第七話 スパイ

 タイタンを一人で討伐し、アーネールと共にアトラス要塞への帰路へ着いたエス。彼は帰還中にアーネールに色々と話を聞こうかとも思ったが、その様な気分ではなかったのだろう、会話らしい会話と言うのは殆ど発生しなかった。比較的整備された魔獣の寄り付かないアレキサンダー街道と言えど、前日に雨が降っていたせいで地面がぬかるんでいた為であろうか、余り足元の状況は良くなかった。要塞への道の中腹に到達した際にエスはレイと遭遇し、そのまま難なく要塞へと戻る事が出来た。

 エスが要塞に到着した時には皆は要塞でオルト兵の残党との戦闘を終え、暫しの休憩と被害状況の確認を行っている段階であった。エスは取り敢えず目についたグレア、テレサ、フユ、付き添ってくれたレイに事情を話すとテレサを除く皆の反応は予想した物であった。

 「そんな……アーネールが……」

 驚き、疑い、呑み込む。その間当のアーネールは皆に合わせる顔が無いのだろう、ずっと気を失った振りをしてエスの背中で目を閉じている。その他の者に先んじて一早く状況を理解したのはグレア。彼女は顎に手を当てると、

 「……取り敢えず事態は把握した。それならば私とエスでアーネールを『ミランダ』に持っていくとしよう。他の皆は要塞の後始末の続きを行ってくれ」

 「すみません、ミランダって何でしたっけ」とエス。

 「ミランダはここから徒歩一時間程度のネスト内にある廃村の事だよ。十年程昔かな、当時のマーナ軍隊長を主体としてネスト内に活動拠点を築く計画が練られ、実際にミランダが出来上がった。でも当然と言えば当然なんだけど、すぐに魔獣達に食い荒らされてしまってね……そして廃村化してしまった。例えアーネールのバハムートを召喚出来ないと言う言葉がブラフだとしても、そんな廃村なら人的被害は殆ど無くなるでしょ?」エスの後ろに眠る彼女にチラリと目をやると、「それに、そこなら簡単にアーネールを殺害して次期継承者の選定が出来るしね」

 周辺は要塞の後片付けで騒音に満ちていたはずだが、その場だけ急激にしんと静かになった気がした。エスは僅かに声を震わせ、

 「やっぱり……殺すしかないんですか……」

 「うん。マーナ兵の掟で裏切り行為は一切の例外を許さずに極刑とされているし、それに召喚獣継承者が他人に自らの召喚獣を渡すには元の継承者を殺すしかないからね。召喚士、つまり何らかの召喚獣を継承した者が息絶えると、その者の手元には自然と手の平サイズの結晶が生成される。それを別のマーナの民が破壊する事によりその人は新たな召喚士になる事が出来る。つまり、アーネールを殺す以外に新たなバハムート継承者を誕生させる手立ては無いと言う事だ」

 エスはグレアの話を聞くと、奥歯を噛み締め下を向いた。

 当たり前だろう、こうなる事は。それにアーネールも作戦が失敗したら死ぬ程度の覚悟をしていたはずだ。彼女は死ぬべき人間なのだから。それなのになぜ――。

 エスの心の中。そこで育ち始めた『新たな感情』に気付けない程、彼は鈍感ではなかった。グレアは暗くなってしまったその場を盛り上げる為だろう、より大きな声で、

 「まあ、そういう訳だ」そしてレイに目を移し、「レイ、この要塞からオルト国側の監視をしてくれないかな。まだ大丈夫だと思うけど、もしかしたらオルトが援軍を寄こすかもしれないからね」

 グレアがそう言うとレイは何も言わずに頷いた。了解した、と言いたいのだろう。

 すると横から口を挟んできたのはフユ。彼女は真っすぐグレアを見て、

 「あの、すみません、私もレイ兄さんと一緒に監視しても良いでしょうか」

 「ああ、勿論だよ」


 あれは凍てつく風が吹く日の夜であった。彼らの母はいつも夕方になると外に出て行き、早朝、彼らが目覚めるよりも前に帰ってくる。その日も彼女はいつも通り夕方に外出した為、三人は寝室で毛布に包まりながら寝そべって天井を見上げていた。

 風に吹き飛ばされた枝葉がぶつかったのか窓が一度ガタンと音を立て揺れると、その音でうつらうつらしていたフユの目が覚めた。身を強張らせながら横を見てみると隣で彼女の兄・次男のフブキが寝ている。目を閉じているが片方の腕でフユに腕枕しながら、もう片方の腕でフユの体をとんとんと定期的に優しく叩いている。

 「お母さん……全然帰ってこないね……」

 「大丈夫だよ、フユ。俺達がいる」

 フユとフブキは暗い部屋の中そんな話をしていた。外からの冷気が壁を貫通し室内に入ってきているのか、毛布を被っていない顔は凍り付きそうな程に冷たい。フブキはぐいと顔をフユのほうに近づけると、彼の寝息が首に掛かってきて何だかくすぐったい。それでも寒さが幾らか和らいだ様でフユはそのまま目を閉じると、

 「何で……お母さんはこんなに遅いのに帰ってこないの?」

 「全部……父さんが悪いんだ。だってそいつが俺達が生まれる前に母さんを捨てて、どこかに行ったから……母さんは……」

 レイは二人から少し離れた所で手を頭の後ろで組みながら天井を見上げている。彼が一度息を吐くと、白い靄が空中へ溶けていった。フユの両目の端から一筋の涙が伝るのと、彼女の意識が夢の中に吸い込まれていくのは殆ど同時であった。


 「フユ!おい、フユ!起きろよ!」

 その翌日、フブキの嬉しそうな叫び声でフユは目が覚めた。彼は目を輝かせながらフユに跨り彼女の上で体を揺らしている。

 「ん……なぁに~?」とフユは目を摩りながら上半身を起き上がらせた。

 「窓の外、見てみろ!」

 フブキがそう言って指さした窓の外。フユがフブキに手を引かれるままによたよたと歩きながら近づき外を見てみると、そこに広がっていたのは――。

 「わあ!」

 真っ白な世界。地面も、屋根も、木の葉も。地上だけではない。空も色をどこかに忘れてしまったかの様に白く、空中にはその犯人がしんしんと降っている。

 雪だ。雪が一夜にして全てを純白の白へと染め上げたのだ。汚れの無い、清純な色。

 輝く両目に紅潮した頬。フユはその光景を見ると言葉を失った。

 「ねえ、母さん!外で遊んできて良い!?」とフブキが振り返った先には、彼女の母・『ティール』が。

 フユも彼女に目を向けると彼女の顔はやつれており、目の下には真っ黒な隈。それでいても尚、艷やかで長い白髪と端正な顔立ち。例えるなら極寒の地で孤独に凛と咲く花の様な美しさと繊細さをフユは彼女に感じていた。ティールは何も言わず、小さく微笑みながら頷く事でフブキに返事をした。その姿さえも静かで、美しい。

