3章 波濤たる狂信

17 獣の影

〇臣海の杜_眞丐市本部


 廃病院を改装したとは思えぬほど、眞丐市沿岸部に居を構える臣海の杜本部は整然とした美しさを備えていた。建物全体は白を基調とし、陽の光を受けて淡く輝く外壁が印象的である。

 遠くから見ると、まるで清廉な学園か、あるいは近代的な療養院のようにも見えるが、近づけばその静けさの奥にどこか人の気配を拒むような異様な静謐が漂っている。


 構造は大きく西棟・東棟・中央棟に分かれており、それぞれが渡り廊下で結ばれている。元は入院棟だった建物を再利用したもので、長い廊下の両脇にはかつての病室を改装した信者たちの共同生活区画が並んでいる。

 各部屋は簡素だが、白布の寝具や無機質な棚が整然と並び、信仰共同体としての清貧さを感じさせる。一方で、幹部以上の階層に属する者たちには、上階に個室が与えられており、そこには書斎机や私物の保管棚などが備え付けられ、明らかに一般信者との区別がなされていた。


 中央棟はこの施設の心臓部にあたる。かつての手術棟を改築した広間は"儀謁館ぎえつかん"と呼ばれ、増築された円形のドーム天井には淡い照明が幾重にも仕込まれ、夜間でも白光が静かに広がる。床面には円環状の模様が彫られ、中央には教団の象徴である金属製の祭壇とその奥に拡がる滝を模したオブジェクトが存在感を放っている。信者たちはそこで定期的に祈祷や儀式を行い、荘厳な音響装置を通して儀式中の声が壁面に反響するという。


 さらに北側には小規模な劇場があり、ある意味閉鎖的な教団が外部の娯楽を触れ合う環境が整備されている。舞台裏には控室と衣装保管庫が整備され、定期的に一般社会で流行っている劇や、権利を貸与された映画の上映などが行われていた。

 中庭は旧病院の中庭跡をそのまま再利用したものだが、中央に噴水を新設し、四方を回廊が囲むように設計されている。信者たちは儀式の合間や日々の余暇ではこの中庭で静かに過ごすことも多い。


 西棟には食堂や浴場、共同の洗濯室などがあり、一日の生活リズムがすべて建物内で完結するよう構成されている。東棟は管理区画で、記録室や医務室、幹部の執務室が並ぶ。特に最上階の部屋は総務顧問である夜見の執務室として、かつて院長室だった場所が転用されており、窓からは施設全体を一望できる。


 その清潔な白壁と整理された構造は、外部の目には秩序と安寧の象徴として映る。   

 しかし内部に足を踏み入れる者は誰しも、どこか“かつての病院”の記憶がまだ壁の奥に潜んでいたとしてもなお足りないような、説明しがたい寒気を覚えるのだった。



―――

―――

―――

 7月末。未明。


 夢も見ない熟睡の後、スティーブ・カッターネオは自室の褥で瞼を開いた。

 毎朝6時ごろに決まって鳴る朝を告げる鐘は鳴っておらず、カーテン越しに届く僅かばかりの光量は、まだ今が随分と早い時間であることを直感させた。


 それなのに、部屋の外では信者たちが走り回り、指示を叫ぶ声が飛び交っている。寝台のシーツを払いのけると、冷たい床に素足が触れ、ひやりとした感覚が背筋を駆け上がった。


「……何が、起きたんだ?」


 扉を開けた瞬間、鼻をつくのは鉄のような匂いだった。

 西棟の最上階である4階の個室から階段を通じて3階に降り、建物のあちこちから耳に届く騒ぎ声の出所を探す。


 壁の角、階段の踊り場のあたりに人だかりができており、数人の信者が床に膝をついて祈りの言葉のようなもの呟いていた。その奥では担架に覆いをかけられた体が二つ、その傍らでは血の跡が長く引きずられ、床の清潔な白を濁らせていた。


(え?)


 スティーブは震える足で一歩、また一歩と近づいた。警備を担当する信者の男たちが立ち入りを制止しようとしたが、最近幹部として登用された彼の顔を見ると、短く目を伏せて道を開けた。その反応が、かえって胸を締め付けた。


「スティーブさん。お待ちください、まだ――」

「アーカス……?」


 制止の声が耳に入る前に、スティーブの視線は床に落ちていた小さな靴を捉えていた。それは見覚えのある靴。セントドラゴニアで放浪生活に近しい中で自分が弟に買い与えた靴であり、弟が臣海の杜へ入信後も履き続けてきたものだった。


 破れた靴が弟の傍らに落ちている。靴だけでなく、信者が普段から着用する白装束もほぼ原形なく破れ、全裸に近しい姿となっていた。

 そんな弟が頭から血を被ったような姿で真っ赤な床に膝立ちしている。その目は白目を剥いて失神しており、口は顎が外れたようにかっぴらかれていた。腹の底からの絶叫に包まれていたかのような弟の表情。その姿には見かけ以上の凄惨さが滲んでいる。

