罪巡る

緋櫻

罪巡る

 男は走っていた。暗い雪山の中で、何かから逃げきることを目指して。

 雪は男の膝の高さまである。足を積雪から抜き、前へ運ぶのは難儀であった。

 それに加えて夜闇である。暗くてよく見えず、どこに足を運べば良いかが分かりづらく、足元は覚束おぼつかない。

 男は後ろから気配を感じていた。まさに殺気。捕まれば命を奪われる、そのような危機感が男の胸中を支配していた。

「あ」

 不意に、男の体が前方に倒れた。雪に足を取られたことに気づくまで、そう時間はかからなかった。男の全身は雪に埋まる。

 その隙にと、背後から影が飛びかかる。雪に身動きを封じられた男は、成す術もなく追跡者におおいかぶせられた。

「このようになってしまった以上、どうなるかお分かりですよね?」

 若い女の、吐息混じりのかすれた声が男の上から降り注ぐ。

「どうか命だけは」

 男は震えながら声を振り絞る。冷や汗が男の頬を伝う。

「私の姿を見ておきながら、生きて帰れるとお思いなのですか」

 女に首筋をつかまれる。人の体とは思えぬほど冷たい手で触られ、男の背筋が凍り付く。

「姿を見たから何だと言うのだ。たったそれだけで私を殺すつもりなのか。理不尽ではあるまいか」

「たったそれだけで、と言いましたか」

 女の指先が男のけい動脈どうみゃくの辺りに回り込む。男の中を流れる血が冷え、全身がてつきそうである。

「あなたは、何も分かっていない」

 男の首を掴む女の指が、小刻みに震える。それが寒さによる身震いでないことは男にも分かった。今にも肉を引き裂かんばかりに、鋭い爪が男の首に食い込んでいた。

 が、しばらくして女の震えは止まった。

「とは言え、確かにあなたを殺すのは理不尽かもしれませんね。今日のところは見逃しましょう」

 女の手に触られる感覚がなくなり、女の体も男から離れた。男は起き上がる。

「ですが」

 女は男の正面に回り込み、その肩を両手でわし掴みにし、冷酷な顔面を男の前に突きつけた。刹那、その顔が月明かりに照らされる。

「ここで見たことは誰にも言ってはなりません。言えばあなたの命はないと思ってください」

 月影つきかげにより明るみになった、憎悪をたたえ、三日月のように引きった笑みを浮かべる女。今にも食らいつかんとするかのような野生丸出しの赤い目を前にして、男はうなずかざるを得なかった。

「お行きなさい」

 女は満足したのか、男を突き放した。男は尻餅をつき、しばらく呆気あっけに取られていた。血の気を失った男の頬が月光に照らされ、それを見た女の表情が揺らぐ。が、やがて男は我を取り戻して震えながら立ち上がり、その場から走り去るように来た道を戻っていった。再び月が雲に隠れ、辺りは闇に包まれる。女はもう追ってこなかった。

 一人残った女のつぶやきが吹きすさぶ風によってき消された。



 その次の夜。

 九死に一生を得た男は、再び日が昇るや否や、山から下りてふもとの自分の家に帰っていた。

「昨日は散々だった」

 囲炉裏いろりの横で胡坐あぐらをかきながら、あの時見た、恐ろしい表情の女を思い出そうとする。……いや、あれはもはや女とすら言い難い。人ならざる者である。

『私の姿を見ておきながら、生きて帰れるとお思いなのですか』

 女の発した言葉が男の脳裏によみがえる。今、こうして帰ることはできたが、これからも今まで通り生きていけるかはまた別の話である。昨夜は許されたが、もしかしたら気が変わって、また俺を殺しに来るかもしれぬ。そのような恐怖が男の頭を占めていた。

 この家には男一人が住むのみである。誰も男を守ってくれない。もし昨日の者が現れたら、抵抗することすらできないだろう。

 外は吹雪ふぶきである。心なしか、前よりも隙間風が強くなっている気がする。それだけ今夜は強い風が吹いているのか、それとも家が古くなってきたことの証なのか、あるいは。