 「やったぁ!行こうぜ、フ――」

 「おい待て!」

 フブキの歓声を止めたのはレイであった。彼は声を荒げ、二人を睨め付ける。

 「何……兄さん」

 フユとフブキが彼の怒号を聞き身を凍らせていると、彼は徐にクローゼットに近寄った。そこからフードが付いた厚いコートを二着取り出すと、それを二人の目の前に。

 「外、寒いから……ちゃんと着込んで行け」とレイは俯きながら小さな声で言った。

 フブキとフユは少し面食らったが互いに見つめ合うと小さく頷いた。そのままフユは微笑みながらレイの袖を軽く摘まむと、

 「レイお兄ちゃんも一緒に、行こ?」


 三人はしっかりとコートを着込むと扉を開け、外の景色を見てみた――実際に間近で見ると、それは見事な物であった。地平線の向こうにまで続く白。力強く、静かに降り積もる結晶が辺りを純白に染め上げる。彼らの家は誰も近寄らない平原の奥地に作られた為、何の音もしないのだが、彼らにはその雪が全ての音を吸い込んだ為かの様に思われた。それ程の静寂。

 真っ白な世界の光景に三人とも、見惚れた。口を半開きにして呆然とその景色に引き込まれる。

 「すげえ~……」

 フブキの赤くなった鼻先に雪の結晶が乗ると、すぐに有機的な繋がりを無くした液体になった。それの冷気を感じたフブキは何か思いついたかのか、口の両端に零れる笑みを我慢しながら、しゃがみ込んで雪をこね始めた。冷たいと思いながらも小さな雪玉を作り、それを手に抱えたまま腰を上げる。そのままレイの顔にこっそりと焦点を合わせると――。

 「えいっ!」と言って彼の顔面目掛けて放り投げった。

 見事、それはレイの顔を白く染め上げた。雪はそのままずるずると彼の顔を滑り落ち、地面にべちゃりと。

 「何すんだ!」

 「ハハハ!雪合戦だ!」

 レイが雪玉をフブキに投げ返すと彼の服に当たった。フユはフブキに加勢して一対二で雪合戦をした。結局彼らは日が沈みかけ、ティールがいつも通り出かけるまで遊び続けた。三人は母を送り届けると互いに笑い合いながら家の中に戻った。

 しかしその翌日、母が帰ってくる事はなかった。その翌日も、その翌日も、その翌日も。


 「コイツ等がニルヴァーナ・プロジェクト唯一の成功者達の子供か……」

 その翌日、家にやってきたのは母では無かった。長い白髪交じりの髪の毛を後ろで括っている白衣の様な服を着た男。その背後に立つもう数人の見慣れない男達。彼らは皆黒のスーツに身を包み、思考を読ませない無表情を称えている。

 レイとフブキ、フユは玄関に佇む彼らを見て、状況が飲み込めずに彼らの目の前で立ち尽くしている。白衣の男はフブキとフユの奥で困惑した表情をしているレイを見かけると、唇の両端を曲げてニタリと笑った。そのままレイに近づこうとするが、彼の前にフユが立ち塞がった。いや、立ち塞がったと言っても、彼女は単に足が竦み退く事が出来なかったのだ。怯えた表情で彼を見上げるフユに男は冷たい表情を返すと、

 「どけ、貴様に用はない」

 そう言って彼はフユの肩を掴んで乱暴に投げ飛ばし、彼女は近くの壁に激突した。壁からダンと少し響いた音が鳴り、痛みに耐えかね頭を抱えたまま壁を伝いにずるずると滑り落ちるフユ。

 レイはそんな様子を見て目を大きくしていた。そんな彼に白衣の男は、

 「お~と、すまない、レイ君。君の妹さんに危害を加える気なんて無かったんだぁ。君がもし大人しく私達と来るのなら、君の母の事も教えられるし何より……これ以上、こんな事をする必要も無くなるのだがなぁ~~」

 そう言いつつ男はレイの前で腰を落とし、未だに目を見開きフユに視線を送っている彼の顔面を観察し始めた。人を見る時の目付きでは無く、まるでモルモットを見る時の様な目付きで。一度ナメクジの様にねっとりとした舌が彼の口の隙間から露わになり、唇をぺろりと湿らせた。

 しばらくして状況を飲み込んだレイは男に目を向けると、その瞳は獣の様な眼光を携えていた。すかさず右手から氷棒を生成して大きくに振り上げと、

 「死ね」

 しかし男に振りかざすその直前、男はレイの腕をひょいと掴み上げた。腕が折れるのではないかと思ってしまう程の力を男は込めると、レイの表情は苦痛に歪んでいった。そんな様子の彼を嗤うかの如く顔をグッと近づけると、

 「余計なことしてみろ。お前よりも先にお前の家族を殺してやる。そうだな……まずは弟、次に妹。お前は最後だ」

 両端が吊り上がった男の口。レイはしばらくの間鋭い眼光を送らせていたが、やがて諦めたかの様にして目を閉じ自らの魔法を解除した。どうやら抵抗をする意思は無さそうだ。男はその様子を見てフンと鼻息を吐くと、

 「初めからそうしていろ、阿呆が。さっさと連れて行くぞ」

 レイを引き連れた男はそのまま玄関へと戻り始めた。その道中、先程彼が押し倒したフユとレイの目が合った。小鹿の様な大きな瞳、枯葉の様な委縮した顔。

 「お兄ちゃん……」と彼女は呟いた。

 レイはすぐに彼女から目を逸らした。代わりに白衣の男がその顔をフユの方に向けたが、相変わらずその表情は冷たい。

 「貴様等を連れて行くつもりはない……消え失せろ」

 フユは何も言わず顔を下に向けた。今度はフブキの横を通り抜けると、彼もフユ同様顔を下に向けている。まるで自らの内に広がる感情を抑え込むかの様にして強く閉じられたその両目に、食いしばられた彼の口。しかしそんな我慢もレイと男達全員が玄関から外へ出て、雪に足跡を付けた時には限界が来た。フブキはレイを追い掛けようと突如走り駆け、玄関を飛び出した。しかしその時、足元を掬われてしまいドサリと地面に倒れ込んでしまった。フブキは起き上がりもせずに去り行く兄の背中に向って右腕を伸ばすと、

