第21話「取引」

■2023年7月31日 17:00 伊豆高原/松浦邸


 伊豆高原の高台に建つ松浦亜星の邸宅に夏の夕暮れが迫っていた。

 ペットの餌を買いに出かけた羽田エリーもすでに戻ってきているはずだが、彼女が再び応接間に顔を出す気配はなかった。


 松浦亜星は氷が溶けて薄くなった麦茶を啜っている。

 藤本美喜雄は、細川文雄と松浦亜星が語った事実や推論を頭の中で整理していた。葉月里音は単なるニシユルの現場マネージャーではなく、IshtarというAIの開発に関わったエンジニアでもあった。葉月は「永遠に人々の心に残り続けるアイドル」を生み出すために、松浦が所蔵していたアイドルに関する膨大な資料をデータ化してIshtarを作った。確証こそないものの、新メンバーである宝田舞の加入にはIshtarが関与している可能性もあった。

 松浦の言う「精度の高い勘」によれば、Ishtarは自ら紡いできたニシユルの物語を完成させるべく、彼女たちのデビュー4周年記念日にあたる2023年7月31日に向けて、宝田舞に関する酷く不愉快な提案を行った疑いがあるという。そして美喜雄がさらに恐ろしいと感じたのは、松浦が宝田舞の件と絡めて6月8日の事件にも言及したことだ。


 美喜雄は恐る恐る松浦に尋ねた。

「松浦先生は6月8日の件についてもIshtarが絡んでいると考えているんですね。彼女たちは集団自殺をしたのではなく、Ishtarの提案に従った何者かによって…」

「それはまだわからん…そうであってほしくはない、と思う気持ちもある」

 先ほどまでの快活さは何処へやら、松浦は弱々しく老人ぶってみせた。

 それまで努めて冷静に振る舞っていた細川も、ついに気持ちを抑えきれなくなったのか涙ながらに語り出した。

「僕も…四人の不自然な死にはIshtarとニシユル戦略本部が何らかの形で関係しているのではないかと思います。トップアイドルとしての階段を登り始めた彼女たちが、憧れだったドームツアーが始まる1カ月前に揃って薬を飲んで死のうなんて思いますか? そんなはずはないんですよ…僕が辞めずにマネージャーを続けていればこんなことには…」

 睨みつけるような表情で美喜雄が松浦に訴えた。

「すぐに警察に届けましょう」

 松浦は首を横に振った。

「そんなことができるならワシが先にやっている。今、ワシらがしている話は推測の域を出ていない。決定的な証拠がないんだ。それにな、ブレインランドは警察内部にも協力者を飼っている。ワシらが警察に知らせればブレインランドにも連絡がいく。そうすればブレインランドはすぐにでも証拠隠滅に動くだろう」

「それじゃあ、黙って見てろっていうんですか?」

 細川は、今にも松浦に飛びかからんとする美喜雄を諫めた。

「藤本君、落ち着いてください。Ishtarがニシユルの活動に対してどのような指示を出していたのか。何で彼女たちが死ななければならなかったのか…。僕は知りたいです。何とかして証拠を手に入れましょう」

 細川の言葉を聞いた松浦は、60代後半とは思えない鮮やかなフリックでスマホを操作しながら言った。

「一人、Ishtarに詳しい男がいる。元ブレインランドの人間だ。そいつに連絡をとってみよう。まあ正直なところあまり頼りたくないタイプの人間ではあるが…」




 * * *




■2023年7月31日 21:00 東京都内某所/前田宅


 シンプルなダイニングテーブルの上に、パエリア、生ハムの盛り合わせ、エビとブロッコリーのアヒージョ、トマトスープ、山のように積まれたバケットが所狭しと並んでいる。

 羽田エリーは用意された食事にほとんど手をつけることなく、デニムのホットパンツから伸びた長い脚をブラブラさせながらスマホを弄っていた。

 彼女の対面には、ボサボサ頭で髭面、不健康を絵に描いたような痩せぎすの男が座っている。


 痩せぎすの男はフォークに突き刺した生ハムの束を頬張りながら、エリーの白い首筋や豊かな胸をチラチラと見ていた。エリーも男の不快な視線に気づいてはいたが、徹底して無視を決め込んでいた。

「前に会ったのはエリーちゃんがまだ中学生の頃だったかな。しかしまあー数年でこんなに大人っぽくなるなんて。いやあ惜しい。実に惜しい。やっぱりエリーちゃんはさぁ…」

 エリーは男の言葉を遮り、冷たく言い放った。

「私、早く帰りたいんだけど。さっさと済ませてよ」

「そんな連れないこと言わないでよ。しっかし、せっかく二人きりでゆっくりディナーを楽しめると思ったのになあ。こんな余計な連中が付いてきちゃって。オレ、松浦先生によっぽど信用されてないのね…ちょっとショックだわ」


