【短編小説】消えた顔
望月ゆい
消えた顔
顔が消えた。
神谷美雨は女優だった。実力があり、若く、とても美しかった。美雨にとって生まれた時から当然のようにそこにあるものだった。
「『外見に頼らない価値』なんて、美しい神谷さんだから言えるんじゃありませんか?」
同年代の、はっきり言ってとても地味な女性が美雨に質問する。
「『見た目がすべてじゃない』って、見た目が評価されてきた人しか言えないんですよ」
質問というより、ほとんど非難だった。しかし、美雨はプロだ。
「もちろん見た目で得をすることはあります。昨日もパン屋さんで二つおまけしてもらいました」
美雨は笑顔を崩さない。周りのスタッフが笑う。女性の表情は変わらない。
「とはいえ、努力や想いがあってこそ、人は輝きます。私も常にそうあり続けたいです」
美雨は締めくくる。インタビュアーの女性は口をきつく結んでいる。そういう振る舞いが印象を決めるのに、と心の中でつぶやく。見た目に不満があるなら、努力の仕方はある。笑顔だって、服装だって。努力もしないで人を責めるのは違うと、美雨は思う。
インタビュアーの女性は囁くような声で挨拶をし、去って行った。
*****
そして――その美雨の顔が、消えた。
毎年ひとり、世界中の誰かの顔が消える。いつから始まったかわからないこの世界のルールだ。そして一年経てば顔は戻る。
当たり前のこととして受け入れていたが、まさか自分の顔が消えるとは思ってもいなかった。鏡に映るのは、なめらかな皮膚の面だった。目も鼻も口も、何もない。ただの、のっぺらぼうだ。
しかし美雨はそれほど落ち込まなかった。たしかに一年仕事はできないだろう。他は何も変わらない。だって、私は私だものと。
美雨は事情を説明するために事務所に行くことにした。鼻もないのでサングラスはかけられない。仕方ないので帽子をかぶり、マスクをする。
パシャ。
スマホのシャッター音だ。いつものはずなのに、何かが違う。スマホを持つ人の表情が、ちがう。
いつもの称賛し、憧れ、喜びに満ちた顔はない。そこにあるのは嘲笑だった。
パシャ。
パシャ、パシャパシャ、パシャパシャパシャ。
みんなが美雨を見ている。見下している。美雨はなるべく目立たないように顔を伏せる。しかし、耳はふさげない。
「今年の顔なしだ」
「おれ、初めてみた!」
「マジでキモい……わたし絶対無理、あんなの」
美雨は声を振り切るように走った。
*****
「…では一年間お休みということで」
マネージャーは手元を見たまま言う。こちらを見ることはない。打合せ中、ふいに何度か顔をあげたが、目が合うことはなかった。当然だ。今の美雨には目が存在しない。
「一年なんてあっという間ですよ」
白々しさを覚える励ましだった。
帰りはマネージャーが車で送ってくれるという。美雨は少しホッとした。すれ違う人々の好奇や軽蔑に満ちた視線と声に晒されずにすむ。車の中で美雨はSNSを開いた。トレンド一位は「顔なし」だった。
投稿を確認する。ありとあらゆる罵詈雑言が飛び交っている。日本語以外の書き込みも見られる。調べるまでもない。怒りと嘲笑と、侮辱に満ちていた内容に決まっていた。
「顔なし」は毎年こうだ。徹底的に貶められる。美雨も今まで考えたことはなかった。過去の顔なしにもそれまでの人生があったことを、これっぽっちも考えたことはない。
*****
「…こちらにお住まいの方ですか?」
マンションの前で管理人に声をかけられた。いつもは朗らかに挨拶を交わす間柄だが、今は強張った顔をしている。
「…今すぐ退去してください」
「えっ」
「『顔なし』に権利はありません。あんたがいると他の住人の迷惑だ」
管理人は語気を強める。だが、決して顔は見ない。強引に家に戻るほど美雨は強く出ることはできなかった。