 「待って!兄さん!僕達を……置いていかないで!」

 弟の言葉を聞きレイは振り返った。しかしその時の表情は――白衣の男の様な、冷たい物であった。彼のその表情を見てフブキは伸ばした腕をゆっくりと下げた。

 「兄さん……」


 「その後の事は余り覚えていないんだ。あの男が俺の体を弄っていた事は断片的に覚えているんだが、それ以外の事はもう……」

 「……そっか」

 そう話しているのはレイとフユ。アトラス要塞に僅かに残った城壁の上に座り、オルト国に続くアレキサンダー街道を見つめながら話している。彼らの真上に浮かぶ太陽は二人を燦燦と照らし、今の所その道の地平線は敵影の一人も映していない。ただ視界の遠くで両肩に木々のデコレーションを侍らせているのみだ。

 「フブキ兄さんを探しているって言ってたよね。でも……ごめんなさい、私もフブキ兄さんがどこにいるかは分からないの。レイ兄さんが去って、その後すぐに兄さんを追って家を出ていったんだけど、私はそれに付いていかなかったから」

 「そうか……フブキに会う事が出来たら、俺はあいつにも謝らなければならないな」

 「良いの……あの時、レイ兄さんが私達を置いていった事を私もフブキ兄さんも恨んでないよ。私達をかばってくれたんだもんね……」

 「違う……そうじゃないんだ」

 レイは僅かにかすれた声でそう言うと、思い出すはあの日の事。あの男に腕を掴まれ更に抵抗をしようかと思い巡らせていた時に映り込んだフユとフブキ。二人共その場で身を凍らせてはいたが、それでもその瞳には恐怖の片鱗が一つとしてなかった。寧ろ、そこからは殺気を感じ取れる程であった。それはつまり――。

 「あの時、俺がもっと抵抗していればお前達も合わせて戦ってくれてたんだろ?お前達がそれを待っていた事に、俺は気付いていたんだ。気付いていた上で俺は抵抗しなかった。お前達に傷ついて欲しくなかったから……いや、違うか」レイは目を伏せ、「俺は、お前達を信用出来なかったんだ。お前達の強さも、信念も、そもそも本当に俺に合わせて抵抗してくれたのかすらも分からなかった……だから……本当にすまない」

 レイのそんな話を聞いたとしてもフユの表情は変わらなかった。僅かに笑みを含んだその口からは、赦しの情が窺える。

 「……それも含めて『良い』の。だってそれが兄さんの優しさであり、不器用さだもん」フユはあ、と言うと、「そう言えばフブキ兄さん、レイ兄さんに嫌われてないか凄い心配してたよ。だから今度フブキ兄さんにあった時、ちゃんと兄さんが安心できるような言葉を言ってあげてね」

 「ああ……分かった」

 気付いた時には太陽が彼らの左側にずれ始めていた。相変わらず代わり映えのしない地平線に、すっかり紅葉し切った木々。カエデが夏の終わりを口ずさんでいる。しばらく無言の時間が続いたが、今の季節にぴったりな冷たい風が吹いた時になってフユが口を開いた。

 「ねえ、あの時兄さんを連れて行った白衣の人の名前、覚えてる?」

 「……忘れる訳がないだろ。アイツの名前は――」


 「アリスト。オルト国技術部門最高司令官だ」

 廃村・ミランダへの移動中の森の中、アーネールを背負ったエスとグレアは世界の状況についての話をしている。枝葉の隙間から漏れ出る日の光は二人の体を局所的に照らし、エスの首元にはアーネールの寝息が掛かってくすぐったい。周辺から魔獣の気配はしているが、エスとアーネールの中に眠る『化物達』の気配を察知しているのか、襲い掛かる気は無いらしい。

 「確か、前に獣機の話はしたよね?本当は私達も獣機の生成をしたいんだけど……出来ないんだよね。その理由は簡単。その獣機の制作方法が分からないからだ。その、アリストって奴が一人でその制作をしているらしい。既存の機械に魔獣を無理くりくっ付けて……本当に、作り方をアリストにご教授してもらいたいよ。彼の顔を知らないのが悔やまれるね」

 グレアは自分のポケットをガサゴソと漁ると、そこから黒色の指輪に似た物体を取り出した。彼女がイフリートと相対した際に使用した道具だ。

 「私達は獣機を作ろうとしていた時期があってね、結局それを作る事は出来なかったんだけど、その副産物の機械は沢山出来たんだ。それらを総称した呼び名が『魔具』。これはその内の一つ、魔具・バースト。指に填めて使用し、強力な魔法の塊を放出できる。まあ、その代わりに燃費がとても悪くって……私の場合は二、三発撃っただけで魔力切れしてしまうんだ」

 「そうだったんですね……俺はてっきり、マーナの民は魔法だけを、オルトの民は機械だけを使って争っているとばかり思っていました」

 「まあ確かに、マーナは魔法に、オルトは機械に自らのアイデンティティーを感じているんだろう。でも戦争はそんなに単純な物では無い。まあ要するに、使える物は何だって使う……って事さ」

 グレアはそう言うと大きく溜め息をついた。そしてぐっと口元を固めると、

 「それともう一つ、伝えておくべき事がある。イフリートの召喚士に関する事だ。彼が……今回の要塞攻略にて死んだ。いや、殺された。『とある人物』によって」

 「え……誰ですか?」

 「シニンだ。彼はどうやらオルトのスパイだった様だ。詳細は後々に話すけど、イフリートの召喚士を殺した……勿論、その後私がすぐに彼を抹殺したがね」

 エスとシニンは訓練時代には別班であったが合同訓練が何度もあった為、顔は覚えていた。堅物の、面白みに欠けるが生真面目な人間であるという印象であった。

彼が――。

 「問題なのはここからだ……先程も言った通り通常召喚士が死ぬとその人の手元に召喚士の結晶が生成される訳だが、無かったんだ。イフリートの召喚士の傍に、イフリートの結晶が」

 「……!それってつまり!」

 グレアはなんとか、鉛の様に重たい口を開く。

 「オルトのスパイがいる。シニン以外に、どこかに。私達が死体から目を離している内に、そいつがイフリートの結晶を回収したのだろう」

 「一体……誰が……」とエスは俯き、思考を巡らせる。

 「容疑者はあの要塞にいた全員だ。まあ、詳しい事は皆がミランダに到着した後に考えよう」

 エスはグレアの言った事を頭の中で整頓していると、とある疑問が湧いて出てきた様だ。僅かに眉をひそめると、

 「あれ……?何か、おかしくないですか?そのスパイはマーナの民なんですよね。どうしてマーナの民がオルトの民に与してるんですか?」

 「エス、それは講義の中で繰り返し言ったと思うんだけど……もしかして何も聞いてなかったの?」

 グレアが半ば呆れながらそう言った視線の先で、エスは恥ずかしそうに顔を赤らめた。事実、彼は訓練兵期間中に碌に講義を聞いていなかった。夜はアーネールと稽古をしていた為、その睡眠時間を講義中に充てていたのだ。

