それとも、有無を言わせない態度に、気圧されているのだろうか。


「近寄らないで」

「先生を警戒しているんですか? あの悪魔よりも?」

「あ、貴方が疑われるような行動を取るからでしょう」

「災厄の娘よりは潔白ですよ」


 手首を──リデルが口付けた場所を、掴まれる。痕なんて残っていない表面を爪でなぞられ、上書きするように微かな線を刻まれた。たったそれだけで、ぞくりと肌が粟立つ。


「不完全なようですが……悪魔と契約したのでしょう」

「何のことを言っているのか分かりませんわ」

「とぼけないでください、ヒノからあの夜の事は大体聞いています」


 あの男、肝試しの事を暴露していたのね。あれから態度が変わらなかったから、何も知られていないままなのかと油断していた。これは……かなりマズいわ。


「どうして先生に教えてくれなかったんですか」


 淡々と尋ねる声には、落胆も怒りも疑念も混じっていなかった。美しいモスグリーンの瞳から視線を逸らす。悪魔に憑りつかれているかもしれないなんて、自分が悪魔に変容するかもしれないなんて、言えるわけがないでしょう。どうせ教会に連れていかれるだけなのに。


「貴方は賢い子でしょう。賢者なら助けられると、思いつかなかったんですか」

「やめて」


 拒絶の言葉が出たのは、反射的だった。私の反応が不満だったのか、ノーレス先生は一瞬むっとしてから、更に身体を寄せてくる。指先から伝わる仄かな熱に、得体の知れない居心地の悪さを感じた。私の顔を間近から覗き込むようにして、彼は口を開き直す。


「もっと人を信用しなさい。頼っていいんです、助けてあげますから」

「やめて!!」


 先ほど囁かれたばかりの甘言が蘇りそうになり、私は叫んだ。騙されてはいけない。信じてはいけない。耳を塞ぎ、両眼を閉じて小さく身を縮こませる。ドレスが土で汚れるのを構う余裕は、とっくに失われていた。


「優しくなんてしないで!」


 勘違いしそうになるから。思考を放棄して、縋り付きたくなってしまうから。この人なら信じてもいいと期待した先で……裏切られるのは、もう、嫌だから。


「私はもう誰も頼らない。信じたりしない、無様に助けなんて求めない」

「クロリンデ……」

「頼り方なんて知らないのよ!」


 頼る方法なんて分からない。頼れる人なんていなかったから。

 愛なんて知らない。愛されたことがないから。


 お父様が最期まで私を愛してくれなかった事位、本当は分かっていた。認めてしまえば、私は本当にひとりになってしまう。代わりに愛してくれる人を、誰でもいいから求めてしまいたくなる。愛してくれなかった父を、全てを憎んでしまいたくなるのが、恐ろしかった。


 今だって、理性がどれだけ警鐘を鳴らそうと、リデルの手を取ってしまいたい衝動を消しきれない。私を利用したいだけだとしても、私に愛を与えようとしてくれるのは、あの悪魔だけだから。


 目と耳を塞いでいたから、目の前の男が大きくため息をつくのは、聞こえなかった。星々が散らばる綺麗な夜空をうんざりした顔で仰ぐのも、また。


「ああもう、面倒くせえーーーーー!」


 叫び声はあまりにも大きくて、耳を塞いでいても聞こえてしまうほどだった。唖然として顔を上げると、先生はやけくそ気味に頭をかきむしっていた。


「いい子ちゃんなふりなんてやってられるか、メンタルケアは専門外なんだよ!」


 幼い容姿が瞬時に大人の姿へ変貌し、ぎろりとこちらを睨みつけた。怯むこちらの眼前へ、びしりと人差し指を突き立ててくる。


「いいか、お前が悪魔になると世界が滅びかねない。だからこの俺がわざわざ気にしてやっているんだろうが、そこは疑う所じゃないだろ!」

「え、ええ……そう、ですわね……?」


 勢いに飲まれて、つい頷く。言われてみれば、世界滅亡を防ぐために要注意人物に注意を払うのは、普通の行動よね。


「だからお前も、自分が悪魔堕ちしない為なら俺を利用しろ! 存分に頼れ!」

「あ、貴方なんかに頼ったりなんて」

「お前は俺より弱くて格下なんだぞ。この賢者様に存分に甘えていい立場だろうが!」


 な、なんて横柄な男なの。でも一理ある、のかしら。爵位を得ている賢者は国でも重宝されているし。勢いで丸め込まれているような気もするけれど。


「頼り方が分からないなら、何でもいいから俺に言え。こっちで勝手に判断して、やばそうなら協力してやる。……ったく、ここまで俺に言わせるなんて破格の待遇だぞ」


 面倒臭そうに顔をしかめながらも、先生はこちらの反応をじっと窺っていた。本当に、協力してくれるつもりなのかしら。私が悪魔になったら困るのは本当でしょうし。好きだなんて得体の知れない感情が理由ではない分、納得できる。


「つまり、互いに気兼ねなく利用し合えばいいと言いたいのね」

「そういう事だ。素直じゃないお嬢さんでも頷きやすい協力関係だろう」


 私が危険だから融通を利かせるというのは、対等な関係とは言い難い気もするけれど、私だって予言通り災厄を招く羽目になるのは避けたい。決闘の時よりはメリットが大きく感じられるし、悪くはない話、よね。私が拒まないのを見て彼は満足したように頷き、ぱちんと指を鳴らす。ローブがぼやけ、礼服へと切り替わった。着替えもできるなんて、便利な魔法だ。月明かりの下、彼はおどけるような大仰な態度でお辞儀をしてみせた。


「そういうわけで、今宵は俺と踊っていけませんか」

「……先生?」

「ユークと呼べ。今の俺は賢者だぞ」


 賢者の証であるブローチが、礼服の胸元で月光を反射する。驚いた私は暫く立ち尽くし、数秒後ようやく彼の意図を推測するに至った。


「婚約破談となった私と踊る事で賢者との繋がりをアピールさせ、ハドリー家の跡取りとしての価値を向上させる心積もりですのね」

「ご明察」


 やっぱり、ホールでの出来事を知っているのね。なんて打算的な援助かしら。そう思うと、差し出された手を取るのも苦ではなかった。彼は世界を救いたいから、私に情けをかけてくれる。私もそれを存分に利用すればいい。


「どうか、私を導いてちょうだい。……ユーク」


 私より背の高い男を仰ぎ、はっきりとした声で頼む。彼は一瞬目を見開いてから、ふっと笑った。機嫌良さそうに私の手を掴み直して自らの方へ引き寄せる。


「ちょっと、馴れ馴れしすぎるでしょう」

「より親密に見えるだろう? 敬語もやめていいぞ」

「まだホールについてないじゃないの、私を揶揄って遊んでいるだけではなくて?」

「バレたか」

「ユーク!」


 キッと睨みつけるも、彼はどこ吹く風で私を先導する。とんでもない男と協力関係を結んでしまった。後悔の念が脳裏をよぎる、けれど。


 頑丈な扉が開かれ、内側からの眩しい光が降り注ぐ。喧騒が気にならなくなるほどの強さで肩を掴み、ユークは明るいホールへと私を迎え入れた。

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