第9章:血の月、裂ける夜

 その夜、空には満月が二つあった。


 一つは、いつもの白い月。


 もう一つは、赤く染まった血の月――空の裂け目のように禍々しく輝き、地上の影を濃く染めていた。


 ジョナサンは、斜面の上から戦場を見下ろしていた。


 数百もの影がうごめいている。

 それは夜に潜む者たち――“群れ”だ。


 赤き牙の王が育て上げた、理性を喪った後継世代の狼人間たち。

 その牙は鋼をも貫き、脚は風よりも速い。


 ナオミの率いるレジスタンス《ノクターナル》は、防衛線を築いて応戦していた。


 「配置完了! 正面を守れ! 右側、ライフル準備!」


 少女兵たちが武器を構え、狼たちに立ち向かう。


 だが、獣たちは怯まない。


 むしろ笑っているかのように、四足で壁を駆け、跳躍し、喉笛を求めて飛びかかってきた。


 銃声と悲鳴が入り混じり、空が裂けるような咆哮が響き渡る。


 ジョナサンは、崖を駆け下りながら無線に囁いた。


 「ナオミ、後方に回り込む。王の位置は?」


 『中央。全軍の奥にいる。まだ動いてない……待ってるのかもしれない。あなたを』


 「上等だ」


 ジョナサンは夜の中に身を溶かしながら、影のように走った。


 その目は金色に光り、肉体にはすでに“変化”の兆しが現れていた。


 脚は獣じみて強靭に、爪は鋭く、感覚は極限まで研ぎ澄まされていた。


 それでも、まだ“完全な変身”ではない。


 理性は保っている。


 今はまだ、“ジョナサン”でいられる。


 群れの中をすり抜けながら、彼はかつての仲間たちの顔を思い浮かべていた。


 テオ。

 ラミエル。

 アッシュ。

 そして――シエナ。


 あの小さな村。


 静かな朝。

 誰にも知られず、ただ人として生きようとしていた日々。


 すべては、遠い幻のようだった。


 咆哮が響いた。


 王の声だ。


 圧倒的な威圧感が空気を支配する。


 ジョナサンは走りながら呟いた。


 「来いよ、赤き牙の王。お前を終わらせて、俺も終わる」


 その言葉に呼応するように、彼の中の“影”が目覚め始める。


 ナイトの声が、遠くで笑っていた。


 《まだだ、ジョナサン。終わりは、もう少し先だ》


 ジョナサンの目に、王の姿が映る。


 巨躯。

 漆黒の体毛。

 赤く輝く双眸。

 そして、血の紋様が刻まれた皮膚。


 “赤き牙の王”は、まさしく群れの王にふさわしい存在だった。


 その姿は、血塗られた夜の具現。

 人でも、かつての狼でもない。


 ――“進化”の果てにある、闇の結晶。


 ジョナサンは深く息を吸った。


 次の瞬間、地を蹴って飛び出す。


 戦いの火蓋が、今、切って落とされた。

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