第13話「伊豆」

■2023年7月31日 12:00 天上寺学園高校/アイドル研究部部室


 舞は気持ち良さそうに身体を伸ばしながら言った。

「ヘヘーッ。これで45連勝かな」

 冬美は、精も魂も尽き果てた様子の陽康を横目で気遣いながら、さらに残酷な状況を伝えた。

「正確には…今ので47連勝ですね」

 舞は、ゲームのコントローラーを持ったまま固まっている陽康を煽った。

「もう辞めにしようか? なんか相手にならないみたいだし」

 陽康はキッとなって舞を睨み返した。

「…まだだ、勝ち逃げは許さんぞ! くそっ、この右手さえ自由であれば」

 陽康は、右手首の包帯をこれみよがしに掲げた。

「はぁ? それが言い訳? ダッサい男っ」

「先輩…それは、私もちょっとカッコ悪いと思います」

 舞に詰られただけでなく、冬美にもそう指摘された陽康は、静かに右手を下ろした。

 アイドルに夢中になる前の陽康はゲームとアニメを主戦場とするオタクだったこともあり、この人気格闘ゲームのスキルにもかなりの自信を持っていた。

 しかし、最初に陽康が2連勝した後は次第に舞が巻き返し始め、以降は回を重ねるごとに歯が立たなくなっていった。

「それにしてもマイマイはすごいです! このゲーム、今日が初めてだったんですよね?」

 舞はピースサインで冬美に応えた。

「ゲームとかほとんど経験ないけど、やってみると面白いね」

「もともとの運動神経がいいんですよ! あれだけ激しいダンスを何曲も踊ってたんですから」

 ふと、舞は遠い目をして呟いた。

「ダンス…か」

 冬美は焦って両手で口を塞いだ。

「あっ、ご、ごめんなさい…」

 舞は笑顔で冬美に言った。

「何も思い出せないんだよね。ワタシ、本当にアイドルやってたのかな」

 陽康はすくっと立ち上がって舞の顔をじっと見つめた。

「な、何よ」

「お前は紛れもなくアイドルだった…忘れたとは言わせない」

 陽康は奇妙なポーズを取り、両手を振り回しながら叫び出した。

「紀香! 蒔那! セイラ! ミーちゃん! マイマイ! 紀香!…あうっ」

 右足のふくらはぎに強烈な衝撃を感じた陽康は、情けない声を出して腰から床に転がった。

 陽康の足元に格闘ゲームさながらの足払いを食らわせたのは冬美だった。

「先輩、ごめんなさい。痛かったですか?」

「痛いよ! 急に何すんだよ安倍ちゃん!」

 冬美は床に転がりながら呻いている陽康の耳元で、陽康だけに聞こえるように囁いた。

「ごめんなさい。でも、マイマイがニシユルのこと思い出すようなことしちゃダメだって…昨日、細川さんに言われたじゃないですか」

 舞は手を叩いて爆笑している。

「ブハハハハッ! あぁー可笑しい、こりゃあリアルのケンカも弱そうね」

 陽康は、舞にバカにされたことが悔しいやら情けないやらで泣きそうになっていた。

 舞は痛みに悶える陽康を無視して冬美に言った。

「そろそろゲームも飽きちゃった。外に遊びにいかない?」

「それはダメです。細川さんから言われてるんです。マイマイを外に出しちゃいけないって」

「えーつまんない。ちょっとだけだから外行こうよ。ね、ね、ね?」

「覚えてないかもしれないけどマイマイは超有名人なんです。外に行ったら大騒ぎになっちゃいます。それに、昨日まで入院してたんですから、今は安静にしていないと」

 冬美へアピールなのか、舞はサッと機敏に立ち上がり、アイドルらしい飛びっきりの笑顔を作って見せた。

「大丈夫、大丈夫。なんだかワタシ、急に元気出てきたみたい! それにほら、要はワタシだってことが周りにばれなきゃいいんでしょ?」

「そんなの無理ですよ…あ、電話です。藤本部長からだ。ちょっと待ってくださいね」




 * * *




■2023年7月31日 12:00 伊豆高原


 細川の運転する車は東名高速から国道135号線を経由し、伊東の市街地を抜け、伊豆高原に続く道路を走っていた。

 助手席の美喜雄は、東京にいる冬美とスマホで連絡を取っていた。

「なるほど。わかった。心配はなさそうだな。それと、昨晩伝えたようにくれぐれも彼女を刺激しないように頼む。もし体調が急変するようなことがあったら先ほどメールで送った病院に連絡してほしい。あの病院なら誰にも気付かれないはずだ」

