第7話:はじまりの一滴
夜明けが近づいていた。
屋台ののれんがゆらりと揺れ、空気が少しずつ冷たさを増していく。
けれど、おでん鍋の中は、静かに、確かに熱を保ち続けていた。
まるで、そこにいる者たちの意思が、火を絶やさずにいるかのように。
「……ちくわ、いなくなったな」
誰ともなく呟いたその言葉に、だしの表面が静かに揺れた。
彼の抜けた場所には、小さな気泡がいくつも浮かび、すぐに消えた。
その場にいた者たちは、みな言葉を持たなかった。
がんもどきは目を閉じていた。
しらたきは何か言いかけて口をつぐみ、こんにゃくは自分の影をじっと見つめていた。
ちくわが刺された夜の記憶は、まだ温かいまま残っていた。
「……彼の“味”は、きっと忘れられないものになるだろう」
そう呟いたのは、黒はんぺんだった。
彼は関西系の具たちからは「色が違う」と距離を取られがちだったが、言葉の端々に品があり、みな一目置いていた。
「味だけじゃない」
がんもどきが目を開けた。
「彼が残した“言葉”も、だ。……俺たちは、食われることを、終わりと捉えるべきじゃない」
「でも……」
しらたきが口を開く。
「刺されたら、何かが……変わってしまうんでしょう? それって、やっぱりこわいよ」
「怖いのは、当然だ」
がんもどきは静かに続けた。
「だが、その変化の先にしか、“意味”はない。刺されることを選ばなければ、俺たちはただの“煮物”で終わる」
言葉の端に、かつて魔王だった者の力がにじんでいた。
しらたきは何も言い返せず、じっとだしの流れを見つめるしかなかった。
そのときだった。
鍋の底のほうから、ボコッ、と気泡が弾ける音が響いた。
「……おや、聞き慣れない音だね」
黒はんぺんが目を向ける。
もう一度、ボコッ。
今度ははっきりと聞こえた。
「誰か……来る」
がんもどきが身構えたそのとき、鍋の奥のほうから、何かが浮かび上がってきた。
ゆっくりと浮上してきたのは……赤いヤツだった。
「……ンナー」
言葉のような、湯気のような、何かが発された。
その見た目は明らかに異質だった。
ツルンとした肌、プチッと弾けそうな質感。香ばしいような、スモーキーな香り。
「おい……おまえ、ウィンナーじゃないか?」
こんにゃくが目を丸くする。
「アカ……クチュン……ナベ……ハツ……」
そのウィンナーは、カタコトのような言葉を発していた。
「言葉が……通じない?」
「いや、通じている。たぶん……少しだけ、違う鍋から来たんだ」
がんもどきが目を細める。
「他鍋転生者、か」
「え、なにその概念!?」
しらたきがツッコミを入れるが、誰も説明はしなかった。
「名を名乗れ」
がんもが問うと、ウィンナーは胸を張って叫んだ。
「ナマエ……プチ・レッド!」
……鍋に、妙な沈黙が流れた。
「プチ・レッド……!?」
こんにゃくが言いかけて吹き出す。
「だめだ……かわいい」
「ちょっとまって、赤ちゃんじゃないよね?」
しらたきがジト目で見つめるが、プチ・レッドは誇らしげだった。
「ボク……マモル。アツアツノ、ナベ、マモル」
がんもどきはその言葉に目を細めた。
「……お前も、この鍋に何かを見出して来たんだな」
「ウン!」
プチ・レッドの目がキラリと光った。
その瞬間、誰もが感じた。
この鍋に、変化の兆しがある、と。
「それにしても……あの串の動きが、止まっている」
黒はんぺんがそう呟いたのは、その直後だった。
串は、鍋の隅で静止していた。まるで、次に刺す相手を探しあぐねているようだった。
「これは……選ばれていない、ということか?」
がんもどきは串の位置を見つめながら言う。
「それとも、まだ鍋が……“育っていない”のか」
沈黙が流れる。
そのとき、プチ・レッドがふと、鍋の外に向かって指をさした。
「……アメ」
屋台の外で、ぽつりと雨が降り始めていた。
夜の匂いを連れてくる、季節の境目の雨。
がんもどきは、その一滴の音を聞きながら、ふっと目を閉じた。
「なるほど……はじまりの合図、か」
その声に、鍋の具たちは何も言わず、耳を傾けていた。
どこかで、何かが始まっている。
そしてそれは、鍋の中の誰かの“味”を変えていくのだろう。
これは、だしの中に生きる者たちの物語。
変わり種が現れ、串が止まり、雨が降り始めた夜。
きっとこれは、まだ序章にすぎない。
だしの温度は、まだまだ上がっていく。
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