第2話 静寂の沼と穢れの残滓
蜻蛉沼までの道程は、ムカゴにとって驚きの連続だった。ミズブキは約束通り、道中ほとんど一人で喋り続けていた。街道沿いの名物の話、昔の武勇伝──そのほとんどは眉唾ものだったが──、果ては昨夜見た夢の話まで。騒々しいはずのその声は、不思議とムカゴの心を乱さなかった。それはまるで、彼女の周りに見えない壁を作り、他の人間たちの視線や気配から守ってくれる結界のようでもあった。
「そういやムカゴは、穢れって見たことあるか?」
不意に、ミズブキが真面目な口調で尋ねた。ムカゴは小さく首を横に振る。村は平和で、濃い穢れが発生するような出来事は久しくなかった。
「そっか。穢れってのは、目に見えるもんじゃない。だが、確かにそこにある。空気が重くなって、嫌な匂いがして、草木が妙な枯れ方をする。何より、妖怪たちが怯えたり、逆に凶暴になったりするんだ」
ミズブキは、以前討伐に加わったという化獣の話をした。元は心優しい木こりだった男が、山で発生した強い穢れに当てられ、家族すら認識できない獣に成り果てたという、痛ましい話だった。
「だから、レンゲ団がやってることは本当に危うい。妖怪を無理やり捕らえれば、そこには必ず強い穢れが生まれる。あいつらは、自分たちの目的のために、化獣を増やしているようなもんだ」
その言葉は、ムカゴの胸に重くのしかかった。守りたいのは、か弱い妖怪たちだけではない。穢れによって、悲しい化獣が生まれることも止めなければならない。ぼんやりとだが、彼女の中で旅の目的が形を帯び始めていた。
二日ほど歩き続け、ようやく蜻蛉沼のほとりにたどり着いた。そこは、聞いていた話とは全く違う場所だった。本来ならば、様々な水生妖怪たちが跳ねる水音や、翅の音で賑やかなはずの沼は、不気味なほどに静まり返っていた。湖面は鏡のように滑らかだが、その水は僅かに白く濁り、澱んだ空気が漂っている。
「……ひどいな。こりゃあ、やられた後だ」
ミズブキが苦々しく吐き捨てる。
沼の近くで細々と漁を営む老人に話を聞くと、やはり五日ほど前に、派手な蓮華の紋様を掲げた一団がやってきたのだという。
「見たこともねえ術を使う連中だった。大きな網みてえな光で、沼の妖怪をごっそり連れてっちまっただよ。逆らう奴らは、容赦なく打ちのめして…」
老人は恐怖に身を震わせる。レンゲ団が去った後、沼からは妖怪たちの気配が消え、時折、水面が苦しむように泡立つだけになったという。
──その時だった。
「―――!!」
沼の中心近くで、水面が激しく揺れ動いた。何かが水中で暴れている。それは苦痛に満ちた、獣の呻き声にも似ていた。
「穢れに当てられた奴が、化獣になりかけてるんだ!」
ミズブキが腰に下げた刀に手をかける。だが、相手は沼の底。刀を振るう間合いではない。
どうすれば。ミズブキが歯噛みした、その瞬間。ムカゴが、すっと前に出た。彼女は水際まで歩み寄ると、その場に膝をつき、祈るように両手を水面にかざす。肩にいた糸繰が、主の意志を汲み取ってすばやく動き、一本の銀色の糸を水面へと垂らした。
糸が水に触れると、まるで電気が走ったかのように、暴れていた何かの動きがぴたりと止まる。
ムカゴは目を閉じ、意識を集中させた。言葉ではない。思いを、心を、蜘蛛の糸を通じて送る。
『苦しいの?』
『何があったの?』
『もう、大丈夫だから』
彼女の心象風景に、巨大な鯰のような妖怪の姿が浮かんだ。その体には黒い靄のような穢れがまとわりつき、意識を蝕んでいる。レンゲ団に仲間を奪われ、抵抗した際に負った傷から穢れが入り込んだのだ。
ムカゴは、ただひたすらに呼びかけた。温かい光で包み込むように、その心を慰撫する。彼女自身の穢れのない純粋な精神が、蜘蛛の糸を伝い、少しずつ鯰の妖怪を蝕む穢れを中和していく。それは祓いというより、浄化に近い行為だった。
やがて、水中の震えが完全に収まった。黒い靄が薄れ、意識を取り戻した鯰の妖怪が、ゆっくりと水面にその巨体の一部を現す。感謝を伝えるように、ムカゴの足元にそっと何かを差し出した。
それは、鮮やかな紅色の布切れだった。布には、金糸で三枚の蓮華の花弁をかたどった紋様が刺繍されている。
「……レンゲ団の紋章だ」
ミズブキが息を呑んでそれを見つめる。そして、彼は改めて隣の少女を見た。俯きがちで、か弱いだけだと思っていた少女が、自分には到底できないやり方で、化獣になりかけた妖怪を鎮めてみせた。その小さな背中が、今はとても大きく見えた。
「ムカゴ、君は……」
ミズブキが何かを言いかける前に、ムカゴは布切れを拾い上げ、彼に差し出した。その瞳は、もう俯いてはいなかった。
「……次へ」
短く、しかしはっきりとした意志のこもった声。ミズブキは驚きで一瞬目を見開いたが、すぐに力強く頷いた。
「ああ、そうだな。行こう、次へ。こいつらがどこから来て、どこへ向かったのか、必ず突き止めてやる」
静寂を取り戻した蜻蛉沼を背に、二人は再び歩き出す。手にした紋章だけが、次なる道のりを示す唯一の手がかりだった。ムカゴの心には、確かな手応えと、守るべきもののための静かな闘志が芽生え始めていた。
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