第9話「遭遇」

■2023年7月30日 17:30 武蔵ノ宮病院


 陽康たちが入院病棟7階の談話スペースに入り、2時間半以上が経過した。

 美喜雄はノートPCでの作業に没頭し、陽康と冬美はスマホを眺めていた。

 ここに来たときに見かけた女の子連れの中年夫婦やスーツ姿の男性四人組は、いつの間にかいなくなっていた。数組の見舞客が入れ替わり立ち替わり談話スペースを利用していたが、15:00から留まり続けていたのは、陽康たち三人とニット帽の老人男性だけだった。

 

 もうすぐ17:50になろうとしていたが、窓外に見える夏の空には夕暮れの気配すらない。

「結局、何も起きなかった」

 眠たそうな声を発した陽康に冬美が応えた。

「そうですね。でも、何もなくて良かったですよ」

 緊張感で引き攣っていた冬美の顔にも、いつもの柔らかい表情が戻ってきていた。

 美喜雄はノートPCの電源を落としてバックに押し込んだ。

「あと5分したら我々も引き上げよう」


『本日の面会時間は午後6時までとなっております。お見舞いのお客様はお帰りの準備をお願いいたします』

 館内に面会時間の終了を知らせる放送が流れた。

 同時に、エレベータホールの方からパンツスーツ姿の女性が現れ、そのままナースステーションの方に駆け寄っていった。女性の傍らには、堅気とは思えない黒いスーツに身を包んだ二人の男の姿もあった。一人の男はとくに大柄で、190センチ以上はありそうだった。

 陽康と美喜雄は、女性の姿を見て驚いていた。

「部長、あの人って…」

「間違いないな」

 二人の反応を見て冬美が尋ねた。

「だ、誰なんです?」

「菜月里音。ニシユルのマネージャーだ」

 美喜雄が葉月里音と断定したその女性は、受付にいるナースたちと言い争いをしているように見えた。

「何かあったんでしょうか」

「面会終了時間まで10分もないからな。こんな時間に来られても困るんだろう」

 葉月里音と思われる女性は、ナースからカードキーを受け取り、スーツの男たちと一緒に入院個室のスペースへ入っていった。受付にいた数人のナースたちも葉月たちの後に続いた。


 部外者である陽康たちは、談話スペースの陰から状況を見守るしかなかった。

 冬美が怯えた声を出した。

「まさか、あの人たちがマイマイを…」

「流石にそれはないと信じたいな。ナースたちも着いて行ったし、大丈夫だとは思うが」

 陽康と冬美には伝えなかったが、美喜雄はニット帽の老人のことがずっと気に掛かっていた。

 老人は、美喜雄たちが来る前からここにいた。それから今までの間、入院個室や受付に行こうともせず、3時間ひたすら新聞を読み耽っていた。そんな老人が、先ほど葉月里音が現れたタイミングで、ついに新聞を閉じたのだ。老人は立ち上がって腰を回し、軽い屈伸運動まで始めた。美喜雄は、そんな彼の所作に違和感を覚えざるを得なかった。