『はい、わかりました!』

「それと…南野もそこにいるのか?」

『南野さんもいます。何か伝えておくことはありますか?』

「いや…大丈夫だ。何かあったらすぐ連絡してくれ」

『はい。部長もお気をつけて!』

 電話を切った後、黙ってスマホを見つめていた美喜雄を気遣うように細川が言った。

「結局、南野君と安倍さんにも迷惑をかける形になってしまいました。本当にすいません」

「我々のことは気にしないでください。それに、彼らにとっても迷惑な話ではないと思います。かなり特殊な状況ではありますが、憧れの存在だったニシユルのメンバーと一緒にいることができるのですから。むしろ、嬉しいぐらいなのではないかと」 

「それならよかったです。でも、南野君の方はどうですか?」

「それは…どうでしょうね」

 美喜雄が曖昧に答えると、細川は少し意地悪そうな笑みを浮かべた。

「南野君は、アンチですよね。マイマイの」

 美喜雄は観念したかのように溜息を吐いた。

「やはり、分かるものですか」

「ファンやオタクと言っても箱推ししてくれる人ばかりじゃないですから。昨日のマイマイに対する彼の微妙な態度を見ていたら、何となくそうなんじゃないかなと思ったんです。南野君はセラたん推しなんじゃないですか? セラたん推しはマイマイアンチになりやすい」

「その通りです。とはいえ基本的には気が小さい男です。今の彼女に何かをするようなことは万に一つもないと思います」

「純粋なんでしょうね。逆に藤本君のように10代のうちから箱推しできるDDの方が珍しいですよ」

「私は…いつの頃からか、アイドルを研究対象としてしか見れなくなってしまいました。時々、純粋にガチ恋をしている南野のようなオタクを羨ましく思うこともあります」

 細川は、美喜雄の気持ちに寄り添うように何度も黙って頷いていた。


 美喜雄が腕時計を見ると正午を少し回ったところだった。随分と時間が経ったような気がしていたが、東京を出発してから3時間と少ししか経っていなかった。

 車は雑木林に囲まれた上り坂を進んでいる。時折、緑の間から豪奢な戸建住宅が見え隠れしており、そこが別荘地であることがわかる。

 その後、20分ほど坂道を登り続けた後、見晴らしの良い台地に出た。美喜雄が遠くに見える海の青さに心を奪われていると、車は徐々に速度を落とし始めた。

 細川は車を路肩に停め、スマホで住所を確認した後、フロントガラスの前方に見える南国風の生垣に囲まれた白壁の建物を指差した。

「僕らの先輩はあそこにいるみたいですね」


 松浦の邸宅には、表札も門もなく番犬もいなかった。周囲の家屋と比べてこぢんまりとしており、特別な豪華さはなかった。庭の植木や飛び石は綺麗に手入れされていて清潔感があったものの、豪奢な洋館や荘厳な日本家屋を想像していた美喜雄はやや拍子抜けしていた。

 細川が玄関のチャイムを押した。しばらく待ったが反応がなかったので、もう一度チャイムを押した。するとドアが少しだけ開き、黒いTシャツとホットパンツ姿の若い女性が顔を覗かせた。

「お忙しいところすみません。松浦先生の後輩の細川と申します。本日、先生と面会のお約束をいただておりまして」

「お爺ちゃんですか? ちょっと待っ…」

 黒いTシャツの女性は、細川の後ろに立っている美喜雄の姿を見て狼狽えているように見えた。

 美喜雄もその女性の顔にはよくよく見覚えがあった。黒いTシャツの女性は、夏休み前、部室の件でやりあった現代音楽部の羽田エリーだった。

 細川に相対していたときの来客用の声色から一転、エリーは腹の底から絞り出したような低い声で美喜雄に詰め寄った。

「どうしてアンタがここに来る?」

 美喜雄は、思わず口から出そうになった「それはこっちの台詞だ」という言葉をすんでのところで飲み込み、引き攣った愛想笑いで応えるしかなかった。

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