第24話「交渉」
新興芸能事務所として知られるブレインランド・プロモーションは、東京港区の一等地に本社を構えている。大泉京子が実父・京太郎から社長業を引き継いた後に建てた地上8階・地下3階建ての自社ビルだった。
いつの頃からか京子社長はビルの最上階にある社長室で寝泊まりするようになり、今では完全にプライベートな空間として利用していた。そのためブレインランドの一般社員はもちろん、役員や秘書でさえも社長室への入室を許される機会は滅多になかった。
ただ、京子は月に数回だけお気に入りの男性アイドルを社長室に招き入れることがあった。社員や所属タレントの多くがそのことを知っていたが、そこで何が行われているのかについて、京子本人や男性アイドルに問いただそうとする人間はいなかった。
その夜も社長室にいた京子は、ノートPCでWebミーティングをしていた。相手は葉月里音だった。
『30年近く放置されていた施設だとは思えません。スタジオの機材は今でもそのまま使えると思います。なぜかWi-Fiもつながります』
「それは良かった。それで、あの子は大丈夫なのかしら」
『まだ1日あります。何とかします…それでは失礼します』
葉月とのミーティングを終えた京子は冷蔵庫からビール瓶を取り出し、グラスに注いで一気に飲み干した。そのままソファーに掛けて二杯目を口にしたとき、京子は自分の体が全身汗だくになっていることに気づいた。
部屋が蒸している。冷房が切れているのかもしれない。京子は億劫そうに立ち上がり、壁の空調スイッチを弄りながら首を傾げた。
このビルの空調は集中管理されているはずだった。実際、京子は細かな温度調整が必要な時以外は社長室の空調スイッチに触れることもなかった。
ビルの管理室に連絡を取ろうと京子がビジネスフォンに手を掛けると、不意に誰かが社長室のドアをノックした。
京子が腰を上げ掛けかけると、一人の男がドアを開けて部屋に入ってきた。
京子はその男の顔に見覚えがあった。
「あなた…細川さん?」
細川文雄は京子に軽く一礼をした後、部屋の外に待機させていた藤本美喜雄と羽田エリーに目配せをし、入室を促した。
「どうしたの。こんな時間に」
「お久しぶりです社長。少しお話したいことがありまして」
京子はノーメイクで上下ともハイブランドの白いジャージ姿だった。新興芸能事務所を束ねる社長の風格は感じられなかったものの、突然の訪問者を前にしても動揺した素振りは見せなかった。
「あなたたち、どうやってビルに入ってきたの? この時間ならセキュリティが掛かっているはずだけど」
細川は惚けた。
「僕もダメかなと思ったのですが、正面から普通に入れちゃいました」
細川は京子がここで寝泊まりしていることを知っていた。彼女の習慣は細川が社員だった頃から変わっていなかった。
細川は事前に前田敦士に頼み込み、ネットワーク経由でこのビルのセキュリティを解除してもらっていた。一時的にビル内の空調が止まったのはその影響だった。
京子はタバコを手に取って口に咥えた。
「思い出したわ。あなたは昔から非常識な人だった。こんな時間にアポなしで押しかけてきてまでしなければならない話って何かしら?」
「ニシユルのことです」
美喜雄は見逃さなかった。タバコを持つ京子の手が一瞬だけ震え、漂う煙の角度が少しだけ変わった。
「父があの子たちをデビューさせた後、マネージャーとして面倒を見てきたのはあなただったものね。まさかこんなことになるなんて」
細川は、悔しさのようなものに満ちた声を絞り出した。
「社長、単刀直入に聞きます。アイドルとしての夢を叶えつつあった10代の女の子たちが、なぜ自ら死を選ばなければならなかったのでしょうか」
京子はソファーに掛けながらタバコを小刻みに吸い込んだ。
「彼女たちが “西新宿ゆるふわ組は伝説になります” という例の動画を残したことは知っているわよね? だけど、私は彼女たちのあの言葉をそのまま信じることはできない。細川さんの言う通り、10代の女の子たちはそんな理由では死なない。1カ月後には彼女たちが夢見ていたドームツアーも始まるはずだったんだから」
