第20話「神社」

■2023年7月31日 17:30 秋葉原/神社


 メイド喫茶を出た陽康と舞は、秋葉原の街中を人気のない方向を選びながら走った。

 その後、十数分ほど走り続けた二人は通りがかりにあった神社の鳥居を潜った。

 人も疎な境内で一息着いた後、二人は手水舎の奥にある池の欄干に体を預けて休んでいた。

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…」

 いつまでも中腰で疼くまっている陽康の姿を見て舞が言った。

「ちょっと体力なさ過ぎじゃない? いつまでハァハァ言ってんだか」

「ハァ、ハァ、ハァ…誰のせいだよ! ハァ、ハァ…お前、何ともないのか?」

「いい運動になったかな。ちょっと汗かいちゃったけど」

 陽康は秋葉原の街を全速力で駆け抜けていたつもりだったが、舞にとっては軽いジョギング程度の走りだった。

「ハァ、ハァ、それは…ハァ、ハァ、良かった。昨日まで入院してた人間とは思えないなぁ…ハァ、ハァ」

「ところでこれ、そろそろ離してくれない? 結構痛いんだけど」

 メイド喫茶を出たときから今の今まで、陽康は舞の右手首を掴んで一時も離さずにいた。急に恥ずかしさがこみ上げてきた陽康は、舞の右手首から自分の左手をパッと離した。舞の手首は真っ赤に鬱血しており、舞自身の汗と陽康の手汗が混じりあってぐちゃぐちゃに濡れていた。

「お前、忘れてなかったんだな」

「何が?」

「歌だよ歌。カラオケの画面も見ずに歌ってたぞ。ハァ、ハァ…『青年期の魔物』の歌も踊りも…しっかり覚えてた」

 舞はケロッとした顔で答えた。

「自分でもよくわかんないけど…体がね、勝手に動いた」

 音楽に合わせて体が勝手に動いただけで、まだ記憶は戻っていないというのか。本当にそんなことがあるだろうか。

「南野、ちょっと聞いていい?」

 舞は陽康の左手首に巻かれたブレスレットを指差した。シルバーのチェーンに埋め込まれた幾つもの青い石が、西日に照らされてキラキラと輝いて見えた。

「それ、走っているときにさ、ワタシの手にバンバン当たって痛かった」

「…悪かった」

 陽康はブレスレットを隠すようにして、左手をさっと後ろに引っ込めた。

「それ、ちょっと見せてよ」

「え?」

「ねぇ、ねぇ、見せてって」

「やだよ」

 舞は陽康の背後に素早く回り込んで左腕をガッと押さえ込み、ブレスレットを強引に摘んだ。陽康は舞の腕を振り払おうと抵抗した。二人は取っ組み合いをするような形になった。

 すると、何かの拍子に陽康の手首に巻かれていたブレスレットがブチっと鈍い音を立てて外れ、次の瞬間にはポチャンと音を立てて池の中に落ちていった。

「ありゃりゃ…ごめん」

 想定外の出来事に驚いた舞は、反射的に謝罪した。

 陽康は暫しの間、ブレスレットが巻かれていたはずの左手首をボーッと見つめていたが、一言も発することなくスルスルと靴を脱ぎ始め、躊躇することなく欄干を跨いで池の中に入っていった。

「ちょっと…南野」

 濁っていてわからなかったが、池の水深は陽康の膝上程度だった。陽康は、包帯を巻いていた右手も構わず水の中に突っ込み、両手で池の底の泥を浚い始めた。

 その一方で陽康は「このまま見つからなくても仕方がない…」とも思い始めていた。あの日から肌身離さず身に着けていたが、良いことは何もなかった。クラスメイトたちからは冷やかされ、バカにされた。ただ、あの子だけはブレスレットのことを褒めてくれた。




 * * *




 その日、西新宿のライブハウス「ユルノアナ」では、デビュー1周年を迎えた西新宿ゆるふわ組のライブがあった。

「急に別の予定が入った」という友人からチケットを譲ってもらった陽康は、暇つぶし程度の気分でユルノアナに足を運んでいた。

 当時、まだアイドルに興味のなかった陽康は、ニシユルに関しても「有象無象の女性アイドルグループのうちの一つ」といった程度の認識しかなく、とくに期待感もなかった。


 ライブが始まり、四人のメンバーがステージに現れた。

 四人とも、まだ中学生か高校生くらいだろう。見ようによっては小学5、6年生に見えるようなメンバーもいる。そんな年端もいかない女の子たちに向かって、自分よりも明らかに年上のオタクたちが野太い声で声援を送っている。