 「……すみません」

 誰に対する何の謝罪なのか少し分からなくなりながらもそう言うと、グレアは赦してくれたのだろう。彼女はニッと笑うと、

 「まあ、良いよ。さっきも言ったど、近年ではマーナの民とオルトの民、魔法と機械の境界線は曖昧になってきているんだ。特にオルト国内ではね。例えば『ヘイム』と言う街の一部ではオルトの民とマーナの民は共に暮らしているし、『ヒペリオン』の地下街の住人の殆どはマーナの民で構成されている。意外かもしれないけど、マーナの民がオルト国に住んでいると言う事は往々にしてよくあるんだ。恐らくシニンやその仲間もそう言った人達なんだと思う」

 そんな話をしている内に、延々と続く木々の景色が終わりを告げた。エスとメシアの元の住処を思わせる様な、周囲を木に囲まれた村。規模もファランジュと同程度で木造建築ではあるが、グレアの言った通り倒壊してしまった建造物も多く、人の気配は無い。一際目を引くものはその廃村の真ん中にある、屋根が軽い弧を描いた建物・『ハリス』。周りにある建物と比べるとかなり大きく、高さは三階程度であろうか。

 「ようこそ、廃村・ミランダへ」グレアはハリスを指差し、「あそこの大きな建物には地下牢がある。そこにアーネールを入れよう。彼女から話を聞いた後は、エス、君の中に眠るオーディンについて検証しないとね」


 地の底から巻き上がる炎と、死体が焼き切れて形を留めなくなるまで燃やされる匂い。マーナ軍の侵攻を妨げる難攻不落の城塞として繁栄の限りを極めたアトラス要塞は、そんな不愉快の極致に至りし物々と共に消え去った。たった竜の一息で、たった一日限りの輝きとなって。

 そんな要塞の上で現在、マーナ兵達は要塞攻略の後始末を行っている。

 バハムートの光線に生き残ったオルト兵達は獣機を用いてマーナ兵に対して最大限の抵抗を行ったが、それも虚しくエスがアーネールと共に帰還するよりも遥かに早く鎮圧されていた。その後は召喚獣・イフリートの結晶の捜索の続行、使用可能な獣機の選定、マーナ兵達の弔いが長時間行われている。

 アトリーもまたそんなマーナ兵に混じっており、見つめるはとある死体。炎に包まれ衣服も肉体も真っ黒な煤に変わり果て、頭部は瓦礫に圧し潰されている為パッと見ただけではそれが誰か分かる者はいないだろう――アトリーを除いて。彼女はただその死体の前で立ち尽くし、爪が手の平を貫通しそうな程に力強く手を握り締めている。

 「……ごめんなさい」

 アトリーがあらゆる感情を押し殺してそう呟いた時に、その死体の潰れた頭部と瓦礫の隙間から血が滲み出してきた。短時間その場にいるだけでは流れ出ているとは気付かない程にゆっくりと、しかし確実にその血液は円形状に領地を広げていき、留まりそうな気配はない。

 しばらくしてアトリーの足先にまで伸びてきた時に、初めて彼女はそれ程までに時間が経過した事に気が付いた。ゆっくりと、確実に。まるで呪いの様に。

 「あ、アトリー、こんな所にいたんだね。探していたよ」

 テレサがそう言って近づいていた時には彼女の踵まで赤色の領地は伸ばされていた。彼女の気を知らずテレサはいつも通りの様な口調で、

 「ねえ、聞いた?エスがタイタンと戦った時に――」

 その時、テレサが感じた『違和感』。彼女に近づいた瞬間僅かに抱いたそれは、テレサがほんの少し前にどこかで感じた何かであった気がした。具体的にそれが何かは分からない、しかしテレサの脳内にあったどこかの警報機が鳴り始めた気がした。

 「エスが……何?」

 アトリーがそう言って自分の方を見てきた時、テレサは自分の口が知らず知らずの内に止まっていた事に気付いた。その時のテレサは何故か分からないが、自らの違和感に従いそれ以上何も言う事は無かった。


 今日のネストは非常に穏やかだ。鳥のさえずりがそこら中から鳴り響き、遥か頭上では太陽が燦燦と降り注いでいる。エスにとってはそう言った天気が何だか嵐の前の静けさ、とやらに感じられた。

 何か大きな事が起きるのはないか。

 その様な漠然とした不安と期待が胸の内から湧き上がっているのを感じながら、ミランダ中心の巨大な建物・ハリスの地下牢にやってきた。その地下牢はそこまで大きな訳では無く、階段を下りてすぐ左右に三つずつの牢が合計六つあるのみだ。長年放置され淀んだ空気が溜まっているのだろうか、そこは何だか黴臭く空気もぬめりとしていて気色が悪い。鉄格子も所々が錆びており、その牢の内側には黒くくすんだベッドと簡易的な和式便所があるのみだ。アーネールを収容したのはそんな地下牢の中でも階段から見て一番奥の右側の牢。エスが彼女をベッドの上に寝かせるのを見届けるとグレアは、

 「うん、こんなもんかな。ありがとうね、エス。助かった」それから何かを思い出した様な口調で、「そうそう、君がオーディンを継承したと言う事を確かめたいからさ、一回上に行ってくれないかな。多分何人かが私達の後からミランダにやってきてね、その内の一人のフェルトに会ってくれ」

 そんなグレアの言葉が聞こえたのか聞こえていないのか、良く分からない表情でアーネールを見つめているエス。彼は僅かに目を細めると口をすぼめ、俯いた。

 「……やっぱりアーネールを殺すのは止めにしませんか?」

 しばらく静寂の時間が流れた後に発したエスの言葉は、グレアにとっては意味を成さない物だったのだろう。彼女は若干皮肉を含んだ口どりで、

 「エスがそんな事言うなんて意外だね。バハムートの継承者を最も殺したがっていたのは君だったと思うけど?」

 グレアの言葉を聞くとエスは歯を強く噛み締めた。吐き出したい様々な言葉を喉の奥に纏めて呑み込み、臓腑の内の感情を抑え込む。

 「……ごめんなさい、やっぱり何でもないです」

 魂の籠っていない口調でそう言うと、エスはグレアと目を合わせる事すら無くその場から去ってしまった。

 グレアはそんな様子の彼を見届けると、半ばよろけながらアーネールと同じベッドに腰掛けた。そしてずっと目を瞑ったままのアーネールの顔を見てフッと息を吐くと、

 「だってさ。君、中々に愛されてんじゃん。どうせ今もずっと聞いてるんでしょ?」

 グレアがそう言った時には既にアーネールの目は開かれていた。ゆっくりと体を起こすと両腕を上にググッと伸ばしながら、大きく欠伸をした。その後だるそうに後頭部を掻いた彼女の姿は、本当に寝起きの様にも見えてしまう。だが彼女はグレアの横に体を動かすと、

