十四話 血の狩人、瘴気の森に放たれる

 ――瘴気の森の夜は、もう森と呼べるものではなかった。

 腐狼の遠吠えと共に根の奥から溢れた血の胞子は、枝葉を蝕み、腐敗した木々を仄赤く染めている。


 血の檻が裂けたはずの討伐隊の残党は、わずかに生き延びた兵が息を潜めて外縁の断崖に身を寄せていた。


 「……森が、生きてやがる……。」


 副将グレンは砕けた剣を抱え、息を殺した。

 土の上に響く、湿った足音――


 赤黒い霧の奥から現れたのは、一匹の腐狼を従えた女の影だった。



 レオナ――

 かつて“白銀の誓い”と呼ばれた討伐隊の隊長。


 だが今、その双眸は腐狼と同じ赤の光を湛え、

 首筋には獣姫に刻まれた咬印が脈打っている。


 「……見つけた……。」


 唇から漏れた声は人間のものだった。

 だがその奥には、獣姫の血が刻んだ咆哮の影が潜んでいる。


 グレンは血の気の失せた顔で仲間を振り返った。


 「退け――! 森の外へ!

  レオナ様はもう……俺たちの隊長じゃない……!」


 だが霧の奥から腐狼が吠えた瞬間、

 レオナの足元の瘴気が裂け、地面から血の根が鞭のように伸びた。


 仲間の一人が悲鳴をあげるよりも早く、

 根が足を絡め取り、叩き伏せた。



 「やめ……やめろ……レオナ様……!」


 血の根に縛られた兵士が、縋るように名を呼ぶ。


 レオナは腐狼に視線を向け、

 振り上げた剣をゆっくりと止めた。


 『――討て。赦すな。』


 遠く玉座の奥から、血の王の声が根を伝って響く。


 だが、その声にかぶさるように、

 レオナの奥底に“かつての自分”の声が微かに蘇った。


 (……赦すな……?

  いや……私は……何を……)


 剣を握る手が震える。

 獣姫の血が咬印を通じて脳髄を焼き、思考を塗り潰す。


 腐狼が首筋を噛み、赤い霧の中で咆哮を上げた。



 その奥――

 血の根の中枢、朽ちた玉座の根の陰に、獣姫メリアが膝を抱えて座っていた。


 自分が眷属に変えた女が、かつての仲間を討てない。


 それはメリア自身の奥底に、まだ“人の涙”が残っている証だった。


 「……レオナ……あなたも……檻の中に来てくれたのに……。」


 喉の奥を絞り出すような笑いが、森の根の奥に響く。


 『赦しなんて……要らない……

  私たちは赦されない……

  だから……だから……』



 一方、外縁で縋り合う残党の兵たちは、

 血の根を断ち切ろうと火薬を詰め、必死に起爆の印を刻んだ。


 「レオナ様……

  お前が俺たちを……!

  それでも……生きるしかない……!」


 レオナの剣が閃き、腐狼が火薬の袋に飛びかかった。


 湿った爆薬が血を吸い、瘴気の根を赤く濡らす。


 かつての隊長と討伐隊の残党――

 血の檻の裂け目は、どこまでも人と獣の咆哮を繰り返す。



 王都の玉座で、血の王アルスはゆるく目を閉じた。


 『獣姫よ……

  お前の孤独は美しい……

  だが眷属の心が揺らぐなら――

  次は誰を供物に捧げる……?』


 獣姫の胸奥、血に沈んだ“少女の声”が、

 人の赦しをまだ求めて震えている。



 赤黒い瘴気の森は、遠征軍の最後の松明を覆い隠し、

 討伐隊の血と、花嫁の涙を祝祭に変えていく。


 赦しも、誓いも、愛すらも――

 この森ではすべて、血の檻に取り込まれていく。

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