 戸をたたく音がした。

 男に戦慄が走る。今、確かに戸は叩かれていた。決して吹雪による戸の揺れではない。

 戸の向こうに、誰かがいる。

 これが誰の仕業か、男は考えた。この吹雪の中である。余程の用事でないと人が来ることはないだろう。そう考えると、可能性は絞られてくる。まず男の頭によぎったのは、昨夜現れたあの女であった。

 殺しに来た。やはり、私のことを許していなかったのだ。命を奪いに、わざわざ吹雪と共に山を下りてきたのだ。

 男の体から血の気が引く。逃げたいが、足がすくんで立てない。

 留守るすよそおってこのまま放っておいても、もはや助かるまい。きっとあの者は私がここにいると確信して、強引に戸を開けてくるだろう。そして家の中に入り、ここで一人打ち震えている私を見るなり、獲物を捉えたかのような目で飛びかかって、そして。

「すみません。どなたかいませんか」

 戸の向こう側から声が聞こえた。それは、女の声。間違いなくそうだった。が、予想に反して、高く澄んでいる。昨日耳にした、おぞましい掠れ声とは全く違う。若く、りんとした、美しい声だった。

 思わず男は飛び起き、先程まで腰を抜かしていたことも忘れ、玄関まで急ぎ、そして戸を開けた。

 猛烈な風が、冷気を乗せて男に襲い掛かる。外の吹雪をじかに叩きつけられ、男は一瞬たじろいだ。が、戸の前に立っている者を見て、そちらに視線がくぎ付けになった。

 そこにいたのは、紛れもなく若い女だった。男よりも頭一つ分背が低い。髪は黒く、肩まで伸びている。男を見つめる目は穏やかで、とても男を襲いそうにない。

「どうされたのだ」

 男が口を開くと、女は頭を下げた。その際に、女の頭に積もっていた雪が地面に落ちた。

「道に迷ってしまいました。よろしければ、この吹雪がむまで休ませていただけませんか」

 吹雪の轟音ごうおんで掻き消されてしまいそうなほどか細い声で頼む女の姿を見て、男は目を疑った。女の身は、白い長襦袢ながじゅばんを一枚着ているのみであったのだ。

「この寒い中、ずっと外に?」

 女はこくりと頷いた。聞くまでもなく、紫色の唇がそれを物語っていた。

「そのようなところにいては、体が持たぬだろう。我が家の中に囲炉裏がある。さ、早く上がると良い」

 女は目を輝かせて、「ありがとうございます」と男に深くお辞儀をして、家の中に入った。

 戸を閉めると家に静寂せいじゃくが戻る。だが、家の中の空気は普段のそれではなかった。いつも男が一人で住んでいる空間に、女という異質なものが入り、男はどことなく落ち着けなかった。

 男がそそくさと囲炉裏へ向かう間、女は薄暗い部屋の隅で座っていた。

「ここが一番温かい。そのような端ではなく、ぜひこちらへ」

 男は先程まで自分がいた場所へ案内する。しかし、女は首を横に振った。

「いえ、ここでも充分落ち着きます。ありがとうございます」

 そう言って、女は初めて顔をほころばせた。心なしか、外にいた時より顔に生色せいしょくが戻っているような気がした。が、女ははっとしたような表情を浮かべると、真顔に戻って居直った。

「突然すみません。しばらくの間、ここにお邪魔させていただきます」

 女の真剣な顔つきを見て、男は冷静になって思い出す。今、この家にいるのは自分だけではない。どこからともなくやって来た女が、こうして自分のそばにいるのである。

 男は心の中で小躍りした。何と言っても、あのようなものに襲われた次の夜である。このまま一人でいたら、いつまた人ならざる者に襲われるか分からぬ。このようなおっかないことはない。それを和らげてくれる存在が現れたのである。うれしくないわけがなかった。