美雨は肩を落とし、ため息をついた。美雨は恋人を頼ることにした。付き合い始めて一年。喧嘩もせず、毎日愛情にあふれたメッセージをやり取りしてきた。
彼は私の中身を見てくれる。そう確信していた。
美雨はタクシーを探した。しかし、タクシーは一台も止まらない。止まりかけても、美雨の顔が見える距離になると、去っていくのだった。五台見送って美雨はあきらめた。彼の家までは二〇分程度だ。そう遠くない。
人に見られたくないと、美雨は強く思った。生まれて初めての感情だった。みんなに見つめられることが当たり前だった。自分が認められていると誇らしかった。だが、この顔はダメだ。美雨は人気の少ない道を選んで歩き始めた。
*****
「湊!」
タイミングよく美雨はマンションに入ろうとする恋人に出会った。しかし湊の表情は険しい。
「…美雨?」
「そうだよ……私、美雨」
湊は急いでマンションの部屋に美雨を隠すように連れていく。美雨はやっと呼吸ができる気がした。
「…顔なしか」
湊は重々しくつぶやく。だが、すぐにいつもの笑顔を浮かべ美雨を抱きしめた。
「ここにいろ。一緒に暮らそう」
湊の言葉がじんわり胸に広がる。涙が出そうな気持ちだが、顔なしの美雨は泣くこともできない。
*****
「別れよう」
唐突な言葉だった。湊のマンションに住み始めて1ヶ月が経ったところだった。
「『顔なし』なんか、付き合えない」
湊の言葉を信じることができなかった。美雨の心が、さっと冷めていく。身体がこわばる。言葉が出ない。
「私のこと、好きじゃなかったの」
「美雨は好きだ。でもそれは顔を含めての話だ。顔なしを美雨だと認めることはできない」
顔。顔。顔。
美雨は現実を突きつけられる。顔がなければ私は私ではないのだ、と。顔がなくても内面の美しさがある、と美雨は信じてきた。でも内面を見る人は美雨の周りにはいなかった。
*****
深夜、美雨は公園の人気のない東屋に隠れていた。夏の夜なのが幸いだ。しかし、顔なしは一年続く。冬はどうすればいいだろう。夏なのに背筋が寒くなる。指先が冷たい。
がさっと草を踏む音が聞こえた。一人ではないようだ。しかも、こっちに近づいてくる。美雨は身体を硬くする。声が聞こえてきた。
「本当にいた『顔なし』じゃん」
「今回の『顔なし』はあの神谷美雨らしい。SNSで晒されてた」
「うわ!おれ、めっちゃ好き」
三人の若い男だ。美雨は声を上げることもできない。これから何が起きるか。過去の顔なしの話から想像がついてしまう。
「でも、美雨の顔ファンなんだよな」
顔なしなんて残念、と続ける。いや、と美雨は声にならない声で抵抗する。身体が思うように動かない。
「身体はやっぱ抜群じゃん。誰からやる?」
*****
顔の消えたあの朝から、ようやく一年だ。美雨は指折り数えて生き延びてきた。
顔なしの生活は言葉にできないほど過酷だった。何度、命を断とうと考えたかわからない。美雨を踏みとどまらせていたのは、一年経てば戻るという世界のルールだった。
日付が変われば顔が戻る。あと三分で地獄が終わる。美雨は公園のトイレに入り、鏡の前に立つ。映るのは何もない顔だ。この顔を見るのも最後だ。カラカラと空き缶が転がる音がして、美雨はそちらに視線を移す。
ふいっと顔をあげて鏡を見た。顔に凹凸がある。顔なしが終わった。美雨はしばらく、鏡に映るそれを見つめていた。そこにいたのは、かつてスクリーンで輝いていた神谷美雨ではなかった。
頬はこけ、目は虚ろに沈んでいる。唇は青白く、笑顔を失っていた。
「……これが、私?」
あれほど欲しかった顔には、もうなかった。
【短編小説】消えた顔 望月ゆい @takana7
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます