第8話「待機」
■2023年7月30日 14:30 武蔵ノ宮病院
陽康、美喜雄、冬美の三人は武蔵ノ宮病院の入院病棟7階にいた。
外来病棟の待合スペースほどは広くはないが、各階のエントランスを兼ねる談話スペースには値の張りそうなテーブルやソファーがいくつもあり、大きな葉を付けた幾つもの観葉植物が敷居代わりに置かれていた。
陽康の心配をよそに、入院病棟にはあっさり入ることができた。
今年で68歳になる美喜雄の祖母が5階の個室に入院していたため、孫の美喜雄と友人二人、合わせて三人分の面会証がごくごくスムーズに発行された。
三人は7階に上がる前に5階の個室に立ち寄り、美喜雄の祖母を見舞った。高血圧性疾患で入院していると聞いていたが、見た目にはとても元気そうであり、彼女の言葉遣いや立ち振る舞いからは、庶民には醸し出しようのない品が感じられた。
美喜雄は高校生にして全国各地のアイドル現場に顔を出すDDであり、ニシユルのTO(トップオタ)としても多くのアイドルオタクから認められる稀有な存在だった。陽康は美喜雄の家庭環境についてほとんど知らなかったが、祖母が都内随一のセレブ病院に入院していることから考えても、裕福な家庭であることは間違いなさそうだった。陽康は、美喜雄のオタ活を支える財力の一端を垣間見た気がした。
7階の談話スペースと入院個室の間には、ナースステーションを兼ねた受付があった。入院個室の廊下に入るには、カードキーをかざして自動ドアを開けなければならない。美喜雄の祖母が入院していた5階と同じシステムだが、7階には誰かの知り合いが入院しているわけではないので、ナースからカードキーを受け取ることはできない。自動ドアの横には警備員が立っており、病院関係者や見舞客に紛れて入り込むことも難しそうだった。
談話スペースには、陽康たちの他にも何組かの見舞客がいた。女の子連れの中年夫婦、ニット帽を被った老人男性、スーツ姿の男性四人組、それぞれが別のテーブルを囲んで座っていた。
ニット帽の老人以外は同伴者同士で会話をしていたが、話の内容までは聞こえてこなかった。普通に話をしても周囲に聞かれる心配はなさそうだったが、美喜雄は自然と小声になっていた。
「例のメールを受け取ったのは我々三人だけのようだ。ネットもある程度調べてみたが、それらしい情報は見つからなかった」
「誰があんなメールを…部長は、送り主に心当たりがあるんですか?」
「わからない。ただ、入部の際に君たちから提出してもらったメアドは、アイドル研究部のOB会にも共有している」
「OB会?」
陽康や冬美には耳馴染みのない単語だった。
「我が校のアイドル研究部は1972年に設立されているが、部活の立ち上げに参加した生徒たちの卒業後、間もなくOB会が組成されたと聞いている」
冬美は素直に驚いていた。
「アイドル研究部って、私たちが生まれるずっと前からあったんですね」
美喜雄の話によれば、アイドル研究部に在籍していたOB・OGの総数は200名を超えており、現在も80名以上の卒業生がOB会に名を連ねているらしい。それらOB・OGの中には、テレビ局や広告代理店の局長クラス、芸能事務所の社長、著名な芸能ライターやアイドル研究家として活躍している人物もいるという。
「何でその人たちにオレらのメアドを教えたんですか?」
「数年に一度開かれるOB会ミーティングの連絡手段に使われている。昔は会員の住所・電話番号をまとめた名簿があったようだが、今は個人情報保護の観点からデータベース上でのメアドの共有だけになったらしい。OB会ミーティングについては私も一年生の時に一度だけ参加したことがある。ただ、それ以来、公に開催された話は聞いていない。ちなみにメアド共有の件は、入会時の約款に記載しているし、承諾の証として君たちからサインももらっている。決して無許可で共有したわけではないからな」
陽康は、入部の際、部室でよくわからない書類にサインを書かされたことを思い出した。