「お前が良ければ、俺からもぜひお願いしたい。何だったら、ここでしばらく暮らしていっても……」

 ここで男は、流石にまずいことを口走ってしまったことに気づき、慌てて訂正しようとした。

「い、いや。今のは何と言うか……」

「今の言葉に偽りはございませんか?」

 女の温かい目が、男をはっきりと捉えていた。

「え?」

「実は、私は生きていく伝手つてにも困っていたのです。もしご迷惑でなければ、お言葉に甘えたいです。もちろん、何でもやらせていただきます」

 男としては、これ以上ない幸運である。向こうが望んでいるとあれば、これはもう女を留めおくしかない。思わず女の手を両手で包み込んでいた。

「迷惑だなど、全く思っておらぬ。我が家で良ければ、ぜひ住んでくれ」

 女の手の温もりを感じながら、男は力強く言った。こうして女と共に住むことになった。

 話を聞いてみると、この女は身寄りがないということだった。帰る当てもなく、できることならずっとこの家に置いてほしいと言われた。そこで、男は女に頼み、ひとまず端女はしためとして男の家で働いてもらうことになった。

 それから女は、男のために尽くす日々を過ごした。食事を作るのはもちろん、掃除や洗い物など、家の中のことに関しては、男に一切の不自由をさせなかった。自分を顧みず、とにかく男を立て、まるで取りかれたかのように、自分に与えられた役目を全うしようとした。

 初めのうち、男は女のことを例の女への恐怖を紛らわすための存在としか思っていなかった。が、一つ屋根の下で共に過ごし、その温かな支えを受けていくうちに、やがて男は女にかれていった。気づけば二人は結ばれ、その間には五人の子ができていた。女と子の存在は、過ぎ行く日々にさらなる彩りを与えた。

 しかし、不思議なことに、いくら月日が経っても、女の美しさは変わらなかった。



 女が来てから一回りほどの年月が巡った。

 ある晩のことである。

 その日もまた、吹雪であった。強い風により、戸が小刻みに揺れている。その音を聞きながら、男は昔のことを思い出していた。

「思えば、お前と初めて会ったのも、このような吹雪の夜であったな」

 離れたところで五人の子が寝ている。起きているのは、男と女だけである。

 男は胡坐をかきながら、独り言かのように天井をぼんやりと見つめている。あれから長い年月が過ぎ、男の額にはいくつかのしわが刻まれていた。

「あの夜、俺は一人でいるのが怖かった」

 女は微かに笑みを浮かべながら、思い出にふける男の横顔を黙って眺めていた。相変わらず長襦袢一枚を着ているだけで、その肌の艶も初めてこの家に来てからほとんど変わっていなかった。男はどこか躊躇ためらった様子を見せたが、やがて何か決心したかのように一つ息を吐き、口を開いた。

「雪女を知っているか」

 女の眉がぴくりと動いた。

「あれを、俺はひどく恐れていたのだ」

 女の顔からさっと笑みが消えた。しかし男は気づかず、遠くを眺めるように話を続ける。

「お前が来る前の日のことだ。俺はいつも通り雪山に入っていた。だがその日、俺は途中で足を踏み外し、崖から転がり落ちてしまったのだ。幸い怪我は酷くなかったが、崖を上って戻るのに時間がかかり、気づけばすっかり日が暮れていてな。おまけに月明かりもろくに差し込まない夜で、周りもよく見えなかった。このままでは再び足を踏み外し、今度こそ無事では済まなくなるだろう。そこで俺は、近くに山小屋があることを思い出し、一晩雪をしのごうと、そこへ向かったのだ」

 男は目を閉じて、しみじみと語り続ける。

「暗くてなかなか見つからなかったが、すっかり夜が更けた頃に、俺は一筋の光を見つけた。近づいてみると、そこに俺の目指していた山小屋があったのだ。喜びに打ち震えて、俺は何も考えず戸を開けた。あのような真夜中に、まだ明かりがついていることに疑問を抱くこともなく」

 女が小刻みに震えているのに、男はまだ気づいていない。

「開けた瞬間に見てしまったのだ。山小屋の中にいた、恐ろしい雪女の姿を。『見ぃたぁなぁぁぁ』というおぞましいうめき声。俺は、このままでは殺されると思った。そして夜も明けぬ中、俺は山小屋から出て逃げようとした。だが、逃げる途中で私は雪女に捕まり、殺されかけたのだ。何とか命だけは助かったが、いつまた再び襲ってくるか分からぬ。そうして俺がおびえていた時だよ、お前が来てくれたのは……」