 赤、黄、ピンク、オレンジ。色とりどりの衣装を着て歌う彼女たちは、常に笑顔だった。歌や踊りの合間にも観客の一人ひとりの声に笑顔で応えているように見えた。


 陽康は、赤い衣装を着ている女の子と目が合った。ドキッとした。

 くっきりとした二重。大きな瞳がキラキラと光り、ぽってりとした唇の間から八重歯が溢れている。

 赤い服の女の子は四人の中でも一際目立っており、他のメンバーよりも歌が上手い。曲の中でも重要なパートを任されているようだった。

 赤い服の女の子は踊りにもキレがあった。白くて長い手足の動きに自然と目がいってしまう。

 陽康は、赤い服の女の子ばかりを目で追うようになっていた。黄、ピンク、オレンジの三人もそれぞれに可愛いらしく魅力的だったが、赤い服の女の子の強烈な存在感と嫌味のない笑顔に心を鷲掴みにされてしまった。

 陽康はニシユルの曲をまったく知らなかったが、いつの間にか曲に合わせて拳を上げていた。躊躇いや恥ずかしさは徐々に霧散していった。客席は暗かったし、自分のことを見ている人間など誰もいない。サイリウムを振り回しながら飛んだり跳ねたりしているオタクたちを見ているうちに、自分の羞恥心がちっぽけなもののように思えてきた。

 楽しい。何だかよくわからないけど、楽しい。

 終始笑顔で歌い、踊り続けている彼女たちは、何とキラキラとしていることだろう。そして、あの赤の女の子はとくに素敵だ。陽康は、今までに経験したことのない種類の胸の高まりを感じていた。


 アップテンポの曲がしばらく続いた後、スローテンポの可愛らしいラブソングが始まった。ステージには、あの赤い服の女の子しかいない。あの子のための曲なのだろう。

 陽康は、曲に合わせて左右に手を振りながら、赤い服の女の子の顔を見続けていた。そして、曲が一番の盛り上がりを迎えたとき、また赤い服の女の子と目があった。今度は一瞬じゃない。ずっとこっちを見ている。ずっとオレのことを見ている。

 赤の女の子は笑顔でウインクをした。オレの顔を見て笑顔でウインクをしてくれた。間違いない。自分に向かってウインクをしたのだ。


 アンコールも含め、約1時間30分のライブが終わった。

 陽康は静かに震えていた。世の中に、こんな楽しくて、こんなに素晴らしいことがあったなんて知らなかった。

 ライブ終了後、会場では物販と握手会が行われた。

 陽康は赤の女の子の写真がプリントされているクリアホルダーを買った。クリアホルダーには「SEIRA KIKUCHI」という欧文が印字されていた。菊池セイラ…あの赤い服の女の子の名前だ。

 陽康は、菊池セイラと握手をするための列に並んだ。ドキドキしていた。

 彼女に何と声を掛けようかと逡巡しているうちに自分の順番が回ってきた。緊張のあまりセイラと目も合わせられずに棒立ちしていると、彼女は陽康の両手を握ってきた。白くて、柔らかくて、暖かい手だった。

「今日はありがとう。多分、初めてだよね?」

「は、はい。初めて来ました」

「うんうん。よかったら次のライブも来てね」

「は、はい。が、頑張ってください。ま、また来ます」

「ありがとう! …あ、ねえねえ、これこれ」

「こ、これは、その…」

 陽康は、右手に着けていたブレスレットのことを指摘されて焦った。

「ステージからもよく見えたから、ちょっと気になってたんだ」

「すいません…」

「フフフッ。何であやまるの? すっごいいいと思う! 私のメンバーカラーじゃないけど、綺麗なブルーだよね」

 青い石ではなく赤い石だったら、彼女はもっと喜んでくれただろうか。陽康はブレスレットの石の色が赤でなかったことを恨めしく思った。

「これ、ライブの度に着けてきてくれると嬉しいな。だって、キラキラしててキレイなんだもん」



 