「我々のメアドはOB・OGにしか共有していない。OB・OGから外部に流れていないとすれば、彼らの中の誰かが我々にメールを送ってきた可能性が高い。そして恐らく、送信者がOB会のデータベースにアクセスしたのは2週間以上前のタイミングだと考えられる。私は2週間前、二学期以降に入部予定の生徒たちのメアドをデータベースに入力したが、彼らに対して例のメールは送られていない。これは確認済みだ」
陽康が美喜雄に尋ねた。
「送信アドレスから送り主を辿れないんですか?」
「すでに調べてみたが、データベース上にあるOB会メンバーのメアドと一致するものはなかった」
三人が受け取ったメールの送信アドレスは共通していた。ドメイン名から、世界でもっとも普及しているフリーメールサービスを使ったことは一目でわかる。ただ、ユーザー名は10文字以上の英数字をランダムに並べたものであり、そこからユーザーを特定するのは難しいように思われた。
陽康は溜息まじりに愚痴った。
「いい大人がこんなふざけたメールを送ってくるなんて。どういうつもりなんでしょうね」
「そう言いながらもお前はここにいる。私も安倍君も、そしてお前も、ここまでは送信者の意図通りに動いていることになるな」
「万が一ってこともあるかなって思っただけです。部長も、安倍ちゃんも、そう思ってここに来たんですよね?」
美喜雄は、陽康と冬美に近づいて二人の耳元で囁くように言った。
「殺される云々の話は別にしても…宝田舞がここにいる可能性自体は極めて高い」
美喜雄は周囲を気にしながら話を続けた。
「仲間が調査したところ、ブレインランドのタレントは武蔵ノ宮病院を度々利用していることがわかった。私も例のメールを受け取った後、祖母の見舞いを口実に何度かこの病院に足を運んで様子を探っていたが、駐車場にブレインランドの関係者が使う車が停まっているのを2回確認した。窓にスモークが貼られたワゴン車だ」
美喜雄の言う「仲間」とは、全国にいるオタク仲間たちのことだ。美喜雄は高校生にして、全国のアイドルオタクたちから情報を収集できるほどの人脈を築いていた。
美喜雄の話を聞きながら、冬美は怯えていた。
「やっぱり、警察に知らせた方が…」
「私もそうすべきだと思った。送信者に対してもメールのやり取りを通して何度もそう提案した。ただ、その度に『警察や病院関係者に伝えてはならない。彼女がさらなる危険に晒される可能性がある』という内容の返信が返ってくるだけだった」
陽康は溜息を吐きながら愚痴った。
「だからって、オレたちに連れ出せなんて無茶苦茶ですよ」
冬美が美喜雄に聞いた。
「メールに書いてあることが本当だとして、何か起こったら…私たちどうすればいいんでしょう」
「我々は709号室に直接入ることはできない。一旦、ここに留まって様子を見よう。そしてもしも、彼女に危害を加えそうな怪しい人物が現れたら…その時こそ病院関係者に知らせるか、警察に連絡すればいい。結局、我々は18:00までしかここにいられないが、面会時間終了後の武蔵ノ宮病院のセキュリティは官公庁並みに強固だと言われているし、心配は少ないだろう。もっとも、あのメールの内容がすべてガセであれば、それが一番いいことなんだが」
美喜雄は時間を確認した。
「14:55か。面会終了時間まであと3時間はあるな。南野、お前はどうする」
「オレも…付き合いますよ」
「そうか。正直意外だったよ。お前があのメールを受け取っていたとして…宝田舞のことで何か行動を起こすとは思っていなかったからな」
冬美が美喜雄に言った。
「部長、お言葉ですが南野さんほどニシユルを愛している人なんてそうそういませんよ。私は南野さんも絶対に来てくれるって信じてました」
陽康は二人の言葉には応えず、スマホの画面を見つめるフリをしてその場を誤魔化した。
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