ニシユルのドームツアーは7月頭からスタートする予定だった。本来なら今頃はツアーも終盤に差し掛かる時期だったが、6月8日の出来事を受けて全公演が中止となっていた。
「いつだったかあなたに言われた通り、私たちは彼女たちを働かせ過ぎていた。彼女たちは自分たちを縛る仕事やプレッシャーから楽になりたかったのかもしれない」
「つまり、ご自身のマネジメントに非があったことを認めると?」
京子はタバコの先を灰皿に押し付けながら頷いた。
「そうね。完全に私たち大人のマネジメントミスだった。四人の遺族への補償の話も進めているわ」
「ドームツアー中止の損害に加えて遺族への補償…ブレンランドは持ちますか?」
ツアー主催者であるブレインランドとイベント興行会社は、万が一の興行中止に備えた保険に入っていたものの、主催・協賛各社の損失金額は数億円から数十億円に上る可能性があると報道されていた。
「苦しいことは間違いないわ。それにあの子たち、ウチの稼ぎ頭だったから」
「それでも…ニシユルの肖像権や楽曲、映像コンテンツの権利さえ残っていれば何とかなるんでしょうね」
細川の言葉は、京子を明らかに不機嫌にした。
「事務所を辞めたあなたにこれ以上話せる話はないわ。さあ、帰ってちょうだい。私もそんなに暇じゃないの」
細川はデニムのポケットからSSDを取り出し、テーブルの上に置いた。
「そこにIshtarの直近1年分のログデータが入っています」
Ishtarという言葉を聞いた途端、京子の表情が固まった。
「…どういうことかしら」
「あなたたちがIshtarにやらせていたことを調べさせてもらいました」
「アレに何をやらせていたかって? 細川さん、それはあなたもよく知っているはずでしょう。それに、アレは我が社にとっての最重要機密事項なの。その子たちの前でペラペラ話すこと自体が大問題だってこと、理解しているかしら?」
京子の声が一段と低くなった。彼女の脅すような口振りには得も言われぬ迫力があった。美喜雄の体にも緊張が走った。
ただ、細川はそれでも構わず続けた。
「あなたが “アレ” と呼んでいるIshtarについて、僕も少しだけ知っています。2年前、僕は社長と葉月さんからIshtarがアイドルマネジメントに特化した人工知能であると聞かされました。それまでは単なる情報共有ツールかスケジュール管理ツールとしか思っていなかったIshtarが、ニシユルの運営や活動方針のすべてを決めていると聞き、愕然としたことを覚えています」
「それでビビってここを辞めたんでしょ? あなたは」
「…まあ、そうかもしれません。もはや自分がニシユルに関わる必要はない。Ishtarの意思を現場に反映させるだけの仕事なら自分でなくてもできる。僕はそう思ってブレインランドを辞めさせていただきました。その後、僕は岡山の実家に戻り、メディアを通してニシユルを見ていました。彼女たちはあっという間に一段も二段も上の売れっ子になっていった。正直な話、元マネージャーとしては悔しさを感じることもありました。ただ、多くの人たちに愛される存在となっていく彼女たちの活躍を見ていると、Ishtarの意思決定を運営の軸に据えた社長や葉月さんの判断は間違っていなかった、とまで思えるようになったのですが…」
細川は再びSSDを手に取って京子に指し示した。
「僕たちは直近1年分のIshtarのログデータを調べたんです。プロンプト…つまりあなたたちがIshtarにどんな命令を与え、何を欲していたのかも大体のところは理解しています」
「どうしてあなたにそんなことができるの? ハッタリもそこまでいくと清々しいわね」
「社長、前田敦士さんを知っていますか?」
京子は首をぐるぐると回している。細川の問いに答えるつもりはないようだ。
「僕たちは前田さんの協力を得てIshtarに侵入しました。あなたたちはニシユルの日々のマネジメントやメンバーのキャラクター作り以外にも、Ishtaに重要な命令を与えていましたよね」