「あなたは」

 女がいつにも増して低い声になったのを聞き、男は思わず目を開けた。そして、息をんだ。

 そこにいたはずの女の髪は逆立ち、黒色は段々白銀はくぎん色へと染まっていった。肌も血色を失い、青みがかった白に変わる。優しげな目元は見る見るうちにり上がり、桃色の唇は鮮血のごとき紅色になっていた。

「禁を破った」

 女は男に飛びかかった。抵抗する間もなく、男は仰向けに押し倒される。背中が床板に叩きつけられて、僅かに板のきしむ音がした。

「まさかお前は……」

 あの時と同じである。女の鋭い爪は、男の首筋を確かに捉えていた。男にあの恐怖が蘇る。

「そうです。私がその雪女です」

 そう言って、女は獣のごとき血眼ちまなこで男をにらみつけた。吹雪のように冷たい吐息が顔にかかる。

「私は言ったはずです。私のことを誰かに言ったら、あなたを殺すと」

 鈍く、怒りのこもった声が家に響く。家がやや揺れているように感じるのは、外の吹雪が一層強まったからか。

「どうしてあなたは禁を破ったのですか」

 血管がはっきり見えるほど赤く変色した女の目には、失望の二文字がはっきりと表れていた。

「これだけ時間が経ったのだ、そろそろ言っても良いだろう、と思って……」

 男は震えながら答える。この震えを引き起こしている原因は、女の、冷えた鉄のような手に首筋を触られていることだけではないだろう。

「くだらぬことです。時間が解決できるようなものだとでも思ったのですか」

 女はうなるような低い声で、男に仕置きを突きつけた。

「あなたには死んでもらいます」

 女の爪が男の首を掻き切らんばかりに食い込んでくる。男は戦慄し、必死に声を絞り出す。

「待て。どうして俺を殺さなければならぬのだ。今まで一緒に過ごしてきた仲じゃないか」

 男は息も絶え絶えになりながら尋ねた。首を押さえつけられ、意識が遠のきそうである。しかし女は、苦しい言い訳をする男を蔑むように、紅い唇の端を吊り上げるのみ。

「分からないのですか? 要は口封じです」

 氷のような女の手の冷たさが、触られた男の首に伝染していく。

「私の秘密を誰かに言いふらすような者を生かしてはおけません。それがたとえ、私の亭主であっても」

 あの時と同じような引き攣った笑みを浮かべ、にべもなく答える女に、男は引っかかるところがあった。

「一つ聞いても良いか」

 首が長い間冷やされたせいか、喉の水分も凍ってしまったかのように感じ、うまく声が出ない。そのせいで微かに声が漏れ出ているだけのようになってしまった。が、男の首を掴む女の手の力が若干緩んだ。

「どうせ死ぬのです、お答えしましょう」

 そう言うと、女は手をどけた。その隙に、男は自分の両手で首を包み込み、温度を取り戻そうとする。そして深く息を吐いて呼吸を整え、一つせき払いした後、女の目に焦点を合わせた。

「どうして今、俺を殺す? 口封じが目的であれば、あの時から殺しておけば良かったじゃないか」

 女は少し考えてから頷いた。

「確かにそれはそうです。本来なら、あの山小屋で初めて見られた時点で、あなたを殺しても良かったのです」

 口は笑っているが、その目は素っ気ない。男には女の真意がまだ見えていなかった。

「ですが、私はあなたに山小屋の中を見るなとは言っていません。そう言う前に、あなたは私を見てしまっていましたから。禁を破ったわけでもないのに殺すというのも理不尽でしょう。だから、殺さないでおいたのです」

 男は女に捕まった時の光景を思い出す。正面から雪に埋もれ、背後から乗りかかる女に殺されかけている自分。故意でもなく、戸を開けた途端たまたま女の正体を見てしまっただけなのに、何故か殺されようとしている。何という理不尽なのか。そう叫んだはずだ。

「しかし、です。今のあなたはあの時と違い、禁を破ったという罪があります。だから、今度こそ本当に死んでもらいます」

 話が一区切りついたところで、女はまた男を押し倒し、その首をがっちりと掴み、締め付け始めた。眉をしかめ、歯ぎしりをし、男だけでなく、まるで女自身まで苦しめているかのように。