 リビングの隅に置かれたソファーには藤本美喜雄と細川文雄が座っている。

 エリーと男のやりとりに聞き耳を立てていた細川は遠慮がちに口を開いた。

「僕たちも前田さんしか頼る人がいないものですから…よろしくお願いします」

「はいはいわかった。でもエリーちゃん、ちゃんと約束は守ってもらうよ? 危ない仕事であることは確かなんだからさあ」

 エリーは前田と目を合わそうともせず、億劫そうに答えた。

「…わかってる」

 前田は目尻を下げながらニヤけた。

「まあ、デートっていったって何にもしないから安心してよ。一緒にドライブして、映画観て、食事でもしながら語り合うだけよ。流石のオレでも高校生には何もできないって」

「変なことしたらすぐにママを呼ぶわ。覚悟しておきなさいよ」

「そ、それは勘弁して。変なことはしないって約束します!」


 美喜雄と細川とエリーの三人は、東京都下の閑静な住宅街にある低層マンションの一室にいた。部屋の主である前田敦士はブレインランド・プロモーションの元社員であり、かつては葉月里音と共にIshtarの開発に携わっていたらしい。


 伊豆高原の邸宅から電話で前田に連絡を取った松浦は、美喜雄と細川を応接間に待たせたまま、別室で30分以上も前田と話し込んでいた。

 さらにその後、松浦は邸宅に戻っていたエリーとも何かを相談していた。時折、エリーの怒り狂った金切り声が応接間まで聞こえてきたので、美喜雄と細川は気が気でなかった。

 エリーと何らかの話を付けて応接間に戻ってきた松浦は、心底疲れ切った顔をしていた。美喜雄と細川は、松浦から前田が住むマンションの住所を託され、「一緒にエリーを連れて行くように」と言い付けられた。松浦は「エリーに頑張ってもらうしか…」と悔しそうに呟いたきり、多くを語ろうとはしなかった。


 伊豆高原から前田のマンションへと向かう車中、エリーはしばらく黙り込んでいた。しかし、車が東京に入る頃には抑えていた感情が爆発した。二人に対して怒りをぶちまけ始め、「お爺ちゃんはあの男に私を売ったのよ。こんなクソなことってある!?」「なんで私があんなキモいクソ野郎とデートしなきゃならないのよ」「そもそもこんなことになったのはアンタたちが来たせいなの! おかしな事になったらアンタらとお爺ちゃんを一生恨んでやるから!」などとヒステリックに叫び続けていた。


 松浦は、前田にIshtarのハッキングを依頼していた。

 システムに侵入することで、Ishtarがニシユルメンバー全員の死、あるいは集団自殺につながる意思決定を下した証拠となるログを手に入れるためだ。それさえあれば四人のメンバーの死の真相に近づくことができる。証拠を得た上で警察やマスコミに働きかけることで、生き残っている宝田舞を守こともできる。

 ただし、前田は松浦の頼みを最初から素直に承諾したわけではなかったらしい。

 ブレインランドを退職している前田からすれば、Ishtarへのハッキング行為が発覚するだけでも不正アクセス禁止法をはじめとした様々な罪に問われるリスクがある。そんな前田がIshtarをハッキングする条件として松浦に要求したのがエリーだった。

 前田はエリーと二人で食事をすることを条件にハッキングを行う。さらにハッキングによって何らかの証拠を掴むことができれば、成功報酬としてエリーと二人きりでデートをする権利も与えられるという。

 松浦は、そんな前田の要求を渋々呑んでしまったのだ。エリーが憤慨するのも無理はなかった。


 エリーとの形ばかりのディナーを終えた前田は、ブツクサ文句を言いながらも事に取り掛かろうとしていた。

 彼の12畳ほどの仕事部屋には、何に使うのか皆目検討もつかない巨大なサーバーやストレージ、数台のデスクトップやノートPC、大小6台ほどのモニターが雑然と並んでいた。

 前田は幾つかのPCとモニターの電源を入れ、部屋の中央にある古びた長椅子に腰をかけた。そんな前田の様子を見ていた美喜雄は「白衣でも羽織ればマッドサイエンティストそのものだ」と、妙に感心していた。


「さてとIshtarちゃん。何年ぶりのご対面になるのかな。つまらん異物が入っちゃったからずいぶん苦労してるんだろうけど」

 部屋の入口で不機嫌な顔をしていたエリーがすかさず口を挟む。

「無駄口叩いてないでさっさとやりなさいよ! あーっ、もう! 何なのこの埃っぽい部屋…ゴホッ、ゴホッ」

「ごんめんね。この部屋にゲストが入ることなんか想定してなかったからさ。エリーちゃんは終わるまで向こうで待っててもいいよ」

 数台のPCが立ち上がるのを確認した前田は、恐ろしいほどのスピードで2台のキーボードを叩き始めた。美喜雄はモニターに表示されては消えて行くコードの流れを注視していたが、ものの数秒で自分の理解の及ぶものではないことを理解した。

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