第14話「上野」

■2023年7月31日 16:00 上野/アメ横丁商店街


「冬美ちゃん…ちょっと相談があるんだけど」

「どうしたんですか?」

「今だけお面外しちゃダメかな? ちょっと、食べづらいんだよね」

「ダメです! 約束したじゃないですか。外に行ったら絶対にお面を外さないって。マイマイに何かあったら私、細川さんや部長に何て謝ったらいいか…」

「ああぁん。わかったわかった。ワタシが悪かった。ゴメンよぉ冬美ちゃん」

 舞は『ドラゴンボール』の有名なヴィランであるフリーザのお面を被っていた。お面を外さないとなると、空いている片手でお面の顎を持ち上げながらラーメンを啜るしかなかった。単純に食べにくいのだ。

 そんな舞の姿を見て、陽康は勝ち誇ったように言った。

「フリーザ状態の癖にラーメンなんか頼むからそんなことになるんだ。お面の下から汗が滴り落ちてるぞ」

「うるさい! もう南野には分けてあげない! 冬美ちゃん、この豚骨ラーメン超旨いよ。食べてみる?」


 三人は上野アメ横の一角に設けられた小さなフードコートにいた。

 陽康と冬美は「舞を部室の外に出さないように」と言い付けられていたものの、結局は舞のわがままに付き合わされる格好となった。舞はアイドル研究部の部室に無造作に置かれていたフリーザのお面を被り、「これなら絶対にバレないでしょ?」と強引に二人を押し切ったのだった。

 最初は学校の周りを適当に散歩して部室に戻るつもりだったが「お腹減った」「何か食べていこうよ」「あそこが気になる」といった舞のわがままに振り回されているうちに、ついには上野の繁華街にまで足を伸ばすことになった。


「ほんとですね! このラーメン美味しい」

「でしょー!」

 ソフトクリームを舐めていた陽康は、舞からシェアされたラーメンを美味しそうに食べる冬美の様子を何の気なしに眺めていた。

「あっ、南野がジロジロ見てる! やっぱりラーメン食べたいんだあ」

「いらんわ! このクソ暑い中、ラーメンなんてよく食べる気になるもんだ」

「こんなに旨いのにねぇ」

 舞が同意を求めると、冬美は何度も頷いた。

「ねえ南野。ソフトクリーム美味い?」

「うむ。この気候ならベストなチョイスだと思うぞ」

「ひと口ちょうだい」

「はあ?」

「ひと口だけ!」

「やらん」

 陽康がアイスクリームを引っ込めて拒絶の意思を示すと、左手に巻かれたブレスレッドの青い石が、夏の日差しを吸い込んでキラリと光った。

「ねぇねぇ冬美ちゃん、南野ってゲーム下手な上にケチなの?」

 冬美は苦笑いするしかなかった。

 陽康が何か言い返そうとした刹那、舞は素早く身を乗り出し、陽康が持っていたソフトクリームをガッと奪い取り、お面をずらしてかぶりついた。

 その後、舞は悪びれた様子もなくソフトクリームを返したが、ソフトクリームをソフトクリームたらしめている白いアイスは半分以上なくなっていた。

 冬美は可笑しくて吹き出していた。

「冬美ちゃん、ワタシたちも後でソフトクリーム買おうね」

 舞は何事もなかったかのようにテーブルに座り直し、再びお面をずらして豚骨ラーメンをすすり始めた。

 あまりの展開に言葉が見つからなかった陽康は、半分になってしまったアイスを黙って見つめていた。

「どうしたの南野? ラーメン食べる?」

「いらんわ!」

 陽康は、自分の買ったソフトクリームを舞に食べられたという事実が、別の領域で恐ろしい問題を引き起こしつつあることに気づいた。

 白いアイスには、舞が残した無遠慮な食べ跡がまだくっきりと残っている。自分がこれを食べたら「関節キス」というやつになるのではないか?


 アイドルの握手会などの接触イベントを除き、これまでの人生で異性との関わりがあまりにも少なかった陽康は、このようなシチュエーションに遭遇したことがなかった。恐らく「何事もなかったかのように続きを食べる」というのが正解だろうが、意識せずに食べることができるだろうか。目の前にいるフリーザのお面を被った女は、西新宿ゆるふわ組の宝田舞である。しかも、自分は宝田舞のアンチでもある。その自覚はあった。

 だからといって「お前が口をつけたソフトクリームなんか食べられない」というのはあまりにも幼稚過ぎる反応だ。そうだ、これは宝田舞が食べたのではない。フリーザが食べたのだ。そういうことにしよう。フリーザがオレのソフトクリームをひと口食べただけだ。問題ない。よし食べるぞ…。


 しかし次の瞬間、陽康が手にしていたソフトクリームは再び何者かに奪われた。

 陽康のソフトクリームを奪ったのは冬美だった。冬美は、何故か顔を真っ赤にしながらソフトクリームに齧り付いていた。

「こ、これ、美味しい! 美味しいですね、マイマイ!」

 冬美は、小声で「ごめんなさい…」と呟き、食べ終わったソフトクリームを申し訳なさそうにグィっと差し出した。ほぼコーンしか残っていない状態だ。

 どうして舞も冬美も、ソフトクリームをペロペロと舐めないのだろうか。ソフトクリームは舐めるものだったはずだ。陽康は、残ったコーンを齧りながらそんなことを考えていた。


 結局、舞と冬美は一本ずつ新しいソフトクリームを買った。フリーザのお面を被っている舞は、ソフトクリームを口に運ぶときだけお面を手で持ち上げている。

 お祭りでもなければお面を付けて街を歩く人などいない。当然、街行く人々からの痛い視線を感じないわけではなかったが、彼女がニシユルの宝田舞であることは誰にもバレていないようだ。隣にいる冬美の存在もあり、10代の女子がノリでお面を被っているとしか思われていないのだろう。


「冬美ちゃん。ちょっと雑貨でも見に行かない?」

「でも、私、そろそろバイトにいかなきゃです」

「えっ、なにそれ? じゃあワタシどうすればいいの?」

「マイマイは南野先輩と一緒に部室に戻ってください。昨日まで入院してたんだし、あんまり急に動き回ったらダメですよ」

 舞は陽康を見遣りながらブツブツ言った。

「でもさぁ、南野一人じゃちょっと心配じゃない?」

「なんだと!? こっちは休みを返上してお前のお守りをしてやってるんだ。少しは病人らしくしろ!」

 冬美は笑いながら言った。

「マイマイ、大丈夫ですよ。南野先輩って意外と頼りになる人なんです」

 人に褒められることに慣れていない陽康は「この子は何故こんなことを言うのだろう? 自分がいつ頼りになるようなことをしたのだろう?」と思いながらも、悪い気はしていなかった。

「夜になれば細川さんと部長も戻ってきます。それまで南野先輩とゲームして遊んでてください」

「南野じゃ相手になんないんだよなぁ…ところで冬美ちゃん、どこでバイトしてんの?」

「秋葉原のメイド喫茶です」

「へーそうなんだ。冬美ちゃん、メイド服姿似合うだろうなあ。冬美ちゃんのメイド姿みたいなあ。ねえねえ、一緒についていっていい? ねえ、南野も見たいよね?」

 冬美は両手で顔を隠しながら言った。

「えーっ、恥ずかしいですよお」

 陽康にとっても冬美がメイド喫茶でアルバイトをしていることは初耳だった。

 陽康は二人のやりとりを黙って聞いていたが、このときばかりは舞のワガママが通ることを心の中でじっと祈っていた。

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