『午後6時になりました。面会時間終了となります。お見舞いのお客様はお帰りの準備をお願いいたします』

 葉月たちが入院個室スペースに入ってから10分も経たないうちに、面会時間の終了を告げる館内放送が流れた。

 長時間ソファーに座っていた陽康は、痺れた尻を叩きながら立ち上がった。

「帰るしかないか」

「これ以上ここに居られないですもんね」

 冬美がバッグを持って立ち上がろうとすると、入院個室スペースの自動ドアが開き、葉月とスーツの男たちが出てきた。

 葉月と男たちは患者を乗せたストレッチャーを押している。陽康たちがいる場所からは、誰がストレッチャーに乗っているのかわからなかった。

 葉月たちの後ろから、数人のナースと白衣姿の若い男性医師がついて来た。男性医師はストレッチャーの前に回り込み、葉月たちを制止した。

「葉月さん、困りますって。転院なんて聞いてませんよ。こんなに急に移してどうするんですか。今日の検査だってまだ終わってないんです」

「彼女の御両親にも了承を得ました。次の病院の受け入れ態勢も整っていますので、ご心配には及びません」

「しかし、舞さんはまだ…」

 葉月は眉間に皺を寄せ、白く長い人差し指を鼻の前に立てた。

「やはり、この病院のセキュリティには問題がありそうですね」

「あっ、すみません。ですが…」

「先生、体の方はもう問題ないとおっしゃいましたよね?」

「確かにそうですが…」

「私たちもそう思います。あとは彼女の心の問題なんです。体の問題でなく心の問題なのであれば、病院を変える必要があるでしょう?」

「それはそうですが、まだ早過ぎます。紹介状も書いておりませんし」

「問題ありません。転院が済んでから連絡しますので、後からカルテを送ってください。それでは失礼します」

 葉月が二人の男に目配せすると、再びストレッチャーが動き出し、医療用エレベーターがある廊下の奥へ向かっていった。


 冬美が小声で「さっき “舞さん” って言ってましたよね」と同意を求めると、美喜雄は黙って頷いた。

 陽康たちがストレッチャーの行き先を黙って見つめていると、美喜雄が訝しんでいた例の老人がするりと現れ、葉月たちの後を追って早足に歩き去っていった。

「やっぱり、あの爺さん…」

 美喜雄はトートバックを担いで立ち上がり、老人の後を追った。陽康と冬美も美喜雄について行くしかなかった。


 医療用エレベーターの専用ホールは、館内の他の場所に比べ、やけに暗かった。

 葉月と二人の男はストレッチャーを囲むように立ち、エレベーターの到着を待っている。その少し後ろに例の老人が立ち、美喜雄、陽康、冬美の三人は、さらにその後方で息を潜めていた。


 間もなくエレベータが到着し、葉月たちはストレッチャーをエレベーターの中に運び込んだ。

 一緒にエレベーターに乗ろうとする老人の姿を見て、男の一人が言った。

「一般用のエレベーターはあちらですよ」

 男は指で示したが、老人は男を無視してエレベーターに乗った。男が小さく舌打ちをする音が聞こえた。

 美喜雄も老人に続いた。陽康と冬美も忙しなくエレベータに乗り込んだ。


 医療用エレベーターの室内はかなり広く、ストレッチャーの他に七人の人間が乗り込んでいても余裕があった。

 スーツの男たちはストレッチャーに乗せられている患者の顔を体で隠そうとしていたが、さすがに無理があった。

 陽康は、ストレッチャーに乗せられている患者の顔を見てしまった。

 以前に見たときと比べ、青白く痩せていて、だいぶ髪が伸びているが、主流のアイドル顔とは異なる一重まぶたと薄い唇はそのままだ。間違いない。ストレッチャーに乗せられているのはニシユルの宝田舞だ。

 冬美も患者の顔に気づいたらしい。両手で口を塞ぎながら、陽康と美喜雄にチラチラと落ち着きのない視線を送り続けている。

 例の老人は階数表示ランプをジッと見つめ、ニット帽の上から頭を掻いている。老人の様子を背後から見ていた美喜雄は、彼への不信感をさらに強めた。老人の手にしては皺が少な過ぎる。


 エレベーターは途中階で停まることなく、速やかに1階に到着した。

 エレベータのドアが開くと、スーツの男の一人が左手を挙げて陽康たちを制し、舞が乗ったストレッチャーを先に外へと誘導した。

 医療用エレベーターを降りた場所は、病院の救急搬送口だった。廊下を進んだ先に救急車の駐車スペースがあり、その向こうには一般車両用の駐車場が広がっていた。

 ストレッチャーを押す三人の後を、美喜雄、陽康、冬美が歩き、そのさらに後ろからニット帽の老人が歩いてついて来ていた。


 面会時間が終わったせいか駐車場の車も疎らだったが、30メートルほど先にシルバーのワゴン車がポツンと停まっていた。

 葉月とスーツの男たちは、舞を乗せたストレッチャーをワゴンの方に向けて押し歩いていった。

 陽康たちはそれ以上ついて行くわけにもいかず、その場で葉月たちの様子を見つめているほかなかった。

 美喜雄は例の老人の行動に注意を払っていたが、シルバーのワゴン車とは別の方向に歩いていく彼の姿を見て、少しだけ緊張感から解放された。

「本当にマイマイがいた…あれに乗ってたの、絶対にマイマイでした」

 上擦った声で同意を求めた冬美に対し、陽康は静かに頷いた。


 美喜雄が「帰ろうか」と口にした刹那、別の方向に歩いていったはずの老人が、舞の乗るストレッチャーの方へ猛ダッシュで走っていく姿が見えた。老人にしては不自然に足が速い。

 老人はニット帽の中から箱状の物体を取り出し、ストレッチャーを押す葉月たちの足元に投げつけた。

 箱が潰れるドスッという鈍い音とともに、物凄い勢いで白い粉のようなものが吹き出し、辺りは瞬く間に真っ白な煙で包まれてしまった。

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