第18話 川
川ーーなのだろうか。
ヒョウコの視界に広がっているものは。
海の間違いではないか。
水平線が見える。水平線しか見えない。
ヒョウコから見て、右側から左側に水が流れているから、やはり川なのだろう。
川辺は舗装されていない。砂利が敷き詰められ、石やら岩やらがゴロゴロ転がっている。
「大きな川〜〜」
モモセがのんびりした調子で感嘆の声を上げた。
「これじゃ脱出は無理ね」
もともとできるとも思っていないが。
この灰色の場所から脱出できたところでどうにかなるわけでもない。死んだというのが真っ赤な嘘で、ここが地球上のどこかでもない限り。ここに来るより前の記憶と頭に直接響いているようにさえ思えた天からの声と不思議な能力がそれはないと告げている。
「それにしてもなんなの、この川?」
別に答えを期待していたわけではないヒョウコの呟きに、エイチはさらっと答えた。
「多分ですが。いわゆる三途の川というものじゃないでしょうか」
エイチの答えにヒョウコは言葉が出ない。
「なんだっけ、それ?」
モモセが首を傾げる。
「現世ーー生者の世界と死者の世界の間に流れているという川ですよ」
エイチが端的に説明した。
「あー。そうそう。思い出した。なんか死にそうになった人が見るんだっけ。目の前に川が流れてて。死んだおじいちゃんだったり、おばあちゃんだったりが向こう岸にいて手を振ってるんだよね。こっちに来ちゃダメって」
「そういう話もあります。臨死体験というやつですね。ここからは向こう岸なんて見えませんし、僕らは臨死や瀕死どころかはっきりと死んでいるわけですが」
死んだ自分たちがこの世ならざる世界に来てしまっているわけだから、伝承の三途の川が実在してもおかしくない。
「三途の川にある中洲なのか島なのか。もしかしたら埋め立て地。死者が生き返りの権利を求めて戦い合う場所としてはふさわしいと思いません?」
「ううん? そんな気もするかな」
モモセが言った。
ヒョウコもエイチの言う通りなら、たしかに生還権争奪戦の舞台として、それ以上にふさわしい場所はないと思うけど。モモセのようにお気楽なリアクションを取る気にはなれない。
三途の川から連想される言葉の数々ゆえに。
極楽。賽の河原の石積み。鬼。そしてーー。
身震いしてしまう。
この川の向こうに待っているものは果たして。
それを考えると。
「アナタたち、怖くないの?」
うかつにも口に出してしまう。
「怖い? もう死んじゃっているのに?」
これ以上何か恐れるものなんてあるの? とでも言いたげなモモセ。
「地獄」
ホウジョウがぼそりと呟いた言葉にビクッと体が反応してしまう。
そう。これが本当に三途の川なら地獄も極楽も実在することになる。
「カサイさんは自分が地獄に落ちるかもって思って、それで怯えているんじゃないの? だから生き返りたくって必死なんじゃないの?」
それまでほとんど黙っていたホウジョウが、感情のこもらない、抑揚のない話し方で、淡々と訊いてくる。
「え? そうなの?」
モモセが驚きの声を上げる。
「身に覚えがあるの? 地獄に落とされるかもしれないと思うようなことが。一体何をしたの?」
ホウジョウが立て続けに聞く。
「そんなのあるわけないでしょ」
ヒョウコはホウジョウからプイッと顔を背けた。
実際、地獄に落とされるような悪さをした覚えはない。
そりゃ、素行がいい方とは言えなかったけど。善良と言えたかどうかもわからない。
地獄行きが当然というほどのことは断じてやっていない。
でも、地獄の獄卒や閻魔様が実在したとして、どういう基準で人を裁くかなんて分かったものじゃない。地獄の罪の基準が厳しいものだったとしたらーーもしかしてーー。
そう思うと不安で仕方がなくなる。
そもそもの話、地獄というものが怖くてたまらないのだ。
小さな時に読んだ、地獄の出てくる絵本がトラウマなのだ。
ホウジョウはそれ以上追求してこなかった。
セトとモモセは川に近づいていく。
ヒョウコもそれに続く。不気味だけど神秘的にも思える灰色の川をもう少し近くで見たくなってしまったのだ。
足場が悪い中、歩きやすそうなところを選んで進む。
足首にざらざらとした感触を覚えた。
視線を足下にやる。
茶色いロープの先端で作ったらしい輪っかに、ヒョウコの足首がはまっていた。
砂利をかけて隠されていたらしい。
ロープが伸びていると思われる先へと視線を走らせる。
ガタイのいい茶髪の少年がロープを握っていた。横にある大きな岩の陰に隠れていたのだろう。
ヒョウコの体が引きずられ出した。
「ちょ、ちょっと!?」
焦った声が出る。
「ヒョウコさん!?」というモモセの驚きの声と、
「ホウジョウサさん!?」というエイチの動揺する声が聞こえたが、気にしていられなかった。
ガタイのいい少年がロープを手繰り寄せている?
その様子はないし、腕の力で引っ張っている勢いではない。
ロープそのものが急速に縮んでいるのだ。結果として、ヒョウコの体が引きずられている。
踏ん張っても止まらない。
ロープの少年が手にするロープの先には硬そうな鉤爪がついている。
ヒョウコを引き寄せてあれで殴るつもりなのか。
「この!」
ヒョウコは大きく息を吸い込んだ。
引き寄せられるなら、カウンターで火炎を吹きかけてやる! ロープの少年が何かを自分にしてくる前に焼き尽くせばいい!
しかし、ヒョウコの息を吸い込む予備動作から、ロープの少年はなんらかの攻撃が来ると瞬時に判断したのか。あるいは、ヒョウコとぶつかるのを避けるために、最初からそうするつもりだったのか。ヒョウコが口をすぼめて、息を吐こうとした時には身を翻していた。
ヒョウコの吹き出した火炎は、少年の肩辺りを軽く炙る程度に留まった。
ヒョウコは勢いそのまま、ロープの少年の横を通り過ぎる形になった。
慣性の法則で勢いは残っている。
ヒョウコの足首からロープで圧迫されるような感触が消えた。靴底ごしの砂利の感触も。
ヒョウコは足元を見て、ロープが消えていることと、自分が川面に投げ出されていることに気がついた。
強気な表情から一変、ヒョウコはキョトンとした顔になる。
この後、自分の身に何が起きるのかなんて考えるまでもなかった。その先の結果、結末も。
え? アタシこれで終わり?
そんな! 頑張ったのに!
ヒョウコの体は川へと飛び込んだ。
ぼちゃん! という大きな音と水柱が上がる。
川の中へ沈んでいったヒョウコが浮かび上がることはなかった。
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