 その表情を見て、男からある感情が消えた。それと同時に、さらに気になることが浮かんだ。

「ちょっと待て。もう一つ聞いて良いか」

 今度は喉まで凍り始めないうちに、女の前に平手を突き出した。

「またですか。しつこいですよ」

 女は額に縦皺を寄せ、明らかに不愉快そうな表情になる。

「どうしても気になることがあるのだ。これを聞かないと、死んでも死にきれぬ」

 男は是が非でも譲らない。女の吊り上がった目から決して視線をらさず、逆に女に対して強い眼差しを向ける。しばらく睨み合いが続いたが、やがて女が折れた。

「分かりました、許しましょう。ただしこれが最後の質問です」

 女は、仕方がないといった様子で、再び手を放す。男は先程と同じく、首元を温め、一度落ち着く。そしてもう一度女をよく見てみる。

 血がかよっていないと言っても過言ではないほど青ざめた顔、対照的に真っ赤に充血した白目、そして真一文字に結ばれた真紅の唇。

 全て、相手を畏怖させるに足る要素である。だが今の男は、それらを目の前に突きつけられながら、毛ほども怖いと思っていなかった。

「どうして、俺を殺すことを躊躇っているのだ」

 途端、それまで余裕を含んでいた女から唾を飲み込む音が聞こえた。

「言葉の割に、殺気を感じぬ。俺を殺すことに、迷いを抱いているように見える」

「そのようなことは……」

 ない、と言おうとするも、女の声は冬の寒気に溶けてしまう。白い息だけが、女の口から漏れ出た。女は目を泳がせ、男と視線を合わせなくなった。構わず男は続ける。

「かつて雪山の中でお前に襲われた時は、もっと殺気を感じていた。暗くて顔もろくに見えなかったのに、それでも捕まった時には死ぬような気がしたのだ。だが、今お前から、俺を殺そうとする気概を感じぬ。そのせいで、お前のことを怖いとは思えぬのだ。それでもお前は、本当に俺を殺すのか」

 男が言い終わると、辺りは沈黙に包まれる。女は目を横に逸らし、何も答えない。答える気がないのか、と男は直感した。だが数秒の後、女は、ふう、と溜息ためいきき、話し始めた。

「あなたの言う通りです」

 女は男に、背けていた視線を向けた。そのまなじりは吊り上がっていたものの、睫毛まつげを悲しげに伏せ、まるで人間に戻ったかのような目をしていた。

「私には、あなたを殺すことができない」

 そう言うと、女は血みどろの両目を大きく見開いた。今にも飛び出しそうな眼球を前に、しかし、男はもはやじ気づかなかった。いくら人を脅せる道具を持っていたとしても、それに殺気が伴っていないと、恐怖は減ずるものである。

「どうして……」

 男は尋ねた。だが女はそれには答えず、悲しそうに再び目を背け、ただ首を横に振るばかりであった。

「たとえ殺せなくても、あなたに禁を破られた以上、一緒に住むことはできません。これでお別れです」

 女は弱い北風のような息を吐き、男から離れる。しばしの沈黙。囲炉裏の火の音だけが目立って聞こえる。

「それが、命を奪う代わりの罰ということなのか」

 男にはそう尋ねるのが精一杯だった。

「そういうことです。私はこの家を出ていきます」

 先程までの悲哀に満ちた調子はどこへやら、淡々と言い放って女は立ち上がる。

「待ってくれ!」

 つられて男も立ち上がり、戸に向かおうとしていた女の正面に回り込み、その退路を塞ぐ。

「別れない方法はないのか」

 男は両腕を横に広げ、女と対峙たいじする。

「ありません。私は禁を破られてまで、人間と一緒には住めません」

 女は男の腕をどけようと、氷のように冷えきった手を伸ばそうとした。

「出さぬぞ、この家から」

「禁を破ったくせに、この期に及んで我儘わがままを言うのですか。さてはあなた、反省していないのですね。見損ないましたよ」

 手を止める代わりに、女は鋭い目つきを男に向けてその顔をうかがう。殺気立った瞳に見つめられ、思わず男はたじろいだが、すぐに平静を取り戻してはっきりと言った。

「違う。反省しているからこそ、俺はお前をここから出すわけにはいかぬのだ」

 男は伸ばされた女の手を両手で包み込むように掴み、下ろさせる。強く握ったのに、その手は温まらないばかりか、逆に女の手の冷たさが男の手の熱をも奪っていき、思わず男は女から手を放し、両手を擦りつける。

