第35話 ただ甘く優しいだけの

 重たいホールの扉を開け、喧騒から足早に遠ざかる。話し声が完全に聞こえなくなってからようやく、足を止めた。夜のテラスには人がおらず、噴水はただ静かにしぶきを上げ続けている。設置された椅子に腰を下ろすのは、私だけ。


「……これでいいの」


 言い聞かせるように、一人呟く。影で黒く染まる地面を見つめる姿は、酷く無様だった。人前での大胆な婚約破棄で、私の醜聞は更に膨れ上がるだろう。聴衆の前で恥をかかされた女が簡単に次の婚約者を見つけられると、エディトは本気で信じているのだろうか。だとしたら、私を……世間を、買いかぶりすぎだ。


 婚約者に断られ、貰い手すらいなくなった女なんて、ハドリー家のお荷物でしかない。こうなったからには、リリアが後を継ぐ方がまだマシだ。そう判断して悪女らしく演じてみた。これであの子よりも、私の態度を悪く言う者の方が増える事だろう。ルーリィなら特専クラスの誰かが便宜を図ってくれるだろうから心配いらない。これがハドリー家にとって一番いいの。これで……。


「見る目ないなあ。ボクだったら、絶対キミを選ぶのに」


 甘ったるい声に、ハッとして顔を上げる。礼服を着た悪魔が、いつの間にかすぐ隣に腰掛けていた。婚約者に捨てられた女を見て、彼は笑うでもなく不快そうに顔をしかめる。


「あの男は身勝手な良心を盾にして、キミの信頼を裏切ったんだ。最低だね」


 信頼。……そうだ。私達は愛し合っていたわけではない。けれど、婚約という契約関係が、私達を繋いでいた。何があっても彼は私の傍にいるのだろうと、無意識に、そう信じ込んでいた。申し訳なさそうな態度の裏で、エディトが何を考えているのか、知ろうともしないで。その結果、彼は私を裏切った。……私は、裏切られた。


 ぱしゃり、と跳ねる水の音。土を踏む靴。私の頭上に、影が差す。金色の瞳の中で、何もかも失った無力な少女が心細そうに顔を上げている。私を蔑むだけだった推測は、今となっては事実となってしまった。


「あんな最低な婚約者やハドリー家なんてもう放っておいて、ボクの所においでよ」


 伸ばされた指は、私達人間とそう変わらなかった。或いは化けているだけで、恐ろしく鋭い爪を隠しているだけなのかもしれない。ただ指先を見つめている私に焦れたのか、彼は強引に指を絡めとる。振り払おうとしたのに上手く力が入らなかった。


「……どうして、私なの」


 どうして私ばかり、こんな目に。どうして私が、災厄の娘なの。どうして、私は。疑問が膨れ上がりすぎて、自分でも何を問いたいのか、もう分からなくなっていた。全てを見透かすように、彼は立ち上がる。


「キミが好きだから」


 二度目の告白は、やはり初めて聞く異国の言葉じみていた。無知な赤子に覚えさせるように、リデルはゆっくりと、優しく愛を吹き込んでゆく。


「強さの裏に潜む弱さが、孤高を良しとしながら愛を健気に求め続けるいじらしさが可愛らしい。硝子の花のように脆く危険な、ボクの大事なキミ」


 引き寄せられるままに、椅子から離れる。月明かりの下で踊るように、彼はくるりと足を動かした。


「ボクは、絶対にキミを裏切らないよ」

「嘘」

「嘘じゃない。キミを気に入っているのは、目の前のこのリデル・リドルだ」


 他の自分がどうだろうと、この自分には関係ないと言わんばかりの口ぶりに、わずかな疑問が首をもたげる。けれどそれも、悪魔の睦言の前に掻き消えてゆく。


「ボクはキミの傍にずっといてあげる。だからキミも、ボクの傍にいてよ」

「……リデル」


 ──この手を取れば、きっと救われる。


 脳裏に響いた言葉を世迷言と切り捨てる事が、今の私はできない。本当に、彼を選べば、私は……救われるの?


 理性と本心の狭間で揺れるように、唇が震える。目を細めて見物していた悪魔が、突然私を離して後ろへ飛びのいた。途端、響く金属音。宙に浮いた身体に、光る鎖が幾重にも絡みついていた。


「ようやく罠にかかりましたね」


 茂みの裏から、小柄なローブ姿が姿を現す。杖を構えたノーレス先生が、間に合ってよかったと私に笑みを向ける。表面だけの優しい態度を見て、瞬時に冷静さを取り戻した。ふらふらと後ずさりして、先程までの熱の残滓を消し去るように両手を握り込む。

 

 そうだ、これは全て、私を魔界へ連れ帰るための甘言。

 傍にいるなんて嘘。裏切らないなんて……嘘だ。


 束縛され、逃げ損ねた悪魔が地面にべちゃりと落下する。こうなっては私を騙すのは無理だと察したのだろう。乱入者を睨みつけ、唇を三日月の如く歪ませた。


「あーあ、随分タイミングよく邪魔されちゃったな」


 蒔かれた疑念の種に、身体が強張る。裏庭や肝試しの時といい、今回といい、まるで狙ったようなタイミングで現れるノーレス先生。都合がいいチートだから、賢者だから、私が呼んだから。そんな理由で、片付けていいものなの?


「毎回助けに来てくれるなんて、都合がよすぎるよねえ。ボク達では知り得ない特別な秘密を、賢者様は知っていたりして」

「君に言われたくはありませんね」

「あはは、お互い様ってやつかな」


 軽薄な笑い声が、夜空に弾ける。ぴし、と何かに亀裂が走る音を、鼓膜が拾う。杖を先生が構え直す前に、悪魔の姿が霧の如く霞み、見えなくなった。まるで最初から、そこには何もいなかったように。

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