 * * *




 陽康の後ろで水が跳ねる音がした。膝までデニムを捲り上げた舞が池の中に入ってきたのだ。舞はフリーザのお面を外し、陽康と一緒にブレスレットを探し始めた。

 二人は黙々と泥を浚い続けた。時折、池の周りを歩く参拝客から冷たい視線を向けられたが、誰からも声を掛けられることはなかった。


 二人が池に入って1時間が過ぎた頃、陽康は空を仰ぎながら言った。

「もういいや…やめよう」

 舞は陽康の言葉には応えず、両手両足を細かく動かしながら池の中で泥の感触を確かめ続けていた。

 遠くで蝉の鳴き声が聞こえる。夏の日が暮れ始めていた。


 それから15分も経たないうちに舞が声を上げた。

「あっ! あった…あったよー!」

 彼女の手には泥に塗れたブレスレットが握られていた。

 舞は嬉しそうに笑っていたが、その目は少し潤んでいるようにも見えた。

 陽康は、少しだけドキドキした。


「はい、これで元どおり…とはいかないか」

 舞は手水舎の水でブレスレットを綺麗に洗い、陽康の左手首に巻いた。

 ブレスレットの鎖は切れてしまっていたが、陽康が財布の中に忍ばせていた安全ピンを使い、鎖同士をつなぎ合わせた。

 陽康のブレスレットの青い石は、手水舎の蛍光灯の光を反射して輝いていた。

 舞が言った。

「キラキラしてるね」

 陽康は顔を顰めながら言った。

「本当は、気持ち悪いと思ってるんだろ?」

「へ?」

「オタクの癖に、こんな女モノのブレスレットなんて着けて…気持ち悪いって思ってんだろ?」

 舞は、陽康のブレスレットを人差し指でつんつんと触った。

「悪くないと思うよ? オタクの割にはね」

 照れ臭くなった陽康は、左手を引っ込めながら喚いた。

「そんなこと言ったって、今日のことはチャラにならないぞ」

「ブハハハハッ」

 舞は例のごとく爆笑した。それは、陽康が知っているニシユルの宝田舞の笑い方だった。陽康は少しホッとした。

「笑って誤魔化したってダメだ」

「南野、元気になった。よかったよかった。でも、そのブレスレット…本当にいいと思うよ。だって、キラキラしててキレイなんだもん」


 辺りはすっかり暗くなっていた。二人はアイドル研究部の部室に戻るために新宿方面に向かって歩いていた。歩けるところまで歩き、疲れたらタクシーに乗ろうと決めていた。

「南野、ちょっと聞いていいかな」

「ん?」

「南野は西新宿ゆるふわ組っていうグループのこと、好きだったんだよね」

 舞にニシユルの話をしてはいけない。舞の記憶の曖昧な部分を刺激してはいけない。それはわかっていた。ただ、舞の方からニシユルについて聞かれた際の対応方法については聞かされていなかった。

 彼女がニシユルのことを思い出し始めているのだとしたら、誤魔化し切れるものではない。陽康は何も言わず、曖昧な感じで頷いてみせた。

「じゃあ、私のことはどう思ってた?」

 ギョッとするような問いだった。陽康は首を傾げて惚けるしかなかった。

「なにそれ。何か適当に誤魔化そうとしてない? 好きか嫌いで言えばどっちよ」

 陽康は恐る恐る言った。

「正直…好きではなかったかも。推しメンは他にいたし…」

「ふーん。何となくそんな気がしたんだよね。ワタシ、嫌われ者だったのかなあ」


 陽康は言いたかった。お前には熱狂的なファンがたくさん付いていた。新参のファンたちの間では、間違いなく一番人気だった、と。

 陽康はメンバー唯一の生き残りである舞に、ニシユルのことを思い出してほしい気持ちもあった。でも、それはできない。それを思い出すことは、舞にとってはとてつもなく辛いことだ。舞以外の四人は、もうこの世にいないのだから。


 陽康がそんなことを考えていると、シルバーのワゴン車が二人の横を通り過ぎた。そのワゴン車は二人の10メートルほど手間で停車した。

 スライドドアが開き、数人の大人が降りてくるのが見えた。大人たちは真っ直ぐこちらに向かってくる。

「…あ、れ?」

 舞が、拍子の抜けた声を出した。

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