虫愛づる少女と禊ぎの糸
火之元 ノヒト
第1話 籠の少女と蜘蛛の糸
ムカゴの世界は、六畳ほどの自室で完結していた。
長く伸ばした黒髪は、彼女の貌を隠す帳だ。その隙間から覗く瞳は、人間ではなく、もっと小さく、か弱いものたちに向けられていた。部屋の隅で、手のひらに乗せた銀色の蜘蛛の妖怪「
この国――
穢れ。それは、この世界の理を歪ませる澱のようなもの。妖怪は穢れを生み、また、熟練した一部の妖怪はそれを祓うこともできる。しかし、濃い穢れに長く晒された妖怪や人間は、心と体を蝕まれ、やがて理性を失った異形の「
ムカゴは、人が苦手だった。人の発する感情の機微、その視線、言葉の裏。それら全てが、彼女には濃すぎる穢れのように感じられた。だから部屋に籠り、穢れを生むこともほとんどない、虫の妖怪たちとだけ心を通わせていた。
そんな娘の姿に、両親は胸を痛めていた。今日も障子の向こうから、心配そうな声が聞こえてくる。
「あの子ももう十五だというのに…」
「博士に相談してみよう。何か、良い知恵を授けてくださるかもしれん」
数日後、ムカゴの前に、父に連れられて一人の男が現れた。村で物知りの博士として知られる、好々爺然とした老人だった。
「ムカゴ、と申したな」
博士は帳のような前髪の奥を、探るように見つめた。ムカゴは黙って俯き、膝の上で指を組む。その指に、糸繰がそっと寄り添った。
「お主のその力、籠の中だけで遊ばせておくには惜しい」
「……力?」
「虫の妖怪と心を通わせる力じゃ。それはな、とても稀有で、尊いものなのじゃよ」
博士は、最近出回っている不穏な噂について語り始めた。「レンゲ団」と名乗る謎の集団が、各地で珍しい妖怪を買い集めたり、時には力づくで奪ったりしていること。その目的は一切が謎に包まれているという。
「このままでは、お主のような力を持つ者や、お主が愛でるようなか弱き妖怪たちに、いずれ災いが及ぶかもしれん」
博士の言葉は、静かに、しかし確かにムカゴの心に染み込んだ。自分のためではない。この小さな、か弱い友人たちのために。
「旅に出てみないか、ムカゴ。外の世界を見て、その力を試してみるのじゃ。案ずるな、一人ではない。頼もしい道連れを用意してある」
博士の言葉に、ムカゴはゆっくりと顔を上げた。
旅立ちの朝、ムカゴは鏡の前に座っていた。昨日までの自分と決別するように、長く煩わしかった前髪をかき上げ、黒髪を後ろで一つに束ねる。初めて露わになった額と、そこに宿る強い意志を秘めた瞳。まだ、その貌を人前に晒すことには慣れなかったが、不思議と心は凪いでいた。
支度を終えて玄関へ向かうと、そこには一人の男が立っていた。歳の頃は三十手前だろうか。日に焼けた肌に、明るい茶色の髪。人好きのする笑みを浮かべて、ムカゴの両親と何事か楽しげに話している。
「やあ、君がムカゴだね! 俺はミズブキ。博士から話は聞いてるよ。よろしくな!」
太陽のような男だった。ムカゴが苦手とする、人間の典型。彼女は小さく頷くだけで、また俯いてしまう。そんなムカゴの様子を気にもせず、ミズブキは豪快に笑った。
「ははは、なるほど。聞いてた通りの子だ。大丈夫、無理に喋らなくていい。道中、退屈しないように俺がずっと喋ってるからさ!」
そのあまりの屈託のなさに、ムカゴは少しだけ面食らった。父と母は、心配そうな、それでいてどこか安堵したような複雑な表情で娘を見送る。
「ミズブキさん、娘を、よろしくお願いいたします」
「お任せください! 必ず無事にお返しします!」
こうして、寡黙な少女と饒舌な男の、奇妙な二人旅が始まった。
村を出て街道を歩き始めると、そこはムカゴの知らない世界で満ちていた。荷を引く巨大な蝦蟇の妖怪の背に揺られる商人。道端の祠で、旅人の安全を祈願して小さな火を灯す一つ目の妖怪。人々は当たり前のように彼らの横を通り過ぎ、時には言葉を交わす。妖怪と人間が織りなす日常の風景。部屋の隅で見ていた世界とは、何もかもが違っていた。
「どうだ、ムカゴ。思ったより悪い世界でもないだろ?」
ミズブキが隣を歩きながら問いかける。ムカゴは答えず、ただ、道端で小さな羽虫の妖怪と戯れている子供の姿をじっと見つめていた。その表情は、以前よりも少しだけ和らいでいるように見えた。
「さて、最初の目的地だが…」
ミズブキが地図を広げる。
「まずは隣町の『
ムカゴはこくりと頷いた。彼女の肩で、旅の間もずっと寄り添っている蜘蛛の糸繰が、八つの足を小さく動かした。まるで、これからの冒険に胸を躍らせているかのように。
陽光の下に晒されたムカゴの黒い瞳が、目指すべき道をまっすぐに見据えていた。守るべきものたちのために、少女は今、世界へと足を踏み出したのだ。
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