「細川さん、何度も言わせないで。アレはブレインランドの最重要機密なの。こんなことをしたらあなたは…」
京子の言葉を遮り、細川は続けた。
「あなた方がIshtarにやらせていたのは、ニシユルが今後50年にわたって稼ぎ出す収益を最大化するための計算だった…そうですよね?」
京子は黙っていたが、彼女が右手の指で挟んでいたタバコがプルプルと震え出した。
「そもそもドームツアーなんて本気でやるつもりはなかったのでしょう? 事前に色々と調べさせてもらいましたが、今回のツアーで舞台の企画・設営を担当するはずだった会社に支払っている予算が少な過ぎます。これではセット替えはもちろん、照明演出だって碌なものは期待できないでしょう。その一方でブレインランドや興行主の皆さんが払った興行中止保険の金額はちょっと多過ぎるんですよ。レジェンド級の外タレ公演だってここまでの保険は掛けないと思います」
「細川さん、一体何が言いたいの?」
細川は、SSDを京子の眼前に近づけて静かに言った。
「社長に一つだけ教えてほしいことがあります。マイマイ…宝田舞は、今どこにいるんですか? 報道はされていませんが、もう彼女が武蔵ノ宮病院にいないことは知っています」
「なるほど、あなたたちがあの子を病院から攫ったのね。タレントの誘拐と拉致監禁、社外からの機密情報へのアクセスとデータの閲覧、そしてここへの不法侵入。細川さん、あなたタダじゃすまないわ。わかっているの?」
「おっしゃる通り、病院から彼女を連れ出したのは僕です。覚悟はできています」
京子はタバコを取り出してライターで火を付けようとしているが、指が震えてなかなか上手くいかない。
「もう一度言います。今、宝田舞がどこにいるのか教えてください。教えていただければ…このSSDはあなたに渡します。もちろん、Ishtarのことについても忘れます」
美喜雄が長い髪を振り乱して横から割り込んだ。
「細川さん、何言ってるんですか! そのSSDは重要な証拠です。ブレインランドがIshtarに何をやらせていたか…Ishtarの計算結果に従ってブレインランドがニシユルの活動を終わらせるために、ニシユルのみんなを自殺に見せかけて殺した…そのことを暴くための重要な証拠なんですよ?」
京子は美喜雄の言葉に黙っていられず、立ち上がって激昂した。
「このロン毛小僧、何言ってんのよ! 適当なこと言ってると叩き殺すわよ!」
細川は、その場を収めようと二人を制した。
「社長、落ち着いてください。藤本君も黙って僕の話を聞いてください。もういいんですよ…そんな証拠があったところで、今さら何かが明らかになったって、亡くなった四人は帰ってこないんです。でも、マイマイだけはなんとかしたい。彼女はまだ生きているんだ」
京子は息も絶え絶えな様子でソファに座り直し、細川と美喜雄を交互に睨みつけながら新しいタバコに火をつけた。
「あなた、宝田舞と会ったのよね? それならわかっていると思うけど、あの子は今、普通じゃないの」
「知っています。マイマイは記憶をなくしている。ニシユルのことも一緒に活動していたメンバーのことも覚えてない。きっと、社長や葉月さんのことも覚えていないんでしょうね。ただ、僕のことだけは覚えていてくれたんです。そのことが僕は嬉しくて…」
「…それは本当なの? あの子、あなたのことだけは覚えていたっていうの?」
美喜雄が落ち着きを取り戻した声でフォローした。
「細川さんの言っていることは本当です。私も宝田舞と会いました。確かに彼女は、自分がニシユルのメンバーであることすら忘れてしまっているようです。ただ、かつてのマネージャーである細川さんのことだけは覚えていました」
「マイマイとは半年程度しか一緒に仕事をしていないのに…どうして覚えていてくれたのか…僕にもわかりません」
京子はタバコを吹かしながら一分以上思案し、漸く口を開いた。
「細川さん、宝田舞は本当にあなたのことだけは覚えていると言うのね? いいわ。彼女がどこにいるか教えてあげる」
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