 「やっぱりバレてましたか」はぁと溜め息を付き、「寝た振りをするだけでも意外と疲れる物なんですね」

 グレアはそんなアーネールの様子に驚いた表情一つ見せる事無く彼女の隣に座り続けている。両手で顔面を覆ってしまうとアーネールと同じ位大きく溜め息を付き、

 「ホンッとに馬鹿な事をしでかしてくれたね。でもね、理由は分からなくも無いんだよ?だって君、時間がないもんね」

 「ええ……そうですね。固有魔法が使えなくなったり、過去の継承者の記憶が否応なく流れ込んでくると言った数ある召喚士の欠点の中でも、最も大きな物。それは――」僅かに間が空き、「継承後、十二年で必ず死んでしまう事です」

 そう断言したアーネールの語調は、分かりやすく震えていた。

 天井から伸びたランプは周囲を鈍く照らし、その周囲を小さな虫が数匹飛んでいる。虫が一匹近づきすぎたのか、ジッと耳障りの悪い焼き切れた音がそのランプからした。

 彼女は背中を丸めて両手をぐっと握ると、

 「私の寿命は後九年あります。でも……彼がオーディンを継承したのは十二年前。つまりいつ死んでもおかしくありません」

 グレアは同調する様に頷き、

 「そりゃ、焦るよ。これは座学の中でも言わなかったし、今更彼に言う事も……中々勇気がいるよね」はきはきとした口調に変え、「話が逸れてしまったね。今から君には色々な事に答えてもらう。手始めに……どうして要塞攻略中にバハムートを召喚したの?」

 「騒ぎを起こす為です。そして人々の目が要塞に向いた瞬間にエスを誘拐して、どこかで残りの人生を過ごすつもりでした」

 「マーナ軍事基地中枢に忍び込んだ理由は?」

 「マーナ軍内部にスパイがいる事を伝えたかったのと、私とエスの要塞攻略中の居場所を知りたかったからです。召喚士は召喚獣の気配に敏感になる為、誰かは分からずともどこかすぐ近くに私とエス以外にもう一人召喚士がいる事は最初から知っていました。それが誰かは今も分かりませんが……もしスパイがいると言う前提で要塞攻略の作戦を練ってもらわないと、あなた方があっさりと全滅してしまうかもしれない。それでは私の計画も元も子も無いので」嘲笑う様な笑みをその口に称えると、「後者の理由については私の杞憂に終わりました。恐らく怪しい者同士をくっつけて実力者がすぐ近くから監視する方向に舵を切ってくれたのでしょうが、そのお陰ですぐに行動に移す事が出来ました」

 「……質問のベクトルを変えようか。エスの話によるとバハムートの一つ前の継承者は君の母親なんだよね。君はオーディンの過去の継承者について知っているかい?」

 その質問を聞くとアーネールの顔が曇り始めた。薄く閉じられた瞼に、俯く彼女の横顔を覆う癖っぽい長髪。彼女は長く、細い息を吐くと、

 「……彼は私達の保護者の様な人でした。私達の家庭環境は……」言葉を選ぶ間が空き、「……余り良いものではなかったので。彼が代わりに私達の面倒を見てくれていたんです。彼が死に、エスがオーディンを継承した場面を私は見た訳ではありませんが、状況から考えるとあの人がエスの一つ前の継承者である事は確実だと思います」

 グレアは顎に手を当てると口を『へ』の字にして、

 「……成程ね。真偽についてはこちらで調べるけど、君が言った事は筋が通っている様に聞こえる。色々と答えてくれてありがとう。君の方から聞きたい事はある?答えられる範囲の事なら答えるよ」

 グレアのそんな言葉を聞いたアーネールの頭に一つ聞きたい事が浮かんできた。しかし明らかに境界線の向こう側にあるその質問を口にしても良いのだろうか、と彼女はしばらくの間口を噤いでいたが、遂に決心が付いた様だ。恐る恐ると言った口調で、

 「……これは質問ではなくお願いなんですが……エスはもう間もなく、寿命で死にます。せめてそれまでの間、どうか彼の残りの寿命の限りは、彼を殺さないでもらえませんか?」

 グレアは僅かに俯いたまま無表情に、

 「……それはどういう意味?」

 「あなた達はエスがオーディンを継承している事を知ってしまった。私がそれをずっとひた隠しにしていた理由は……」丸められた両手の力がぐっと増し、「もしこの事をあなた達が知ってしまったら、エスを殺害してより召喚獣の扱いに勝る者にオーディンを譲渡させるのではないかと思っていたからです。違いますか?」

 はっきり口調でそう言い切ったアーネール。彼女の言葉を聞いても尚、グレアは顔色一つ変える事は無かった。相も変わらず無表情に、アーネールに目を合わせる事無く黙ったままだ。しかしその様な姿勢と沈黙はアーネールにとって大きな意味を孕んでいた。彼女は断定的な物言いで、

 「私のバハムートは破壊されました。でもまだバハムートの固有能力である光線を放つ事は出来ます。そうですね、この距離なら瞬きよりも早くあなたを殺せるでしょう」

 「それよりも早く私は君を殺せるよ。だから私はこの距離にいるんだ」

 「……試してみますか?」

 グレアの言葉に挑発されたアーネール。彼女は手の平を丸めるのを止め、その視界にグレアを完璧に捉えると僅かに腰を浮かした。そして脳内でシミュレートするは命の終わらせ方――大丈夫だ。グレアがどの様な手を使ったとしても間に合うだろう。肝心の彼女は未だに俯いたまま不敵な笑みを浮かべている。

 明滅する照明とその周りを飛ぶ虫。敵の一挙手一投足を見過ごさんとするアーネールに、それとは対照的に何の行動も起こしそうにないグレア。またもう一匹虫がランプにジッと音を立てて焼かれ、呼吸を忘れてしまう程その場の緊張が最高潮に達した瞬間――。