「では聞きましょうか。禁を破ったことを省みているなら、何故私をなおもあなたの元に縛り付けようとするのか」

「いや、そうではない」

 男は自分の吐く息で手を温めなおし、女に向き直った。

「俺はお前が望むなら、つながりを断っても構わぬ。だが、何故お前が家を出るのだ」

「どういうことですか」

 女は血走った眼で鋭く男を睨みつける。

「悪いのは俺なのだろう? そうであれば、俺が家を出てしかるべきではなかろうか」

 その瞬間、女は明らかに目を見開き、男の目から逃げるように視線を斜め上に持っていった。

「別に良いでしょう、細かいことは。ここは元々あなたの家です。たもとを分かつのであれば、身を寄せている私が立ち退くのが手っ取り早い」

 言いよどみながら、男の横を強引に素通りしようとする。それを男は再び腕を伸ばして、尚も女の進路を妨げる。

「それはおかしい。お前は俺に裏切られただけで、何も悪くない。なのに、まるで罪人かのように家を出ようとする。どうしてだ」

 男の目には確かな炎が宿っていた。女はしばし黙り込み、困ったと言わんばかりに溜息を吐いて口早に言う。

「私が望むのは、あなたと縁を切ることです。その際に、あなたが家を出るか、私が家を出るか、というのは問題ではありません」

「違う。禁を破ったのは俺だ。だから俺が罰せられるのが条理であるはず。お前が損をするような目に遭う必要は……」

 そこまで言ったところで、女が男を手で制した。

「もう、良いです。あなたの言いたいことは分かりました。……全く、あなたは本当にこういうところにこだわりますね」

 どこまでも生真面目に自分の罪を受け入れようとする男の態度に呆れ、女は嘆息する。

「要は、あなたにとっての罰とは、私と共にいられなくなるということよりも、家を出るということなのですね」

 女は一回り背の高い男を見上げる。

「共にいられないことが罰になるなら、俺だけでなくお前も罰を受けることになる。それはおかしい」

「確かに、そう捉えられますね」

 肩先までかかった白い髪をかき上げて、女は男の言い分を聞き入れた。

「で、家を出ることが罰だとして。あなたではなく、私が罰を受ける理由を知りたいのでしょう」

 男は静かに頷いた。

「それを説明するためには、まずこの話をしなければなりません」

 そう言って、女はその場に座り込む。居住まいを正し、対話に応じる意思を示す。それを見て、男も腰を下ろした。

「私があなたに禁を押し付けていたのは何故か分かりますか?」

 男は何の話だろうと思いながらも、素直に答える。

「お前が雪女であると知られたら困るから?」

「まあそのようなところです」

 そう言って女は目を閉じた。白い睫毛が隙間風にほのかに揺れる。

「では、何故私が正体を暴かれたくないか、あなたは知っていますか?」

 男は首を傾げた。男が何も答えないと見た女は一拍おいて続ける。

「そうですか……それを知らぬのであれば、のも納得です」

 男はその意を捉えられず目を丸くする。

「では質問を変えましょう。あなたはこの山における雪女の伝承を聞いたことがありますか?」

「昔、この山の雪女が、赤ん坊を殺した、という伝承か」

 女は、ええ、と前置きした上でこう続ける。

「正確には、殺そうとした、というのが正しいです」

 女は静かに語り始める。外の吹雪の音が静まったように男は思った。

「元々雪女は、山の麓の村に住む人間と仲が良かったのです。このような人ならざる姿であっても、村人は雪女を受け入れていた。見た目が異なっていても、心は一つだったのです」

 男は改めて女の見てくれを確かめる。肌も髪も雪のように白く、唇は鮮血を塗ったように紅い。背丈こそ人間のそれと変わらないものの、その特異な風貌は人の中に紛れていれば異様に見えるに違いない。

 それでも女は村人たちから認められていた。これはきっと、自分に対してここまで尽くしたのと同じように、村人たちに対しても献身的に振る舞っていたからに違いない、と男は直感した。

