第2話 ご近所さん?


 帰り支度、といってもほぼ教科書は置き勉状態なので、軽いリュックを背負うだけ。

 田舎の公立高校は、制服と髪の毛以外は割とゆるい。カバンは結構自由で、薄っすらメイクぐらいは気づかないフリをしてくれるし(さすがにピアスはダメだけど)、スマホは授業の間だけ教室後ろのロッカーに入れておけばオーケーだ。休み時間や放課後は触り放題なので、女子たちは校内のあちこちで何かを撮ったり、お互いの画面を覗き込んで笑ったりしている。

 

 彼女たちのカメラに、僕のような存在は絶対に写ってはならないので、時折身を低くして廊下を歩く。壁に背中を付けてレンズを避けることもある。軽い忍者気分だ。

 前を歩く橋本先生は「SNSに載せるなよー」と一応言っておいたぞ的なニュアンスで周囲に声を掛けながら、さくさく歩いていく。

 

 職員室の中は、ホームルームが終わってすぐということもあって、先生たちがたくさん居た。

 別に何も悪いことはしていないけれど、できれば居たくないと思ってしまうのはなぜだろう。


「あー、矢坂。呼んだのはだな、頼みがあって……」

「はい」


 橋本先生の手元を何の気なしに見ていると、左手薬指の指輪に目が行った。ものすごくシンプルなデザインの銀色が、根元のあたりに食い込んでいる。痛くないのかな、と考えている内に、その手の下にガサガサとプリントが溜まっていく。見覚えがある。修学旅行積立金のお知らせ、今月の学校行事一覧、進路指導希望票などなど結構大事な書類だ。


(――まさか)


「個人情報保護うんぬんあるけどな。校長先生とも話して、近所の矢坂に協力してもらうのはどうかと」

「ええとつまり……?」

「実は天乃の家と矢坂の家がものすごく近くて」

「はあ」

「帰るついでに、天乃の分のプリントをポストに入れてくれるだけでいいんだ」

「……」

 

(はいはい予想通り。なんで僕? よりにもよって僕? でもきっと僕が断ったら姫川さん家にいっちゃう気がする)


 姫川、というのは僕の近所に住む同級生の女の子だ。姫川あやめという古風な名前がぴったりな姫川神社の一人娘で、小さなころから巫女さんバイトをしている。地域の皆さんに顔をよく知られているのが、嫌すぎて仕方がないお年頃だ。

 

 もしこの件が姫川さんに行ったら――なんで断った? どうせ家でネトゲ三昧の根暗コミュ障でしょ? プリントをポストに入れるぐらいやったらどう? って雪女みたいな顔で責められるに決まってる。うん。それが一番怖い――ここまでの思考は、二秒。悲しいかな僕は、脳内損得勘定だけには自信がある。

 

「……わかりました」

「ああよかった! 矢坂がダメなら姫川に頼まにゃならんとこだった」


(ほらね!)


「ただ、僕も寄れない時もあるでしょうし。プリントなくしたとかの責任は……」

「いい、いい」


 へにょりと橋本先生の眉尻が下がった。


「俺が行ければいいんだけどな」

「お子さんまだ小さいですもんね。大変ですよね」

「矢坂は優しいなあ」

 

 橋本先生のお子さんには持病があって、市で一番大きな病院に入院している。

 そんな話もすぐ回るのが、田舎のよくないところだ。


「すまんなあ。できる限りで良いから」

「はい」

「んじゃ早速今日の分な。天乃の家、マークしておいたから」


 グー〇ルマップを印刷したものに、ピンクの蛍光ペンで丸が書いてあった。確かに僕の家の裏を、少し行ったところだ。ちなみにその路地を西側に行くと小高い山にぶち当たり、その上に姫川神社がある。

 手には溜まったプリントが五枚ほど。クリアファイルが欲しかったけれど、予備がないと言われ、代わりに高校の封筒をもらってそれに入れた。

 

「ポストに入れるだけ、やっときます」

「おう! 頼んだ!」


 ぱん! と拝むように体の前で手のひらを合わせる橋本先生に、僕は軽くお辞儀をする。周囲の先生たちからもホッと安堵したような空気が流れたのが、なぜか気になった。


   †


 九月の残暑の中、自転車を漕いで家に帰る。八月ほどではないけれど、まだ気温は三十度ほどあるので、普通に汗をかく。それでも海辺の道を走る時は、風が涼しい分いくらかマシだ。


 高校からゆるい坂道を下りて、海辺を走って、少し山側に入る。あとは住宅街を淡々と走ると、僕の家が見えてくる。何の変哲もない一軒家は、地元の工務店が建売に出していたのを、役所勤めの父が三十五年ローンで買った。母は魚市場でパートをしているという、本当にごくごく普通の家庭である。


 両親も僕も、普通だ。ただし田舎では珍しい一人っ子なので、母はずいぶん肩身の狭い思いをしているらしい。産後の体調が悪すぎて二人目を諦めた母は、僕が小学校高学年になった時にようやく働き始めることができたのは良いものの、パート先で「二人目は?」と根掘り葉掘り聞かれて、近所中が僕が一人っ子だという理由を知っている。

 

 産まなきゃもったいないとか、今からでもギリギリ産めるだとか。

 

 朝の短い時間のパートだけでもしんどそうな母を見てから言って欲しい、と僕は思うが、当然周りに言うことなんてない。

 

 そんな僕の家は、平和だ。

 小さな庭がある二階建ての家で、夫婦喧嘩なんてカレーが三日続くのはどうかとか、犬を飼う飼わないとかいう些細なことでしか起きないし、学校には自転車で通える。

 父は公務員で、毎日淡々と同じサイクルで時間が過ぎていく。

 近所の噂話なんて、そんな日常にいろどりを添えるためのスパイスみたいなものだよな、と僕はやり過ごしている。


 自転車のハンドルをいつもと違う方向に切って、家の裏の道を走り、トワの家を探す。地図のマークと、今見えている風景とを頭の中で照らし合わせると、すぐに分かった。

 

 コンクリートのブロック塀に囲まれた、瓦屋根の古い平屋建て一軒家。敷地は広くて縁側があり、窓はぴったりと閉められている。内側はカーテンではなくて障子で、いかにも昭和レトロな家だ。前を通ったことはあったけれど表札がないし、家人も見たことがないので、今までトワの家とは知らなかった。

 

 僕はとりあえず自転車から降りて、門扉の前に水平になるように自転車のスタンドを立てる。それから、今時珍しい、モニターのない音だけのインターフォンをかちっと押してみた。

 

「?」


 ピンポンが鳴ったかどうか、ここからは分からない。

 胸の高さの鉄の門扉から、家の中を覗くようにつま先立ちで見てみるけれど、人の気配はない。よく見ると、庭は雑草が生えて少し荒れている。あまり手入れをしていないようだ。


「留守かなあ」

 

 せめて初回だけでも、僕がプリントを届けるよと伝えられれば良かったけれど、仕方がない。

 ポストに封筒を入れておこうと背中からリュックを下ろそうとしたら、何かが聞こえた。


「ん?」

 

 ほんのかすかだけれど、胸騒ぎがする。

 無視できない、ざわざわした不吉な予感だ。

 

「……っ」


 僕は思い切って、鉄の門扉に手を掛け、押してみる――ぎい、と開いた。

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