 「冗談だよ!ただ君の本気度合いを試したかっただけ!エスを殺すつもりもない!」

 グレアはそう叫んで両手を上げた。しかし彼女に伸ばした腕を固定させたままのアーネールの表情は、未だに崩れておらず真剣なままだ。その姿には油断の欠片も感じ取れない。そんな彼女に対してグレアは両手を上げたまま、

 「君、ブーモを容易く殺したもんね。超絶手練れの彼が死んだ時点で、君はマーナ兵の誰よりも対人間の戦闘に強い事が証明されたよ」苦い顔付きを見せ、「それに君は知らないかもしれないけど、召喚獣を継承して九年程が経つと眩暈や吐血、嘔吐、最後には徐々に体が言う事を聞かなくなって死ぬんだ。でもエスにはまだそう言った症状が一切現れてないからね。もう少しの間、彼は生きる事が出来るはずだ」

 そんな説明を聞いたとしても、アーネールの表情は崩れる事を知らない。信じる訳が無いだろう、と言う目付きのまま、

 「嘘じゃないと言う証拠は?」

 「無い。けど君は信じるしかないよ。それに次の召喚士を選定するのには手間も時間もいるんだ。申し訳ないけど今の私にはそんな事をチンタラやっている時間がないからね。何も時間が欲しいのは君達だけじゃないんだよ」

 グレアがそう言って初めて、アーネールはその腕をゆっくりと下ろした。未だに彼女に対する懐疑心はあるのだろうが、戦う意思はもう感じ取れない。そんなアーネールを見るとグレアは安堵交じりの溜め息を大きく付いた。そしてベッドから身を離すと、

 「じゃあ、私はそろそろ行くけど逃げ出そうとか妙な事考えないでね」

 アーネールはそんな言葉を聞くと、複雑そうな表情で自分の右脚をさすった。何重にも包帯が巻かれ、もう今後一生動かす希望すらない右脚を。脹脛の辺りから骨は折れ、治る見込みは一切として無い。

 「……出来ませんよ。こんな脚では」


 本当に……本当にそうなのだろうか?とても信じることが出来ない。

 地上への階段を登るエス。彼が一歩一歩進む毎に足音が周辺に反響し、胃の中からは若干の吐き気が。階段の出口から溢れ出る光から察するに、地上には晴れ渡る空が広がっているのだろう。

 マーナの為、復讐の為ならこの身など幾らでも捧げて良いと思っていた。しかし、『こんなの』は余りにも非情が過ぎるのではないのだろうか――。

 「何だ?お前がエスか?思ったより冴えない顔をしているんだな」

 悶々とそう思っていたエスは遂に階段を登り切った。そこに待っていたのは白い髪をオールバックにした、女性にしては背の高めな人物。誰ですか、と言いたげなエスの気持ちを汲んだのだろう、彼女は右手を前に出し、

 「私の名前はフェルト、よろしくな」

 エスも右手を前に出し握手すると、

 「……よろしくお願いします。あなたがグレアさんの言っていた後からやってきた人ですか?」

 「ああ、そうだ。お前にオーディンについて教えるようアイツに頼まれてな。早速だがここで――」

 その瞬間エスの背後で轟いたのは一筋の稲妻。それと同時に視界は真っ白となり、ゴロゴロゴロ、と天空で巨大な太鼓が叩かれた。そしてその光が収まったときには、彼の背後に佇む馬とそれに跨る甲冑が。両者とも白を基調とした防具に身を包んでいるが、その首当てや背後に侍らせたマントはマットな紫が支配している。全長は十メートル程で、その手には甲冑と似た様な色をした刃渡りの長い槍が。

 フェルトはその召喚獣に目を奪われたまま、

 「成程……こいつがオーディンか……」それから思い出した様にして、「こいつは見ての通り手に持っている槍で戦う召喚獣だ。そしてその召喚士はありとあらゆる物体を切断する事が出来る片手銃、剣、手斧と言った九種類の武器を生成可能だ……実際にタイタンとの戦闘時にお前は剣を使ったんだろ?」

 エスが回顧するはタイタンとの戦い。あの時は何も分からず無意識に行っていたが、片手剣を生成していたのだろう。

 「同時に存在できるオーディンの武器の種類は一つだけで、それを変更するにはお前がその武器に触れてなければならない事は注意しておけ。それと召喚獣を召喚してからしばらく後に、召喚士の脳内に過去の召喚獣継承者の記憶が流れ込んでくる事があるらしい。だからお前の場合は過去のオーディンの召喚士の記憶がどこかのタイミングで垣間見ると言う事だ」あ、とフェルトは言うと、「言うのを忘れていたが、オーディンの武器は遠距離からも操る事が出来る。例えば戦闘中に武器を落としたとしても向こうから手の平に戻ってくる、みたいな使い方が出来るって事だな」

 「成程……分からない所もあるけど、取り敢えずよろしくな、オーディン」

 エスがそう言って振り返った先で、オーディンの白馬がぶるりと息を吐いた。その槍が陽の光を反射してキラリと輝き、甲冑がカチャリと音を立て互いにぶつかった。


 その翌日、要塞の清掃が完了した。その為、要塞の監視とマーナ国の治安維持の為に駐屯した者を除いた殆ど全てのマーナ兵が廃村・ミランダに招集された。後片づけが終わっても尚、瓦礫と炭だらけの要塞では被害状況の確認は不可能であった。


 そこから更に数日が経過したある日、エス、テレサ、アトリー、フユはミランダ中央にある建物の二階、病室にいた。

 その部屋には六つの病床が壁沿いに向かい合ってずらりと。壁も、床も、病室も、全てが真っ白に染め上げられたその部屋。その中の一番奥の右側、カーテンの手前側のベッドで伏した『彼女』を取り囲む様にして四人は椅子に座っている。

 「本当にお前が無事で良かったよ」エスは安堵した様な口調で、「メシア」

 「……うん」

 メシアはぼんやりとした口調のままそう言った。彼女の喉元には顎下から肩甲骨周辺にかけて包帯が何重にも巻かれており、窓の外から差し込むくすんだ光が彼女の体を照らしている。

 「その傷、もう殆ど治ってるんだって。その……シニンに刺されたんだよな?」

 エスがそう言うと、メシアはゆっくりと首を縦に振った。『シニン』と言う名前を出して良かったのかエスは一瞬迷ったが、皆の反応を見るに他の者達も彼がスパイであった事は既に告げられていた様子だ。ホッと安心したエスの気を知らず、テレサは彼の方に目を向け、