「ある日、雪女と親しかった村の女が、自分の赤ん坊を雪女に預けました。数日旅に出るので、その間赤ん坊の面倒を見てもらうためでした」

 どこか他人事のように語る女に違和感を覚えた。これから話すことが自分の起こしたことであるという事実を忘れたいという表れだろうか。

「雪女は快く世話をしようとしました。しかし、雪女が赤ん坊を抱いた途端、赤ん坊が泣きだしてしまったのです。いつもそばにいる母親がいないことで寂しいのだと思い、必死に抱き続けました。これが間違いだったのです」

 ここで女は語勢を落とす。

「雪女の体は冷たい。赤ん坊が長い間抱かれ続けたらどうなるか。まあ、少し考えれば分かる話ですよね」

 そう言って、女は皮肉っぽく笑った。

「その日以来、村人が雪女を見る目は冷たくなりました。それはまるで、雪女に凍らされる寸前だった赤ん坊かのように」

 ただでさえ色白な女の顔が、さらに色を失ったように見えた。男は返す言葉も見つからず、ただ口をつぐむのみだった。

「こうして雪女は、赤ん坊を殺そうとした罪人として、村人の信頼を失いました。それが伝承に残っているのです」

 女はうつむいたきり押し黙ってしまった。長い沈黙が家中を支配する。男が何か言いかける前に、しかし女は再び口を開いた。

「だから私は知られたくない。いや、知られるわけにはいかないのです。雪女が、人間たちから嫌われている以上」

 女は再び首を横に振る。その目には諦めの色が出ていた。

「あなたにこれまで見せていたのは、雪女ではない至って普通の女の姿でした。ですが、それは偽りの姿。真の姿を見せまいと誤魔化していたに過ぎない。皆に私が雪女であることを知られないようにするために」

 そこで女の話は途切れた。女が一通り話し終えたと見て、男はようやく声を発した。

「それで、俺の勘違いとは結局何なのだ」

 男は気になっていたことを投げかける。

「あなたは私に罪を犯したと思っている。ですが本当は私があなたに罪を犯しているのです」

「だからどういうことなのだ」

 一拍おいて女は頭を上げ、視線を男に向けた。

「あなたがその赤ん坊なのです」

 そう言って、女は男に近づき、その顔にそっと手を触れた。鋭い冷たさが男の頬に伝わり、近づいた女の口元から冷たい息がかかる。

「その頬の傷」

 女の目は、男の左の頬にある、指の形をした凍傷の跡を見据えていた。

「まさしく私が赤ん坊を抱いた時にできたものです」

 男は、そんな馬鹿なことがあるものかと否定しようとした。自分が赤ん坊の頃に抱かれた女が、自分と同じくらいの年頃であるわけがないと。だがその時、女が一向に年を取っていないことに男は気づいた。

「つまり、禁を破ったあなた以上の罪を、私は既に犯しているのです」

 女は冷たい悲しみに押し潰されそうな声で呟いた。

 あの日、男を雪山で襲い、そこで月明かりに照らされた時、この傷跡が女の目に映った。その時、女は気づいた。

「私はこの男を殺せない。殺してはならない」

 そして決意した。この男に償うことを。

「そもそも私の身勝手でこの家に居続けていただけなのです。あなたの世話をすることで、少しでも罪を償えるだろうか、とあの時は思っていました」

 男は呆然ぼうぜんとしていた。

「ですが、それはできなかった。どれだけ長くこの家にいても、あなたへの罪の意識は消えなかった。そうである以上、私が出ていくしかないのです」

 女は悲しそうに呟いて再び目を伏せた。女の体から微かに風が巻き起こる。風は段々と勢いを増し、いつしか外の吹雪かとまがうほどにまで強まった。

「それが、あなたに対する私なりの罪の償い方ですから」

 風の音に掻き消されそうな弱々しい声で女がそう言うと、強い風が戸を開け放つ。待ってくれ、と叫ぶ間もなく家の中に吹雪が舞い込んできた。男は思わず目をつぶる。

 目を開けた時には、もう女はいなかった。

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罪巡る 緋櫻 @NCUbungei

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