 弟の傍らには担架に乗せられた二つの身体。

 覆いをかけられ伏せられてはいるが、確認するまでもなくヒトが死んだ姿だ。


 

 重なる、セントドラゴニアで起きた凄惨な事件。

 フラッシュバックした地獄の思い出が、アーカスの胃袋をひっくり返した。


「おぉ……オぇエエェエエエエオエェォオオエ」


 背後から誰かが囁いた。

「あの子の弟が、―――たらしい」

「人の――をしてなかったって」

「夜、人を追い回す獣――」

「アーカスが部屋を抜け出し――」

「――が叫び散らして――を――に」

「それって――人狼―――」


 言葉が空気を裂いた。

 ざわめきが一瞬止まり、視線がスティーブに集まる。誰もが口を閉ざし、白々とした廊下の光の中で、吐瀉物に塗れながら気絶してしまった彼を数名がかりで医務室に運んだ。


――――

――――


 スティーブの頭の中で、何かが崩れる音がした。

 アーカス。優しくて、臆病で、いつも自分の後ろを歩いていたあの弟が、なぜいつも血染めの世界の中心に。


「……嘘だ」


 掠れた声が漏れた。静かな医務室に彼は一人だった。

 もちろん、弟は人狼でないと今でも信じている。

 しかし、目に焼き付いた悲惨な光景の詳細。さっきもセントドラゴニアあの時も、アーカスの歯にはヒトの皮膚がくっついていた。


「アーカスが変身して人狼に……?

 そんなわけ、ないじゃないか」


 涙が溢れてきた。一瞬でも弟に恐怖を抱いてしまった自分を呪い殺してしまいそうになるほど、自己嫌悪が渦を巻く。

 弟は途轍もない不幸な事に巻き込まれている。

 自分が何としてでも弟を護りき無くてはいけない。


「スティーブさん。今、よろしいですか?」

「夜見さん。……おはようございます」

「おはようございます。先程の事件、御覧になりましたね」


「はい。でも、アレはっ」

「昨夜、深夜に二名が何者かに襲われ亡くなりました。現場検証で警察を呼んで詳しい捜査を依頼する必要がありますが、今朝から電話線、通信設備が悉く機能不全に陥っています。丁度、あの時のおにぎり屋のように」

「じゃあ、この前話に出てきた、あのアシヤニトっていうラグーン子飼いの人狼が攻めてきたってことですか⁉」


 臣海の杜の幹部なって以降、スティーブは眞丐地方の各組織の情報、勢力図に関する情報についてをあらかたインプットされていた。


「可能性はありますが、なんらかの超常的通信ジャミングが働いていることは間違いありません。少なくとも、人間がやった犯行ではないことは確かです。

 ――で、問題があります。想定されていたことではありますが、この事件の血の匂いを嗅ぎつけて、悪魔の下僕たちがいよいよこちらに向けて動き出したとの連絡が今朝この本部に到着した別支部の幹部から入りました。外部の状況も入ってこない状況ですが、おそらくLAGO2Nは警察が介入するより速く我々に対して―――」


 そこで、誰も聞いたことがない警報音のようなけたたましい音が鳴った。


 其れは中庭に出現した巨大なドローン。その上部に乗せられたバカでかいスピーカーから放たれた音だった。


―――

―――

―――


[こちら、LAGO2N。臣海の杜所有地において、人類にとって有害な超常怪獣:"人狼"の存在を隠匿する行為が確認されました。速やかに本施設に潜伏している人狼及び“対象”の投降・引き渡しを要求します。

 "対象"は教団幹部以上役職全員とし、人狼の容疑の有無を問わず、無条件の投降を要求します。

 ――繰り返します]


 声は冷たく抑揚がなく、まるで機械が宣告するかのように、淡々と、しかし圧倒的な権威をもって響く。


[引き渡し・投降猶予は本日正午まで。

 人狼及び対象全員の投降が確認ができしだい、LAGO2N実動部隊の撤退をお約束します。

 ただし、猶予迄に希望の要求が満たされなかった場合、実動部隊の実力行使を以て要求事項の強制執行を開始いたします。その際、武力による抵抗を感知した場合、その強制執行に係る対象の討伐は生死問わずとし、対象外の一般信徒に対してもこれの適用範囲とします。

 また、これ以降において投降以外の目的で施設敷地を出る行為が確認された場合、逃亡と見做し、強制執行の対象とします。また、逃亡者が人狼容疑が掛けらている場合、敷地内の全信徒に対してもこれの適用範囲とします。]


 スピーカーの音量が上がるたび、空気が震える。中庭に集まった信者たちは恐怖と困惑の表情で互いを見交わし、じりじりと後退する。


[我々は積極的な武力介入を望まみません。

 臣海の杜の皆様、人間である矜持を捨てず、平和で安定した社会秩序の実現のため、快いご協力のほどよろしくお願い致します]


その一言が、まるで判決のように響いた。

少年の頭の中で、弟の笑顔と、血の臭いが交錯する。

彼は拳を握りしめた。


スティーブにとってそれは警告ではなく、闘いの始まりを告げる合図だった。


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