 「メシアもそうだけど、エスとも随分久しぶりに会った気がするな。ずっと何してたの?」

 「ああ、マーナ兵を連れてアトラス要塞やマーナ国とミランダを行ったり来たりしていたんだ。ほら、ネストの中を普通に渡ろうとすると魔獣に襲われちまうだろ?でも召喚士が近くにいると殆どの魔獣は姿を現さなくなるんだ。それでもたまに襲ってくる奴はいるけどな」

 エスがそう言うと、アトリーの脳内で思い出されたのはエスがアーネールと戦っていた時の記憶。エスが彼女に敗れかけていたその時に、テレサがその場に到着した事。

 「……そうだ、テレサ、何であの時エスの元に駆け付けに行ったの?」

 「ああ、あの時は偶然、森の中に降りて行くバハムートが見えたから、そっちの方向に走っていっただけだよ。結局、僕は何もする事が出来なかったし……」

 その次に要塞攻略の一場面を思い出したのはテレサだった。思い出したのは、森の中へと消えていくバハムートを追う為に持ち場を離れた際に、アトリーも同時に走り去った記憶。

 「……あ、そう言えばアトリーも僕と同時に持ち場を離れちゃってたよね……あの時、要塞に走って行ってたみたいだけど、その後何してたの?」

 アトリーは目を伏せたままいつもの様な気怠そうな口調で、

 「……特に何も。アンタと同じだよ。結局、何も出来なかった」

 「……そっか」

 ドン、とその瞬間大きな音が木霊したのはその部屋の入り口からだった。皆がそちらの方に目を向けると、開かれた扉とその奥から伸びる脚が。どうやら誰かがその部屋の扉を足で開けたらしい。その脚が扉の奥に消えると、そこからゆっくりと姿を現したのは――レイだった。

 彼は常日頃からそんな扉の開け方をしているのだろうか?

 そう考えたエスの思考を知る事無く、レイは病室を見渡し彼を見つけると、

 「おい、エス、外でグレアが呼んでいる。さっさと行け」

 「は……はい、分かりました」

 エスは椅子を引くとすぐに駆け足でその部屋を出ていった。レイはそれを見届けると今度は残りの者達に視線を移し、

 「それとお前等もだ。病人は安静にさせておけと言われなかったのか?」

 そう言って睨みつけた先にはフユ。彼女は凍てつく視線を感じると、ひゅっと息を詰まらせすぐに身を固めた。

 「ごめんなさい!レイ兄さん!」

 彼女は半ば叫びながらそう言うとすぐにその病室から飛び出した。そのままテレサとアトリーも出ていくと、その場に残ったのはレイとメシアのみとなった。

 レイはその事を確かめると適当にメシアの近くにあった椅子に座り、

 「おい、お前」

 「……はい、何でしょう」

 まっすぐメシアを見つめるレイ。メシアは彼の視線を避ける様にして自分の足元に目線を落としている。だが、彼女のそんな姿勢もレイの次の質問で壊れてしまった。

 「お前……何者だ?」

 思わずたじろいだメシア。

 『何者』と言うのは何の事を言っているのだろうか?出生地?魔獣の力?それとも――。

 「……私はメシアと言って、ギャザリアから――」

 「ああ、いや、違う、そうじゃない。言葉が足りなかったな」レイは少し黙った後、「お前は、人間か?」

 「……え?」

 メシアは彼の質問の意味がますます分からなくなってしまった。

 いや、違う。彼の質問の意味とそれに対する答えなんて物は分かっている。あの時に『彼女』から聞いたからだ。本当に分からないのは、なぜ彼がそれについて知っているのかだ。

 メシアの表情に出たその迷いをレイは好都合に受け取ってくれたのだろうか。彼は溜め息を付くと、

 「そうか……俺の勘違いか、お前がまだ気付いていないだけなのか……俺には分からない。だが、もし俺が合っているなら……そうだな、これだけは言っておく」レイの瞳にメシアが反射し、「そのまま人間の『振り』を続けろ。もしお前がそれを止めるなら、俺の氷がお前の胸を貫くだろうな」

 レイはずっとメシアを見つめていたはずだが、その時ほんの一瞬だけ、彼女を通してその中に蠢く『それ』を見通した気がした。

 レイは言いたい事を言い終えられたのだろう。そのまま席を立つと、メシアに後ろ姿を見せて病室を去ってしまった。メシアは彼の後ろ姿を見送り、その部屋の他の者達が眠りについている事を確認すると――。

 三日月を横に倒した様な異様な程吊り上がった目と口を顔中に携え、妖しく嗤った。思わず込み上げてきそうになった笑い声を抑えつける為に毛布に顔を押し付けたが、それでも毛布と喉の奥からどうしようもない程に声が漏れ出てしまう。

 「やっぱり……そうなのかな」


 エスが部屋から出ると、そこには左右に続く廊下が。病室の反対側には胸元から頭より少し高い程度の大きさの窓が定期的に並んでおり、その下には木製の手すりが窓と仲良く付き従っている。そんな窓際にもたれ掛かりながら待っていたのはグレア。彼女はエスを見かけるといつもの様に笑顔を浮かべ、

 「あ、エス、ちょっといいかい?スパイの事で進展があったから君に共有しておきたい」

 エスが僅かに顔を固めて頷くと、彼の後ろから突然走ってきたのはフユ。彼女はエスとグレアに目もくれずにどこかに走り去ってしまった。大方レイに何か言われたのだろう。更に彼女に続いて病室から出てきたのはテレサとアトリー。何かについて話しており、アトリーも表情には出ていないが割と楽しそうだ。彼女も案外話せる物なのか、とエスがぼんやりと思っていると、アトリーの視界にグレアが映った。彼女はグレアに向かって、

 「すみません、少し話したい事があります。二人になれませんか」

 グレアは僅かに顔をしかめるとテレサと目配せをした。何故そんな事をしたのだろうかと疑問を持ったエスを知らずに、グレアは再びその顔に笑みを浮かべると、

 「ああ、勿論良いよ。ただエスの後になるから三階の階段辺りで少しだけ待っていてね」


 振り返れば、ここまで長い道のりだった。だがそれもあと少しで終わる。いや、私が終わらせるんだ。今日、ここで。

 アトリーは二階に下る階段を見下ろしながらそう考えている。両手はポケットに入れ、背中を壁に預けた状態。夕日が窓越しに外から漏れ出ており、床に光が落とされて出来上がったのは長方形のシルエット。人通りはやけに少ないが、そのお陰で彼女は静寂に浸りながら思考に耽る事が出来ている。

