三話 瘴気の森の影
王都イグナリオ――
血の王の玉座が築かれて以来、その外縁は《瘴気の森》と呼ばれる呪われた領域と化していた。
黒々と枯れ果てた木々はうねり、赤黒い靄が足元から立ち上る。
草は一本も生えず、踏みしめた土の下には何かがうごめいているような感触があった。
その森の前線に、ノルテア連邦の遠征軍が静かに列を成していた。
鬨の声はない。ただ冷えた空気を震わせるのは、金属鎧が擦れる微かな音と兵士たちの荒い呼吸だけだ。
「……瘴気の森に入ったら、二度と戻れないかもしれないってのに。」
隊列の後方で、若い槍兵がぼそりと呟く。
隣の弓兵が肩を小突いた。
「黙れ、声に出すな。あの人に聞かれたら首が飛ぶ。」
遠征軍の前列中央、赤い外套を翻し、軍馬を駆る女将軍の姿があった。
レオナ・アステール――
血の王に父を奪われた女騎士。若くして千の部隊を指揮し、今やこの奪還遠征の総大将だ。
「……気を抜くな。瘴気は人の心を喰らう。」
レオナは馬上から冷ややかに言い放つと、前線を見渡す。
霧の向こうに、無数の黒い木々がうねるように立ち並び、森の奥で何かが蠢いているのが見えた。
「将軍殿。
副将のグレンが馬を寄せて報告する。
レオナは頷き、視線を遠くに走らせた。
森の縁に、鋼の鎧を纏った十数名の兵がひっそりと息を潜めていた。
《銀の熊》――
迷宮潜入と暗殺を専門とする傭兵団だ。
この瘴気の森を潜り抜け、王都の外郭防壁の弱点を探り、迷宮化の構造を暴く。それが彼らに課せられた任務だった。
先遣隊の隊長ライオネルは、大柄で髭を蓄えた初老の男だ。
目の奥に深い闇を抱えたその瞳は、何人もの仲間をこの森で失った男のものだった。
彼は隊員たちに短く言った。
「……潜るぞ。戻る場所があると思うな。」
若い隊員のひとりが怯えたように顔を歪める。
「でも隊長、あの瘴気……噂じゃ、心まで……」
「黙れ。」
ライオネルは言葉を切り捨てると、静かに刃を抜く。
赤黒い霧の中、刃先が怪しく光を弾いた。
後方の馬上、レオナは静かにその光景を見つめていた。
かつての自分も、父の背に隠れてこの森を眺めたことがある。
あの夜――父は王都を護るため、門を閉じ、己を血の王の供物にした。
あの時に奪われた誇りと、取り戻せぬ家族の温もりが、今も胸を締め付ける。
「……銀の熊に全てを託すしかないのか。」
レオナの手袋の下で、白い指が小さく震えていた。
気付かれぬように手綱を握り直すと、瞳に冷たい炎が宿った。
「進め。《銀の熊》、潜入を開始せよ!」
レオナの声が、瘴気の森に低く響いた。
《銀の熊》の隊員たちは、血の王の眷属に見つからぬよう、迷路のような木立の間を抜けていく。
足元はぬかるみ、靴の裏に絡みつく瘴気の泥がじわじわと熱を奪った。
時折、誰かが小枝を踏み折る音が、やけに大きく森に木霊する。
「……おい、何か聞こえないか……?」
後列の斥候が囁く。
木々の間で何かが爪を引きずる音。
息の詰まるような血の匂い。
隊長ライオネルは手を上げて止まった。
「伏せろ。」
全員が一斉に地面に身を伏せた。
暗闇の向こうで、腐った狼のような影が何体も木の幹に身体を擦り付けていた。
――眷属だ。
毛皮は瘴気の瘡で爛れ、牙は血の霧を纏っている。
低く唸る声が耳鳴りのように響き、隊員たちの呼吸が浅くなる。
「……通り過ぎろ……通り過ぎろ……」
ライオネルの脳裏に、過去の失敗が蘇る。
仲間が瘴気の幻覚に囚われ、味方を切り裂いた夜。
あの恐怖を二度と繰り返してはならない。
だが、腐狼の一体が突然鼻を持ち上げた。
瘴気に溶けきらない、生きた人間の匂い――
次の瞬間、唸り声と共に茂みを蹴り飛ばして襲いかかってくる。
「来たぞ! 迎撃だ!」
ライオネルの号令と同時に、森の中は混沌と化した。
腐狼が喉を裂き、鉄の刃が肉を貫く。
悲鳴が、森の深部に吸い込まれていった。
隊員の一人が仲間に縋る。
「隊長! ルートが塞がれます! 瘴気が……瘴気が!」
地面から黒い根が這い上がり、血を啜るように絡みつく。
幻覚が視界を歪め、敵味方の区別がつかなくなっていく。
ライオネルは最後の力で、瘴気の渦に呑まれかけた仲間を引きずり出した。
「進め……! せめて誰か一人でも戻って、王都の核の場所を……!」
だが、その祈りは血の咆哮にかき消された。
瘴気の奥から、白く輝く何かが姿を現す。
それは――少女の面影を残した、美しくも禍々しい“獣姫”だった。
メリアの赤い瞳が、血の色に染まる森の奥で静かに開いた。
《銀の熊》の運命は、この胎動の前に無残に喰われていくのだった。
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