 残り僅かな寿命を削り、数少ない仲間を失い、達成出来た使命は与えられた物の内半分のみ。それでも彼は私の事を赦してくれるはずだ。いくら彼が周囲から理由無く畏怖されていても、彼の瞳に宿る厚志の情はそれを否定している。もう……後はもう、私の事だけを考えれば良いんだ。それが終われば、私はどうなろうと構わないから。

 そんな事を考えているとコッコッコッ、と反響音が下の階から聞こえてきた。誰かの足音。徐々に大きくなり、誰かが三階に上ってきているのは明らかだ。

 「やあ、待たせたね」

 そのまま姿を現したのはグレア。いつもの様にその顔面には笑顔が張り付けられており、どうしようも無い程に気味が悪い。

 「いえ、問題ありません。早く行きましょう」

 アトリーはなるべく表情を変化させないように気を付けながらそう言った。グレアはうんと頷くと三階の廊下を歩き始めた。アトリーは彼女の後ろをピッタリと付いていっており、左側の窓から漏れる橙の夕日は徐々にその角度を落としつつある。目指す場所は誰もいない空き部屋。これから伝える話は誰にも聞かれてはならない内容。

 そのはずなのだが。

 アトリーは右を見てみると、そこには一定の間隔に似た様な形の扉が敷かれている。その扉は丁度見やすい場所がガラスで出来ている為、そこから部屋の内部を軽く見る事が出来るのだが、先程から通り過ぎているどの部屋も使われていない様に見える。ここは病室のはずだが、何故誰もいないのだろうか?まあ、私にとっては好都合な事だから理由なんてどうでも良いが。

 喉の奥にチクリと引っ掛かる物を感じているアトリーに、先程からポケットに入れられたままの彼女の両手。その左手を通して脳に伝わるのは固くてヒンヤリとした物体。余り物は喋らず冷たくはあるが、どんな時でも冷静でいてくれる。何だか最近無くしたものに似ているな、なんて事をぼんやりと思っていると、前を歩いていたグレアがその足を止めた。そのままドアノブに手をかけると、キイっと音を立てて扉が開いた。グレアはそのまま部屋の中に吸い込まれ、アトリーも廊下を最後にもう一度見渡すと中に入った。

 あと、もう少しだ。


 「あれ、テレサ、何だよその銃みたいなやつ」

 ハリスの内部、地下牢に続く階段に腰掛けながら話しているのはエスとテレサ。万が一と言う事もある為、そこで待機するようにとグレアに命じられたのだ。

 牢に続くその階段は下に進むにつれて暗闇の濃度が強くなっていっており、アーネールが眠る奥底は完全に闇に呑み込まれている。苔とカビに半分以上が呑み込まれたその階段は石造りのせいかヒンヤリとしており、座っているだけでもその臀部に冷たさが伝わってくる。

 「ああ、これ?」

 テレサがそう言って視線を向けた先にあったのは、非常に長い頭身とスコープを兼ね備えた狙撃銃に似た物。それ全体が黒色でマットな仕上がりとなっており、スコープの覗き込む部分はその胴体よりも太く、青色のガラスが填められている。テレサはその銃の様な物体を膝元に持ってくると、

 「これはスナイパーライフル型の魔具・『トロメル』だよ。ほら、僕は僕自身の魔法を制御できないからさ、グレアさんに相談したんだよね。そしたらこれを作ってくれたんだ。トロメルを通して僕の魔法を放てば、魔法の操作性が上がるらしい」

 エスは目と口を丸めた驚いた顔になると、

 「凄いな、それ!俺も魔具を使えば魔法を使えるようになるかな」

 テレサはクスリと笑って右手で軽く口を隠すと、

 「エスは武器を出す事が出来るんだからこんなのいらないでしょ?」

 だがその陽気な声音とは裏腹に、彼の右手が常に細かく震えている事にエスは気が付いた。自分で自分の臓物に孕ませた、巨大な不安と懐疑を目に見えない場所に追いやろうとしているのだろう。エスはそんな彼に同調するかの様な口調で、

 「……何も起こらないと良いな」

 エスのそんな言葉の意味は労せずテレサに伝わった。彼の手の震えは止まりはしなかったが、それでもエスのそれに似た口調で、

 「……うん、そうだね」

 そう言って見上げた天井は、今自分が座っている階段以上にカビに侵食されていた。


 「さて、この部屋なら誰も私達の声を聞けないはずだよ。言いたい事って何?」

 ハリスの三階、誰もいない空き部屋の中。アトリーがパタリと扉を閉めるとグレアはそう言った。アトリーは彼女の質問に答えるよりも先に、その部屋を見渡した。

 扉から入って両隣の壁に本棚。その中は半分程度が使われており、その本棚に挟まれる様にして部屋の真ん中にあるのは縦長の机二つ。それら二つをくっつけて机の縦長感を消しており、その周りには合計八つの椅子が。その机を挟んだ向こう側に窓が置かれているが、夕日は向きの関係上そこからは入ってきていない。そしてグレアの話の通りその部屋には誰もいなかった。まあそもそもこの階にいる人影も殆どなかった為、それは当然だが。

 ここなら大丈夫だろう。

 「……?どうしたの?君が話したい事があるとか言ったからわざわざ――」

 そう言いながらグレアが椅子に腰かけようとした瞬間、アトリーは動き始めた。

 彼女は一気にグレアの後ろまで回り込むと彼女の首の根を掴み、頭部をダンと机に叩き付けた。そのまま左のポケットにずっと隠し持っていた銃を出すと、グレアが何かする前に彼女の後頭部に向かって力いっぱい押し付けた。

 この一連の流れには三秒も掛からなかっただろう。それ程までに一切の無駄が省かれたその動き。それから僅かな静寂が流れ、グレアが座ろうとしていた椅子がカラン、と侘しい音を立てて倒れた時になってやっと、グレアは自分の置かれた状況を理解出来た。

 「叫ぶな。怪しい素振りを一瞬でも見せたら打ち殺す」

 微塵の同情や動揺が省かれたその抑揚の無い声。それはグレアの理解が勘違いである可能性をこれ以上ない程まで完璧に否定している。

 グレアの首を掴んだまま彼女に銃を突きつけるアトリー。机に上半身を突っ伏したまま、自らの後頭部に銃を突きつけられているグレア。床に倒れ、静かにその状況を見守っている椅子。太陽から放たれたその夕日は、窓と入り口の扉のガラスを通り抜け、グレアの横顔と彼女に突き付けられている銃口を真っ赤に燃やしている。

 「ああ、そうか……成程ね。つまり君が――」グレアは僅かに声を震わし、「オルトのスパイなんだね」

 彼女の名前はアトリー。『復讐』を果たす為に、マーナに来た。

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